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寵妃の憂鬱  作者: 一条さくら
間章
19/35

あの日あの時あの場所で

 時は少し遡る。

 深く眠りに就いたルリコの髪を撫でた私は、ルリコの涙で乾いた頬に唇を寄せた。情交の痕が残る寝台の上で私は静かに夜明けを待つ。

 私は後数刻もせぬ内に、この部屋を出て執務室へ向かわなければならない。ルリコが目を覚ますその時まで側に居てやりたいが、そうも言っていられないのが、国王としての立場なのだ。ルリコは明日、陽国へと旅立っていく。然し私自身がそれを見送る事など出来はしない。恐らく、遠くからであれば出立の様子を眺める事が出来るだろうが。

 目覚めにはまだ遠く、私が愛するルリコの濡れたような漆黒の瞳は未だその瞼の裏に閉ざされている。健やかな寝息を立てるルリコを起こさぬように眺めながら、ルリコの肩から滑り落ちた寝具をしっかりと掛けてやる。無意識なのか、私の手に擦り寄るように体を寄せるルリコに愛しさが溢れ出し、ルリコの額にそっと唇を落とした。その行為に感化されたのか微かに笑みを浮かべる口元が可愛らしく、羽のような柔らかさでルリコのしっとりと濡れた唇に私の唇を押し付けた。

 寝ている人間を襲う趣味など無いが、ルリコの前では自制など呆気なく崩壊してしまう。軽く手を握るルリコの指を解き、そっと私の指と絡ませた。握った手の平は温かく柔らかい。然し、それ以上の事はせず、再び私はルリコの寝顔を眺める行為に専念する。


 出会ったあの頃とは随分と私達の関係も様変わりした。

 あの日、ルリコと出会っていなければ、今の私はここに居ないだろう。無論、それはルリコ自身も私と同じ思いを共有しているのだろうが。

 ……いや、同じ思いとは限らないか。

 些か皮肉気味に笑みを浮かべた私はいつの間にか過去の懐かしい記憶へと飛んでいた。





 ―――私とルリコが出会ったのは、私が地方の都市部へと視察に向かった時の事だった。

 その当時、私は若き国王という立場にあって様々な執務をこなし、数多くの書類を捌いていた。

 然しながらその時の私には既に私自身が強い信を置く側近達が周囲を固め、一時も休まる事など知らず、立場上は仕方がないとはいえじわじわと制限されていく環境の息苦しさに耐えかねて、視察という名目で王都を飛び出した。

 無論、山ほど抱えた仕事を放棄する事など愚の骨頂。出来る限り素早く当面は仕事をせずとも良い程度には仕事を捌ききり、道中でも緊急性のある書類だけは片付けて行った。

 その頃から既に私の脇を固めていたリュウホウには些か呆れ混じりの視線を向けられてはいたものの、それは些細な事に過ぎない。


 本当に面倒臭いのは、私が国王という立場にあって、それを利用しようとする女共との攻防だ。

 私は王太子時代から女好きを公言している。これは本心からの言葉でもあるが、実際は網目を掻い潜って近付いてくる女共と交遊し、女共の背景を洗い出し、近付いてきたその目的や資質などを見極める為の方便でもある。

 無論、交遊するからにはとことん相手に付き合ってやるが、この姿勢のせいか女共が熱を上げて醜くお互いを潰し合い、修羅場を繰り広げる様は端から見ている私にとっては中々に興を惹かれるもの。

 悪趣味? そんな事とうの昔に承知している。

 女共は自身の振る舞いをつぶさに観察されているとは一欠片も気付いてはいないようだが、それすらも私にとっては一興だ。

 女共との交遊は、私にとって趣味と実益を兼ねた最も効率の良い仕事である。

 無論、本来はこのような仕事など側近達に任せた方が楽ではあるのだが、どうにも私の側近達は硬派な人間ばかりで男女の駆け引き等煩わしいものでしかないと言い切る者ばかり。まあ職務に忠実であればこのような些末ごときに手を煩わせる必要もないかと、最終的には私の仕事となった。


 とはいえ側近達も最初は私が自ら女共と交わる事を反対した。閨での情事の最中や普段の交遊で隙をつかれた君主がその命を狙われる事など古今東西を見渡しても余りにもありふれた暗殺の常套手段なのだから。

 然し側近達が使えない以上は私が処理するしかない。故に散々話し合いをした末にメイベル王国お抱えの暗殺集団や私個人に忠誠を尽くす“影”達を常時私に張り付ける事でこれらの問題―――女共に紛れ込んだ暗殺者や、緊急を要する危機に対応する―――を解決した。

