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山原瑠璃子。それがこの世界に来る前の、本当の名前。
地球という世界で暮らしていた、私の真実の名前。
この世界の名は、シャナカーン。地球とは全く別の異世界だ。
今私が生活しているメイベル王国という国は、日本で言う所の古い中国王朝に似ている。大雑把に括ると、三国時代~唐時代の雰囲気という所かな。
役職名や官僚の階級制度、伝統的な民族衣装や装飾品、建物の造作も殆どが中華風だ。歴史の教科書や、或いは資料集で見た光景。ある種そんな環境であったからこそ、比較的早くこの世界に馴染むことが出来たのかもしれない。
16歳の誕生日を迎えた秋。授業が終わり、帰宅部の私は高校から自宅へと徒歩で真っ直ぐに帰っていた。少し薄暗い夕刻は赤々とした夕日が燃えていて、その鮮烈な赤色に、私はただその眩しさに目を細め、家路をだらだらと歩いていた。
そうしてふと気づいた時にはこのシャナカーンという世界へとトリップしていた。
例えばこれが小説やアニメ、漫画の中ならば、不可思議な魔法や魔力があったり、或いはもっと独自の超常的なエネルギーが発展している世界であったのかもしれない。
けれどこのシャナカーンという世界は、ある意味地球と似通っていた。
未だ科学技術は発展途上で、電気などもなく、石油等の化石燃料も無い。また、これに代わる魔力などというものもなく、人々は日々の生活をただ静かに営んでいる。
当然、私にも何か特別な力が宿っていたり、容姿が変わるということもなく、山原瑠璃子というただちっぽけな存在がぽつんと異物の如くこの世界へと放り込まれてしまった。それがこの異世界での始まり。
何せ異世界トリップなどと大仰に行っても、徒歩でいつもの帰路をただ真っ直ぐに歩いていたら、いつの間にか景色が変わっていて、深い森の中へと迷い込んでいたというだけなのだ。
例えば私にしか聞こえない不可思議な声が聞こえただとか、誰かが私を召喚するために呼び寄せたということもなく、本当に気付いたらここに来ていたという現実。
始めの頃は、この世界はただの夢や妄想の類だと思っていた。
けれどそのどれもが余りにもリアルで、この世界が本当に今動いている現実だということを自覚するのに随分と時間が掛かってしまった。
そうして今、私は本名から名を捩り、ラピス・ヤラ・メイベルという名を名乗って、大陸随一と謳われる肥沃な大地と豊富な資源を有する大国、メイベル王国。その王宮の一角で、この世界で私を拾い、共に過ごしてくれていたメイベル国王の妾妃としてひっそりと暮らしている。
この世界に来て四年。
本当に語り出せばとてもとても長くなるので色々と割愛するけれど、メイベル王国の王、マルセル・ヴィ・メイベルの元へ嫁いで今日で既に二年が経過している。
この生活にも、もう随分と慣れてしまったものだ。
手元に開いていた頁を捲り、微睡むように静かにそれを眺めた。
メイベル王国の様々な地域の風土や気候を記したその本は、地域独自の花や食べ物、伝統的な催し等の挿し絵が随所に描かれている。
細かな説明文は暗記できる程に読み込んでいるため、本当に描かれた挿し絵をただぼんやりと眺めていた。
これは一部の王候貴族が閲覧する事を許された、王宮書庫に所蔵されている写本の一つである。
装丁具合から言えば、ざらついた紙といい、表紙が古語風に描かれている事といい、今から五十年以上前に作られたものだというのに、紙がぼろぼろと崩れる事なく、驚くほど丁寧に保管されている。
原書は約百年前に製作されたものの、そこから様々な情報や知識を追加されて五十年。この本はその原書に次いで最も古い本の一つだった。
この異世界に来た時、先ず立ちはだかった問題が、識字問題である。
幸いな事に文字を読み書きする事には苦労しなかったものの、どうにも言い回しが古かったり、今はもう廃れてしまった古語風ばかりを書き連ねていたため、現在主流となっている所謂大陸共通言語というものが上手く話せず、また現代風に文を書くことが難しかった。
耳で聞こえる言葉は日本語で、文字も丁寧な日本語であるにも関わらず、実際に書き起こし、話しているとどうにもそれが古い言い回しだったのだ。
