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寵妃の憂鬱  作者: 一条さくら
第一章
18/35

17

 花山院様、ヒカイとの非公式な会談――と言っても良いものか迷うのだけれど、兎も角面談のようなもの――は実に有意義な時間だった。

 時折リュウホウが私の言葉の補足をするような形で口を挟む事があったけれど、それすらも私の理解を深めるのに十分なサポートをしてくれていたと思う。ただ時折背後から突き刺さるリュウホウの視線の厳しさが私の口を重くさせた。

 こればかりは仕方の無い事だけれど、リュウホウが傍に居る時点で、ヒカイとより親しく会話する事は出来なかった。いや、単に口調の緩やかさでいえば、十二分に親しい会話だっただろう。然しながら私が話したかった事は、花山院様の手前もあって切り出すことすら出来なかった。

 ヒカイ自身も大分葛藤があったのだろう。時折向けられる視線が複雑そうな色が滲んでいた。陽国へ行く前に、もう一度お話する機会があれば良いのだけれど。無理やりにでも捻じ込んでみようかしら。

 妾妃という立場上、自由な振る舞いは制限されているとはいえ、多少の事であれば融通が利く。とはいえ、リュウホウを説き伏せなければその時間も取れないだろうから、明日にでも話してみようか。


 ぼうっとそう思考に耽っていると、ふと、手元に落としていた視線が影を落とした。部屋の嵌め込み窓から見える外は夜の帳が落ち、薄暗い夕闇色で満ちている。先に湯浴を済ませた為、肌を覆う衣装は簡易な衣に取り替えられ、昼間はきつく締めていた帯も今は緩く腰に結ばれている。複雑に結い上げた髪もすべて降ろし、今は自然な形で背中に流されている。今日は一日があっと言う間に過ぎて行った。ぎゅっと握りしめた手の平を見つめ、再び思考の海に沈む。


 花山院様とヒカイとの会談の中で分かった事は二つ。

 一つは、陽国は地球で暮らしていた頃の日本に似た国であること。その文化や風習など、あらゆる点で日本に酷似している。それはまるで昔の日本絵巻か屏風に描かれた絵をそのまま現実に昇華し、目の前で広げられているかのような、不思議な気分になった。

 もう一つは、陽国はそのような環境でありながらも陸続きの国家である為、昔の日本、特に平安時代を思い起こさせる文化よりもどちらかと言えば大陸寄りの文化が発展している。例えばそれは、建物の建築様式であったり、話言葉や食文化等だ。勿論、実際に目にした訳ではない。然し日本で生まれ、暮らしてきた私にとって花山院様やヒカイの口から伝わる陽国の様々な風俗は、私の中に沈んでいた郷愁を否が応にも呼び起こす。

 一度ぎゅっと目を瞑り、ささくれ立つ心を宥めなければ、私は何とも言えないこのもどかしさと苦しみに悶え、動けなくなってしまう気がした。一度決壊した思いは止めようもなく私の過去の記憶を辿り、懐かしくも優しかったあの頃を脳裏に写し出す。楽しかった記憶、恥ずかしかった記憶、悲しい記憶。どれもが色褪せず思い起こす事の出来る記憶だ。けれどもそれは、私の脳が忘れてしまった映像の細部をイメージで補っているからこその鮮明さだ。


「まさか陽国が日本だったなんて」


 より正確に言うのであれば、日本のような立ち位置に居る国(・・・・・・・・)であるのだけれど。

 そっと文机に直した紙を取り出し、目の前に掲げて見る。


「どう見ても、日本の漢字なのよね」


 花山院様に書いて頂いた字は、私が日本で飽きる程見てきた漢字そのもの。勿論、メイベル王国にもそれに似た字はあるには有るのだけれど、その殆どが役職名でしか用いられず、私にとっては見慣れない簡体文字である為に、これが私の知る漢字と同じ意味を持つ文字だとはどうしても思えず―――勿論、意味は理解していたけれど―――腑に落ちなかった。

 寧ろこれがメイベル王国の字なのだと無意識に流してしまっていたのだ。

 けれども陽国で未だ用いられている字体は、私が幼い頃から見聞きし学習してきた漢字そのもの。

 全く同じ文字が異世界で用いられているなど、有り得るのだろうか? 私がこの世界に来た事もどういう理屈かは分からないけれど、少なくとも何らかの形でシャナカーンと地球が繋がっているのだという事は、理解している。

 例えばここで仮説を立てるならば、平行次元の世界に地球とシャナカーンが存在している、とか?


