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寵妃の憂鬱  作者: 一条さくら
間章
20/35

あの日あの時あの場所で 2

 その後、目を覚ました少女―――ルリコは大層取り乱していた。恐らくルリコが昏倒してから然程時間は経っていなかったのだろうが、中々目を覚まさないルリコの側に付いていた私にとっては、永遠にも似た長い時間に思えたのだ。端から見ればその様のなんと滑稽だった事だろう。然し私にとっては本当に真剣そのものであったのだと、弁明する。


『まさかこのような事…嘘、幻でありましょう。これは夢でございましょう? ああ、私の家に帰りとうございます、帰りとうございます!』


 『落ち着けと』宥める私の声すら聞こえないとでも言うように、そればかりを泣き叫ぶルリコの悲痛な声は私の胸を容赦なく抉っていく。どうしてルリコがこのように取り乱しているのか、私には分からない。然しその余りにも痛々しい叫び声に、私はただルリコの手を握り、抱きしめ、側で宥める事しか出来なかった。


『大丈夫だ。だからもう、泣くな』

『私は何故こんな場所に流れ着いたというのでしょう? 私の家はこの世界の何処にも(・・・・・・・・・)存在してはいない(・・・・・・・・)というのに』


 それはどういう意味だと理由を問う事すら出来はしなかったが、私の中で膨らんでいくある疑念は、どうしてか私の心に澱のように降り積もっていく。

 何故あのような森の中に居たのか。この世界の何処にも家は無いのだと言うが、それはどのような意味を持っているのか。


『珍しい色をそなたは纏っているのだな。まるで夜空を切り取ったかのような見事な漆黒だ。その目も、髪も、なんと珍しいことか』

『そう、なのですか? 私の世界では然程違っては、おりませんでした』

『そうか』


 これまで接してきた女共のように適当にあしらう事など出来はしない。泣いて泣いて泣き伏し、ルリコ自身の涙が枯れ果てる頃、ルリコは泣き疲れたのかぐったりと寝台に横たわった。ルリコと出会った当初の輝くような生命力は日に日に失われていき、それらの光景は数日に渡って続いていった。





 ―――私とルリコが出会って三日目の事。ルリコは漸く現実というものを受け入れ始めたのか、はたまた単なる現実逃避なのか、泣く変わりにぼうっと空を見つめる事が多くなってくる。

 側近達に命じてルリコに合う服を身繕い、今は私が見慣れた女性物の衣服を纏っているルリコは、けれども何かに違和感を覚えたかのように眉を寄せ、或いは驚いた様子で衣服を摘まむルリコをそっと眺めた。


『ルリコ、如何した?』

『何でもございません』


 小さくそう呟いたルリコは、月の浮かぶ夜空を見上げ、太陽の浮かぶ昼間の空を見上げて『ここは私の世界ではありませんのに』と悲し気な声を上げるのだ。


『どうぞ私の事は捨て置かれませ。あなた様がどのような御方かは存じ上げませんが、私の事なぞ打ち捨てられませ』


 悲しいと、そう痛い程心の奥深くで叫んでいるだろうに、決して涙を再び見せはしまいと唇を噛むルリコが痛々しい。私に助けてと言えば、幾らでも助ける事が出来るというのに、触れれば消えてしまいそうな空気を纏うルリコに無理強いする事など出来はしない。

 けれどただ一度、はっとした様子で些か明るい表情を見せたルリコは、『私が持っておりました鞄はどちらにございますか?』と問いかけた。

 そう言えば森から出る際に革袋はそのまま捨て置いたのだったか。側近達に命じて森の中を捜索させたものの、獣の仕業なのかその鞄とやらが見つかる事は無かった。


『お手間をお掛けし致しました。かたじけのうございます』


 消えかけたその声に覇気はなく、出会った当初に着ていた服をぎゅっと握りしめたルリコは再び沈痛な表情を浮かべて沈んでいった。

 どうしてそのように嘆くのか。私自身が何も出来ない事が歯痒い。このような思いを抱いたのは恐らく私の生涯で初めての事ではないだろうか。


 微かに口元に笑みを浮かべたルリコを見ると嬉しさが私の胸を満たしていく。

 悲しそうに眉を下げたルリコを見ると、苦しさで息苦しくなる。

 楽しそうに目を輝かせるルリコを見ると、私も楽しくなる。


 不思議なものだ。私がこれ程、普通の人間らしい(・・・・・・・・)感情を抱くなど。その体に触れ、愛しさが溢れるままに交じり合えばどんなに満たされる事だろう。想像した瞬間、背筋を歓喜が走った。