 私が国王に即位して二年。“影”達は実に有能だった。

 強力な神経毒による毒殺、媚薬を用いた精神衰弱、基準を上回る違法な薬の投与、暗殺集団の強襲など様々な方法で私の命を狙う人間は後を絶たず、その度に―――或いは事が起こる前に未然に防ぎ―――完璧に処理してみせた。この結果に満足したのは側近達も同様だったらしく、私は以後多くの裏工作を“影”達に任せるようになる。

 “影”の中には女も数人おり、交替で私の女官として付いて貰う事で中々伝手を確保し難い女官達の内部事情を把握する事も出来、“影”達には随分と助けられた。


 表向きは万事順調に行っていたのだろう。けれど私の中で燻る何か(・・)に対してだけはどうにも対処の仕様が無く、先に言った通り地方への視察に至る。

 地方都市とは言っても王都からはそう離れていない都市だった事もあって、視察は殆ど直ぐに終了した。だからルリコと出会ったあの森に居たのも、本当に奇跡的な偶然が重なったが故の事。

 御神木と呼ばれる木の根元に立つルリコを見た瞬間、私は世にも奇妙な感覚に捕らわれる事となる。それはある種の天啓でもあったのかもしれない。この奇妙ななりをした少女を手放してはいけないとでも言うように、私は異常に怯えた様子でこちらを見つめる少女に声を掛けていた。

 いつもの私であれば、そのような真似は絶対にしないというのに。


『そなた、そのような所で何をしている?』


 私をじっと見つめたままへたり込んでしまった少女は、何故か私が手を触れる前にさめざめと泣きだしてしまう。そんなに私が恐ろしいか。それとも私がこの国の王であると気が付いたのか。


『おいおい、どうしたんだ?』


 と少女の頭をぽんぽんと撫でれば、『この身をお助け頂き、かたじけのうございます』という今では用いられる事が少なくなっている古語風の言い回しでそれに答える。思いがけず仰天し目を見開けば、少女が焦ったように、『どうかなさいましたか?』と言って些か苦い表情を浮かべて自身の喉に手を当てる。その様に異様な気配を感じながらも、少女を隙なく観察する。

 この少女は私がこの国の王であると気が付いてはいないようだ。少なくとも、その目は私をただひたと見つめている。

 このような薄暗闇に包まれた夕刻に一人、この森の中に居た所からして少女の異様さは群を抜いていた。その身に纏う不可思議な衣も、私の目をじっと見つめる純粋無垢な視線も少女の異様さを否応にも引き立たせている。


 この少女はただの農民の娘にしては余りにも小奇麗に過ぎるし、とはいえ何処かの国の姫というにはあまりにも警戒心が薄い。周囲には人の気配もなく、少女自身の側に転がる、森を抜ける為の食料や何かしらの装備を入れているであろう四角い革袋も夜を明かす為の道具が入っているにしては余りにも小さすぎる。

 本来であれば少女はこのままここに捨て置くべきなのだろう。然し私は何かに突き動かされるように、涙を流す少女が気兼ねせぬよう乾いた笑い声を上げ、少女に手を差し伸べた。


『はははっ。そなた、どこぞの村の姫であったのか? なんともまあ改まった物言いをすることよ。さて、この森の中に何用があって居るのかは知らぬが、今はこの森を出た方が良いだろう。立てるか?』


 その問いに応えるように体を動かす少女は、然しながら不意にぐらりと体を揺らした。


『なんだ、立てぬのか』


 少女の許可も得ずその体をひょいと抱きかかえ、早足になり過ぎない速度で森を後にする。それにしても軽い。まるで羽でも生えているかのような重さを感じさせぬ体は服の上からは分からぬが線が細く、華奢な作りをしている。


『このような…恐れ多い事でございます。どうぞ私のことは捨て置かれませ』


 何処に手を置いたら良いのか悩むように指先を動かし、やがて諦めたようにぎゅっと拳を握りしめた少女は小さく制止する。私の腕の中で緊張した様子で身を固くする少女は、私を信用しても良いものか疑惑に揺れ、警戒と安堵の入り混じる複雑な表情を浮かべていた。

 それにしても何と言ったら良いのか、この少女は危うい空気を纏っている。それらは決して不快などではなく、寧ろ私がこれまで持ちえなかった庇護欲を駆り立てる。恐らくは少女の慎ましやかな様子が私の心に何かをもたらしているに違いない。