これは本当に、頭の痛い問題だった。
脳は自動的に言葉を翻訳しているにも関わらず、書く際にはわざわざ現代風の大陸共通言語を書かなければならない。そのちぐはぐさに何度も戸惑い、混乱し、どうにか一通りの言い回しを学ぶまで随分と時間が掛かってしまった。
今では大陸共通言語が母語となっているものの、時折気を抜いていると古語風に話してしまうので、少しばかり注意が必要だった。
ふと、結い上げた髪から一筋の髪が滑り落ち、丸く切り取った小窓から入って来た柔らかな微風に揺れた。
異世界にトリップしたというのに、私の容姿は地球に居た頃と変わらず、黒髪に黒目という取り立て珍しくもない平凡な容姿をしていた。
けれどこの世界の人達は皆、明るい色合いの、一種奇抜とも取れる髪色を持っていた。ある人は紫色、ある人は赤色などその色合いは様々で、その鮮やかさといったら、まるで絵の具を薄く広げて様々な色に混ぜ合わせ、一つの所にその色を凝縮されたかのようにも思えた。
だから私のような暗い色合いの髪を持つ人種は驚く程少なく、珍しい。
メイベル王国の民にとって私の持つ色合いは、異国情緒溢れる神秘的な色合いとしても有名だ。
以前と変わらぬ黒髪が、今は故郷を偲ばせる大切な宝となっている。
本格的な春にはまだ遠い、冷たさが残る初春。
自室の扉を控えめにノックされ、私はそっと顔を上げた。
「―――ラピス寵妃様、お食事をお持ち致しました」
「ありがとう」
暖かな日差しが降り注ぐ正午。丁度昼食の時間に差し掛かっていた。
手元に開いていた本を閉じ、しずしずと入室した妙齢の女官長に返事を返した。この王宮の人々は、皆私を寵妃と呼んでいる。本来の地位は妾妃だが、国王唯一の妃であることから、親愛の情を込めて敢えて寵妃と呼ぶのだと、以前女官長が話していたことを思い出す。あまりにも気恥ずかしい呼び名だけれど、驚くことに慣れとは怖いもので、その呼び名に赤面したり動揺する事は近頃すっかりと無くなっていた。
女官長の髪色は、まるで光沢のある水色を薄めた、透き通る氷のような色合いをしていた。
その瞳は髪と同じく、淡い色合いの水色。
その美しくも儚い芸術的な色合いも既に見慣れたものの筈なのに、いつもこの女官長と真正面から対峙すると感嘆のため息が出る。
私に、そんなに畏まらなくとも良いのに、丁寧に跪拝し、最上級の礼を取った女官長に自然と背筋が伸びた。
女官長へ「面を上げなさい」と言って礼を返すと、女官長は心得たとばかりに頷き「それでは準備に移らせて頂きます」と、背後で平服する女官達に目配せした。
素早く立ち上がった数人の美しい女官達が入室し、部屋の中央に据えられた飴色の丸い円卓に手早く食事を並べ、洗練された動きで昼食を整えていく。
その鮮やかな手捌きによって、まるで踊るようにふわりと袖が舞った。
白い絹の地に淡い新緑の唐模様が入った袖口が広い上衣に、新緑の裙を体の線に沿って巻き上げた下衣が目にも鮮やかで、美しい幅広い帯を腰に巻き、その上から細い綾紐を結んでいる。
中国の曲裾という出で立ちに似た女官特有のその衣装はあまりにも美しく、滑らかな動きと共に焚き染めた香の香りが柔らかく鼻を掠めた。
香というものに明るくは無いけれど、それが恐らく驚く程高級品であろうことは分かっていた。
これほどの人数が私の食事の為だけに動くということはとても申し訳なく思っていたのだけれど、それでもこれが毎日となればこの感覚も段々と麻痺し、これが当たり前であるかのように錯覚してしまう。
それが少しだけ怖くて、私は毎日自分に言い聞かせる。
私は、ただひと時この場に居る妾妃なのだ、と。
無駄な動きが一切無い完璧な女官達は、すべての準備が整うと優雅に一礼して簡略的に跪拝した後、給仕を行う女官長を残して静かに退室していった。
ほかほかと美味しそうな匂いを立ち上らせる肉饅頭に、新鮮な野菜を盛り付けたサラダ、肉汁がたっぷりと染み込んだ肉巻き、幾つもの珍しいフルーツが瑞々しい輝きをもって並べられている。
一人分の食事としては比較的多い量ではあるけれど、これでも嫁いできた当初から比べたら随分と少なくなったものだ。
「頂きます」
と小さく呟いて漆塗りの箸を取り、先ず美しく盛り付けされたサラダに手をつけた。