 王都に残したリュウホウからは早く王宮へ戻るよう矢の催促を受けていたものの、精神的にも肉体的にも不安定なルリコを放っておく事など出来はしなかった。

 純粋に、ただ迷い子のようなルリコを案じていた訳ではない。第一、ルリコを助けた所で私に利となるものなど無いのだから、捨て置けば良いのだと頭の片隅で囁く声が聞こえる。

 しかしそれ以上の大きさで、『絶対に目を離すな、手放すな』という警鐘が鳴り響いていたのだ。恐らく私がその手を―――或いは目を―――放した瞬間、ルリコは何の痕跡も残さず儚く消えてしまうだろう。それは水溜りに落ちた水滴が水面に微かな波紋を残してぽとりと溶けて消えるように、跡形も無く。


『ルリコ』


 側近達は何が気に食わないのか、警戒心を解く事無くルリコと接している。とはいえ、出来る限り側近達からルリコを遠ざけてるから、ルリコと側近達が顔を合わせるのは、側近達が食事を持ってきた時か、或いは私を呼びに来た時位のものだ。

 本当ならば早めにこの場所から移動させた方が良いのだろうが、ルリコの状態を見る限り、安易に環境を変えるのは得策ではない。大体、ただでさえルリコの精神には相当な負荷が掛かっているのだから、追い詰めるような真似をする訳にはいかないのだ。

 だが、一生このままという訳にもいかないか。さて、どうするべきなのだろうか。

 ルリコと出会って五日目になってそう思い始めていた頃、それまでは散々小言めいた言葉しか吐いて来なかった側近達が珍しく冷静な口調で私に疑問をぶつけてきた。


『何故、あの少女をそこまで気に掛けるのですか、陛下』

『ヒグマールの言う通りです、陛下。あのような少女、陛下が気になさるような人間ではないでしょう』

『陛下のお側に何処の娘かもしれぬ少女を置く事は、許しがたい行為ではありませんか』


 何故、か。全く回りくどい事を言うものだ。きちんと答えてやる義理は無いが、ルリコが気にしてはいない―――というよりは今はそこまで頭が回っていないだけだが―――側近達の目に余る態度は頂けない。

 怒りを堪えた表情を浮かべる側近達はルリコが眠る天幕を憎々し気に見つめている。天幕越しとはいえ、良い度胸だと側近達が口を揃えて話す黒い笑みを浮かべて微笑んだ。


『さあ、何故だろうな』

『陛下!』

『ただ、手放したく無い。それだけだ』

『それだけなどと…』


 今更信を置く側近達を前に煙に巻くつもりなど無い。然し、突き詰めて行けば私が考えている事はこれなのだ。これしか無い、とも言うべきか。


『それならばあの少女の世話は私共にお任せ下さい。陛下の手を煩わせるなど図々しいにも程があります』

『その通りです陛下。私達はその為にお側に仕えているのですから 』


 口々にそう言い募る側近達は不可思議な空気を纏うルリコを奇異な眼差しで見つめ、最初から私自身がルリコの世話をする事に対して強く反対していた。実際、有能な“影”達を使えばルリコの世話程度は任せられるだろう。だが、如何に有能であり私自身が信用する人間でも、ルリコに触れる事など断じて許す事は出来ない。

 あれに触れて良いのは私ただ一人だけだ。


『お前達にルリコを渡す事は無い。触れる事すら許さぬ』


 本当ならばその視界に他の男を入れておきたくない程だ。

 ああ、醜い執着心だと自覚している。だが、その意思を捻じ曲げる事など出来はしない。

 言外に滲むその固い意思に気が付いたのか、側近達が顔色を変えて私を見つめる中、ふと遠くからやって来た馬車が私達の側で止まる。その中から降りてきた青年は、不穏な空気に包まれているこの空気の中、私と側近達との間に無造作に割り込んだ。


『お久しぶりでございます、陛下』

『ああ。だが何故そなたが此処に居る。リュウホウ』

『その理由などお分かりでしょうに』


 飄々と宣う青年―――リュウホウは見事な刺繍が施された直裾を纏い、その衣に土が付くのも厭わずその場で跪拝する。その優雅な所作は流石名門一家の出だと周囲を唸らせる、教本通りのお手本のようなそれだ。だがリュウホウが此処に来たという事は、そろそろ戻る時間が来たという事なのだろう。これ程長い時間、王宮を空けて居たのだ。恐らくは山のような書類が私を待っているのだろうな。