『そのようななりをして何を言う? ほら、もうすぐ森の外へ着く。じっとしていろ』


 静かに、自分でも驚くほど優しくそう声を掛ければ、少女は体を揺らして思わずといった様子でぎゅっと私の服を握りしめた。少女をあやすように背中を優しく叩くと、その動作に安心したのか私の肩にゆっくりと凭れ掛かった。それは私が接してきたどの女とも違う、爽やかな花の香りが微かに鼻腔を擽った。少女の行為にはこれまで女共が私に向けてきていた媚びるような視線も甘えるような気配も、情欲を誘う艶やかな色気も何一つとして滲んでは来ない。それが何処か心地良く、私は僅かに足を速めて側近達が待つ場所まで歩いて行った。





 私が森から出て側近達が待つ場所に付くと、顔色を悪くしていた少女を一度近くの切り株に降ろし、側近の中でも女子供に対する対処が人一倍上手い護衛武官に少女を迷い子として丁重に扱うようその身を預けた。

 それから数拍とせぬ内に猛然とした勢いで私と少女を交互に見やり、私に詰め寄って来る側近達の暑苦しい叱責を適当に受け流しながら、ぐったりと座り込む少女を観察する。


『殿下、何故あのような奇怪な形なりをした女をお側に置いているのです!』

『何故とは何だ。あの者は森の奥深くに居たのだぞ? 放ってはおけないだろう』

『ですが殿下、あの者が刺客であったのならば何とするのですか?! 何もなかったから良かったものの…』

『ヒグマール武官の仰る通りです。直ぐに処分を致しましょう。早急に手配します』

『小娘一人に、何をそんなに慌てている? お前達は心配し過ぎだ』


 側近達の焦りに満ちた鬼気迫る表情は些か滑稽にも見えるが、側近達の心配も分からないでは無いのだ。けれども今はそれが煩わしい囀ずりにしか聞こえず眉を寄せた。少女にじりじりと距離を詰める側近達を制止しようと声を上げるその前に―――私の呼気はふらりと立ち上がった少女の『もし、』という涼やかな声に掻き消された。


『ご挨拶も儘なりませず、申し訳ないことでございます。どうぞ平に、平にご容赦下さいませ。私の名は、山原瑠璃子(ヤマハラ ルリコ)と申します。私が此方(こなた)へ参りましたのは、私の本意ではございません。それだけはどうぞお含みおき下さいますよう…』


 やはり言葉使いが古語風に傾いている。それが生来のものであるのか、言葉を教えた者の所為かははっきりとは判じられないが、はっとした表情で警戒を強める側近達達を片手で制する。全く、私の側近達がこれ程血気盛んであったとは思いもよらなかった。冷静さを欠いているのは、やはりこのような異常事態に慣れていない所為もあるのだろうが、今後は突発的な事案に対する対応にも少し教育していく必要があるのかもしれない。

 然し、少女が私や側近達を前にしてもきちんと名を名乗り、声を上げる事の出来るような胆力を持っていたとは意外だった。良い意味で期待を裏切られたな。私は無意識に口角を上げる。それは側近達が口を揃えて言う、ニヤリと含みを持った笑みだったのだろう。側近達の間に僅かに動揺が走った。


『具合はもう良いのか?』

『お陰様を持ちまして、随分と体の調子が良くなって参りました』

『それは重畳。さて、そなた先程名を名乗ったな? 然しながらここいらでは聞かぬ名をしている。お前の出身地は東方か?』

『東方、というものがどのような国を指しますのか存じ上げませんが、私の故郷(さと)は、日本にございますれば』

『に、ほん…? そのような国など聞いた事がない! やはりこの者、間者か密偵か?! 殿下、捕縛の許可を!』

『煩い。少し控えておれ』


 背後に控える側近達の煩わしい声にさっと片手を振り、どういう心境の変化なのか何処か慌てた様子で膝を折った少女にそっと近付いていく。その目に浮かぶのは、動揺、焦り、驚愕といった感情のみ。私と側近達の様子を見ても、少女の目が揺らぐ事は無い。

 然し、私にも聞きたい事は山ほどあるのだ。私は先ず一番に浮かんだ疑問を静かに跪く少女に向けた。


『さて、ニホンとは何処に位置している?』

『恐れながら此処は、何という国なのでございましょう? 私はただ、学舎(まなびや)を後にして家路に着く心積もりでおりましたのに』

『学舎? 何処の国も何も…ここは大陸の中央に位置するメイベル王国だ。して、その学舎とは何を意味している?』

『皆が学ぶ場所であり、国の定めた高等教育機関でございます。私は末席ではございますが、学舎に属しております』

『ほう、女子(おなご)に学舎、とな』


 そのような国、聞いた事も無い。いや、もしかしたら私の知らぬ未知の国ならば、或いは。然しこのような森の中に居たにも関わらず、我がメイベル王国の名を知らないというのは些か奇妙に過ぎる。