有能な女官長はまるで空気のように食事を邪魔する事なく、けれども一瞬の気も抜くことなくそっと控え給仕に徹している。
当初は食事の作法など全く分からなかった私に根気よく丁寧に教え込んでくれたのは女官長だった。無作法者と言われはしないかとびくびくしていた時期もあるけれど、今でははすっかりと作法も板に着き、妾妃として堂々と振る舞えているのだと自信を持って言える。
しん、と静まり返った部屋の中、一人ゆっくりと昼食を摂ることはあまりにも贅沢で、この平穏な時間を私はとても愛していた。
昔は、いや高校生時代の時には、こんな風に未来を過ごしているなど考えもつかなかっただろう。
私は地球でも、平均的な一般家庭の出身だったから、余計にそう思う。
私、山原瑠璃子ことラピス・ヤラがメイベル王国の王、マルセル・ヴィ・メイベルの妾妃となって二年。
二年前、突如として王の妾妃として召し上げられた素性も来歴も分からぬ私を、王宮内で歓迎してくれる人など一人も居なかった。
それは当然の帰結だろうと思う。王が幾ら独断で召し上げたとはいえ、その背後に居る人間も、況してやどういった素性の人間なのかということも全く分からない、敢えて言えばもしかすると流浪の民の子か何処かの王のご落胤か、それともただの庶民なのかということすら、探ることが出来ないのだ。
けれど、王を含めて、紆余曲折を経て妾妃となった私と王の関係を側で見守り続けていた王の側近達だけは、本当に心からこの婚姻を祝福してくれた。
勿論、その本心は別の所にあったのかもしれない。けれど少なくとも私から見て、王の側近達がこの婚姻を反対する事は無かった。
『王が選んだ方に間違いはない』と言わんばかりのその態度は、王室に入る不安や困惑を前に戸惑う私の胸中をひどく安堵させた。
ここに居ても良いのだという確信が、その時に至って漸く感じとることが出来たのだ。
あの時ばかりは気丈にしていた私も思わず号泣してしまい、普段は飄々とした態度を崩さない王が酷く狼狽えていたのを昨日の事のように覚えている。
そして、そんな王の姿に目を見張り、常にポーカーフェイスを貫いてきた側近達がポカンとした表情で、揃いも揃って鳩が豆鉄砲を食らったかのように呆然とする様子を見たのは、あれが最初で最後かもしれない。
つらつらとそんな事を思い出しながら慎ましやかに食事を終えると、女官長に向かって礼を言った。
「ご馳走様。とても美味しかったわ」
「お口に合ってようございました」
女官長が再び女官達を呼び、丁寧に片付けていく様子を見つめ、渋味の強い緑茶を飲んだ。
この緑茶は地球に居た…いや、日本に居た頃に飲んでいたものと同じような、けれどより高級感が増した、すっきりとした爽やかな味わいの緑茶だった。
この緑茶を飲む度に、私は私自身の心に残る色鮮やかな故郷の景色を思い出す。
緑が多く、豊かな水流が流れていたあの長閑で、けれどそれと同じくらいの近代的な建物が並び立つ、あの独特な風景を――。
片付けを済ませた女官達を引き連れて女官長が退室すると、それと入れ替わるようにお付きの侍女が入室した。
妾妃付きの専属侍女は居ない。大抵が毎日入れ替わり、立ち替わり侍女としての役目をこなす。毎回引継ぎを行わなければならないのは非効率的ではないのだろうか。そう思うものの、これは私の希望ではなく、王がそう決めたもの。
それにどんな理由があるのかは、想像も付かないけれど、王がそう指示しているのだから、それなりの理由があるのだろうと思う……多分。
とは言え、やはりその背後にある理由が気になるもので何度か問い掛けてみたものの、無言で首を傾げたり黙殺されたりしたことで、今後この話題には触れないようにしようと固く決意した。
王の逆鱗に触れたならば、どんな天災や人災が起こるのか分かったものではない。
それほど、王は多くの存在から愛され、運すらも味方に付けているのだ。
未だに恐ろしくて思い出したくも無いが、王の逆鱗に触れて消えていった者は星の数ほど居る。
それを私は間近で見てきたのだ。
王が国王陛下として即位して丸六年。
私が妾妃となってから二年も経つというのに、未だメイベル王に並び立つ正式な配偶者、王妃となる女性はその候補者が取り沙汰されることも無く空席となったまま。メイベル国王マルセルは、のらりくらりとその話題を避けて日夜城下に繰り出して女遊びに興じている。