 これは私自身の義務なのだ。


『……お話は分かりました、陛下。では一度、居を移しましょう。このままでは侍医に診せる事も出来ませんし、何より仮の住まいである天幕の中ではその少女の気も休まらないでしょうから』

『僕射殿、何故こちらに――』

『陛下が御戻りになられない以上、お迎えに上がるしか無いでしょう? さて、陛下。少女が住めるよう王都近郊にある屋敷を用意させています。少女はそちらでお預かりしましょう』

『相分かった。ルリコはそちらに移す』

『御意。さあ皆さん、早急に出立の準備に取り掛かりなさい。急がなければ日が暮れてしまいますよ』


 わっと蜘蛛の子を散らすように四方へ駆けていく側近達の背を眺めながら、如何に有能なリュウホウとて、流石に疲れたのだろう。流麗な面差しに疲労の色を滲ませたリュウホウを労った。


『ご苦労だったな』

『この程度、然程の苦労でもございません。ただ、屋敷に移って頂いた後は、一度王宮へお戻り下さい。これ以上は私の手に余ります』

『分かった』

『ですが陛下、他の者達の言葉ではありませんが、何故あの少女に心を傾けていらっしゃるのですか? 陛下は女共を羽虫の如く煩わしいと思っていらしたのではありませんか?』


 ああ、その通りだよ、リュウホウ。うっすらと笑みが浮かんだ。


『女共は私の地位、顔、体、資産にしか興味が無いのだからな』

『でも、あの少女は違うと?』

『少なくとも、ただ媚びるだけの女では無い。それに、ルリコは私をただ一人の男としてしか見てはおらぬ。それでは理由にならぬか?』

『いいえ。よく分かりました、陛下』

『あの少女の事はお任せ下さい。悪いようには致しません』

『ああ、頼んだ』


 それから数刻の時を挟んで私達は居を移した。





 ルリコと出会ってから六日目の夜を迎えた。明日には、私は一度王宮へ戻らなければならない。本来であれば今夜戻るべきなのだろうが、これもリュウホウの配慮なのだろう。

 王宮へ戻れば、私が再びこの屋敷を訪れる事が出来るのは、恐らく五日後の事。出立するその瞬間まで私は後ろ髪が引かれたまま王宮に戻るのだろう。夜が訪れて間もない屋敷の寝台で静かに横になるルリコの髪をそっと撫でれば、ルリコは泣き出す寸前の表情で私に手を伸ばしてきた。反射的にそれを握ると、きゅっとその手に力が籠る。


『明日、お家に戻られるとお聞き致しました』


 お家、か。恐らくルリコにそう言い含めたのはリュウホウだろう。ルリコに好意的とは言い難い側近達は明日全員が私と共に王宮へ戻る。既に戻っている者も居るが、この屋敷に残るのは、リュウホウと共にやって来た“影”の女でありルリコの世話を任せた女官一人と屋敷を管理する護衛武官のみ。


『ああ、その通りだ。明日私は家へ戻らねばならない』

『……! 然様でございますか』


 僅かに目を見張って驚いたルリコは、ゆっくりと上体を起こし、寝台の端に腰掛けた私の胸に体を預けて来る。


『ルリコ?』


 薄い衣越しに伝わる柔らかな体はほんのりと熱を帯びて温かい。だが、私がその体をやんわりと押し返す前に、ルリコは私の手を握る右手を僅かに引き寄せた。愛らしい行為に理性が焼ききれる寸前、


『―――――』


 何事かを呟くルリコの声を聞いた瞬間、私は衝動的にその体を掻き抱いた。ほっそりと華奢な体から衣に焚き染められた花の香が薫った。潤んだルリコの目を見つめ、私はまるで吸い寄せられるかのように赤く熟れた唇を塞いだ。甘く柔らかな吐息が頬を撫で、もう少し力を籠めれば折れてしまい程に細いその体にゆっくりと指を這わせる。深くなっていく口づけに怖気づいたのか、ルリコがびくりと体を揺らす。

 初々しい反応だ。その愛しく可愛らしい様にふっと笑みが零れ落ちる。男を知らぬ体だという事は私や側近達を見つめる目や反応から見て既に理解していた。

 だから意地の悪い囁きをルリコに落とす。


『ここで止めるか?』


 今ならば止めてやる、と重ねて言えば、ルリコは苦笑を浮かべようとして失敗したかのような、不可思議な笑みを浮かべた。然し次の瞬間には、美しい満面の笑みが私の視界に広がった。

 その答えだとでも言うように、ルリコは再び私に手を伸ばす。


『いい子だ』


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