『はい、然様にございますれば。……もし、メイベル王国とは、ユーフラテス川の流域にある、中東の小国でございますか? そのような名の国を、私は存じ上げませんが』

『ユー…なんだ、チュウトウ?』

『中東地域の国ではないのですか? 私はアジア、日出ひいづる極東の国、日本に住まうしがない学生でございます』


 少女の言っている様子からして、何事か嘘を言っているようには到底見えはしない。腕を組んで思わず考え込んだ私は背後の側近達に、『地図をこれへ!』と声を上げた。慌てた様子で懐から取り出した地図を恭しく捧げた側近の一人から地図を受け取ると、跪く少女の視線に合わせてしゃがみ込み、土で汚れるのも厭わず地面に大きな地図を広げた。

 その様が余りにも無防備に感じたのか、背後からかちゃ、と腰に下げられた剣鍔に手を掛ける音が聞こえた。目の前の少女がそれに驚き、腰を落としたままじりっと後退りする。少女を驚かせた側近に咎めの視線を送り、すかさず少女の腕を取る。些か前のめりの姿勢になった少女は困惑気味の、何かを理解しかねる様子でじっと手元の地図を見つめていた。


『これは…何なのでしょう?』

『この世界の地図だ。……その顔では見た事がない、か?』


 まあ、農民の娘などであれば地図を見た事が無いのも頷けるのだが、その瞳には理解の色が広がっている。という事はやはりこの少女、ただの娘では無いらしい。


『はい。私の知る地図とは余りにもかけ離れております。こちらが、この世界の地図、なのですね』

『その通りだ』


 その瞬間、胸を抑えてよろめいた少女は松明の明かりの中でも白く見える程に顔を蒼白にさせ、唇を震わせながら言葉を紡ぐ。


『恐れながら一つだけ、確かめたき事がございます』

『申してみよ』

『……この世界の名は、何というのでございますか?』


 この世界の名だと? 本当に一体何を言い出すのだろうか、この少女は。思わず浮かべてしまった奇妙な表情のまま、私はその言葉を囁いた。


『この世界の名はシャナカーン。一つの大陸と青い海が広がる世界だ』


 それを聞いた瞬間、雷に打たれたようにその場で昏倒する少女を寸での所で受け止める。危なかった。少しでも反応が遅れていたら、少女は頭から地面に落ちていた事だろう。抱きとめたその体は先程と変わらず軽いものだが、その目が震える事も、唇が言葉を紡ぐ事も無く、力が抜けた少女はあどけない顔を晒したまま私の腕の中で糸が切れた人形のようにぐったりとその身を預けている。

 まさか、心の臓まで止まった訳ではないだろうな。


『どうした! おい、どうしたというのだ!』


 思いがけず焦りの声を上げると、側近達が一斉に私の側に近寄って来る。少女の様子からしてそれが演技では無いと確信したのか、側近達は次々と声を掛けて来る。だが、それらの声に構っている暇など私には無かった。少女の薄い体に顔を寄せ、少女の唇に耳を寄せれば微かな吐息が私の頬に当たる。ああ、生きていたか。良かった、と安堵する事など出来なかった。

 閉ざされた少女の瞳には瞼が降り、それが動く気配など微かにも感じない。一体何故、どうしてこのように昏倒してしまったのか。その理由が分からぬ内には安堵する事など出来ないだろう。


『でん―――陛下、どうかそのまま動かさないで下さい。何処か怪我をしているのかもしれません!』

『ええ、その通りです、殿下。さあ、そちらの少女をお貸し下さい。私が抱き上げましょう』


 視察に出ている最中に徹底させていた殿下という呼称をかなぐり捨て、私の手の中に居る少女を抱き上げようとする側近の手を思わず叩き落す。


『これに触るな』


 唸るようなその声に、側近達が息を呑む音が聞こえ、私は少女を抱きかかえたまま立ち上がった。兎も角今は少女が横になれるような場所を作らねば。


『寝台を用意しろ。早急にだ』


 蜘蛛の子を散らすように慌てた様子で四方に走っていく側近達を眺めながら、私は少女を抱え直した。


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