『複数の女と交際するのは、男の嗜みというものだ』
そう不適に笑うマルセルを思い出し、思わずため息を吐いた。
野性味溢れた精悍な顔立ちのマルセルは、中々どうしてモテるのだ。
それは王という身分だからという理由だけではなく、マルセル自身の男の色気に当てられて、ただ一時の恋に落ちていく。
王は単なる遊びに過ぎないが、女性達は本気で王を愛し、その寵を争って王の御手付きとなった女性同士で争いを繰り広げる。
なんというか、何か魔法でも使っているのではないかと思うほど、いとも容易くマルセルの手練手管に嵌まっていく女性達を見ていると、恐怖さえ覚える。
それはまるで、盲信的な信者とその信者に神の如く崇拝される教祖のようで。
あながち、この批評は間違ってはいないのではないかと私自身確信している。
マルセルは王としては有能で民の間でも、そして他国からの評判も上々で、近年稀に見る賢王と名高いが、私生活ではどうにも頭のネジが一本か二本飛んでいるらしい。
けれどもそれでも、王が私自身を蔑ろに扱った事はこれまで一度もなかった。
王にとっての妾妃である私は、未だその地位を確固たるものとして揺るぎなくこの王宮で過ごしている。
女性関係を除けば王はとても愛情深く、懐の大きな存在だ。私と王は十歳以上年が離れているけれど、それも気にならない位には大切にされていると思う。
ただ、それでもどうしてと、思うのだ。
何故私以外に妃を擁さず、そしてまた王妃を娶る事が無いのかと。
あれほどまでの女性に愛され、また愛を囁いているにも関わらず、絶対に女性を妃として召し上げることはない。何かハーレムのように後宮に女性達を全員召し抱えることだって、この国の財力を持ってすれば容易いことのなのに、それは悉く避けているようなのだ。
以前、妾妃になったばかりの頃、閨でそれを訪ねた時、マルセルはこう答えていた。
『妃などという煩わしい物を欲する女になど興味は無い。ルリコ、俺が妃として側に生涯置いておきたいと思ったのは、お前ただ一人だ』
その強烈な告白に赤面し、声を詰まらせたことは今も鮮明に思い出すことが出来るが、それでもマルセルが女遊びを止めることは無かった。
王の側近達もそれを止めることなく、時折私に王を諫めるよう促してくるため儀礼的に女性関係について窘めているけれど、『嫉妬か?』と笑うばかりで、未だに止める気配はない。
既に私はもう、これを諦めてしまっている。
マルセルは女遊びが趣味なのだと、そう無理やり理解していかなければ、飲み込んでしまわけなければ、私は私自身の感情に翻弄され、醜い嫉妬の鬼と化していたかもしれない。
ああ、それにしても本当に面倒なのは、マルセルが相手をした女性達の問題だ。
彼女達はいつも私に敵意を向け、隙あらば引きずり降ろそうと画策している。
それでもこうしてのんびりと暮らしていられるのは、マルセルが付けてくれている『影』と呼ばれる暗殺部隊がそれを未然に防いでくれているためだ。
この部隊の存在を、私はあらかじめマルセルから聞いていた。けれどそこまでしてまで守る価値が私には無いと思っている。
だから出来れば直ぐにでも解散するか、マルセル付きとして転属してもらいたいものだ。
私が例えここで不慮の事故で死んだとしても、困る人間など居ないのだから。
さて、マルセルに弄ばれている彼女達には二通りのパターンがある。
一つ目は、親や怪しい暗殺専門の人間に大金を積んで私を襲うケース。
二つ目は、正々堂々と一対一で真正面から向き合い、如何に私がマルセルに相応しくないのかをとくとくと説き、又は罵声を浴びせ掛けるケースだ。
今回はその、二つ目のケースに当たってしまったらしい。
―――そう、私の目の前に立つ美しい美少女が、その証拠だった。
「ラピス寵妃、少し宜しくて?」
いつものように昼食を済ませた後、自室を出て侍女の供を断り、一人で王宮の庭園を散策して間もなく、とても綺麗で繊細な美少女にそう声を掛けられた。
美しい翡翠色の髪を豊かに結い上げて、淡いコバルトブルーの瞳を細めたその美少女は、翳と呼ばれる長い柄の団扇で口元を上品に隠して、頷いて答えた私に「こちらへ」と指し示しゆったりと踵を返した。
内心のため息は足を踏み出すと同時に霧散していった。