「まあ、そんなSFチックな事は無い、かな」


 部屋に一人きりである事を良い事に、思わずあまりにも現実味の無い事を考えてしまった。とはいえ、この世界で用いられている漢字は、私が暮らしていた現代で日常的に用いている漢字ではなく、今では人名等でしか用いる事の無い難しい漢字が用いられている事は確かなのだ。けれどもそれは、このメイベル王国では今日に至るまで見掛ける事の無かった言葉でもある。

 古い書物を調べれば、もしかすると漢字を用いている文書も出て来るのかもしれないけれど。

 それに、気になる事はもう一つある。


「あれは、直衣のうしよね」


 私が住んでいた神社で大祭を行う際、宮司が着装していたものとよく似た衣装であり、資料集や時代祭の写真等で見かけた衣服でもある。それらがもたらすのは、ただ深い懐かしさと涙が滲むほどの歓喜。この世界と日本とはほんの僅かな繋がり―――それも、か細い糸のようなもの―――しかなかったものが、一気に繋がる感覚。帰りたいのか、と聞かれれば、恐らく王宮を出る前であれば勿論と答えていただろう。

 けれども今は複雑に揺れる感情を持て余している。

 私がこの世界に来てから数年の月日が経っている。そう、数年だ。数か月でも数日でも数週間でも無く、数年。帰る宛もなく、帰る方法も見つからず、恋をし、結婚し、ここに至っているのだ。この世界で生きて死んでいくのだと、数か月前には何の疑問もなくそう思っていた筈なのに。


「陽国へ行けば、何か変わるのかな。何か分かる事があるのかな」


 結局の所私が何を悩んでいるのかと言えば、自分という存在を確立していた基盤がぐらぐらと揺れている事が不快なのだろう。恐らくは陽国へ行った所で、何か事が起こるのは目に見えて居る。そこで何を見て、何を想うのかはまだ分からない。けれども私は、山原瑠璃子としてではなく、マルセルの妾妃、ラピス・ヤラ・メイベルとして行かなければならない事を私自身がしっかりと胸に刻み、振る舞う必要があるのかもしれない。個人的な感傷など、今は捨てるべきなのだ。

 そういう意味で言えば、今日花山院様とヒカイに会って事前にそのような事を知る機会が与えられた事は、私自身にとってもとても良い事だったのかもしれない。


「私が成すべきことは、メイベル王国の不利にならないよう動く事」


 求められている役割を忘れず、自分の為ではなく国の為に動く事。ただ、それだけだ。





 何時の間に眠ってしまっていたのか、寝台に横たわる私の髪を誰かが梳いている。私の側で、私に触れる事が出来る人はただ一人。


「マルセル」


 吐息交じりにそう呼べば、ふっと笑う気配と共に私の額に唇が降って来た。薄く目を明けると、未だ正装のまま寝台に腰掛け、静かに私の髪を梳き撫でるマルセルの姿が見えて来る。ああ、まだ仕事を終えていないのか。ぼんやりとそう思えば、マルセルの手が私の目元を覆う。温かな手の平が心地良い。程よい暗闇が私の視界に降りて来る。


「眠って居ろ」


 とんとんと幼子を寝かしつけるように胸を叩かれると、再び深い眠りに誘うように強烈な睡魔が襲ってくる。その睡魔に身を任せたい衝動に駆られながらも私は必死に言葉を紡いだ。


「マルセルは、陽国へ赴いた事はございますか?」

「何故、そのような事を聞く?」


 ああ、質問を質問で返さないで欲しい。もうこのまま眠ってしまいたい。けれども今話しておかなければ、もう話す機会も無いかもしれないから、目を凝らすように眉間に力を入れた。


「私は今日、使者殿から陽国の話を聞いたのです。それは、私の故郷によく似ています。とてもよく、似ている…」

「そうか」

「はい。もしかしたら陽国は、私の故郷と繋がりがあるのかもしれません」


 がたり、と何か擦れる音が聞こえた。驚愕を表すかのような空気が満ちていた気がするけれど、それも一瞬で掻き消える。それに構う事無く話し続ける。


「この世界の何処にも無いと思っていたものが、陽国に行けば見えるかもしれないのです」

「…ああ」

「嬉しいけれど、少し怖い。私がここで過ごしてきた日常が足元から崩れていきそうで。私はもうメイベル王国の人間である筈なのに。怖い」

「ルリコ」

「怖いのよ、マルセル」


 訳もなく感情が高ぶって、涙交じりにそう言い募れば、ぎしっと音を立ててマルセルが覆い被さって来た。目元を覆っていた手は既に外されている。私を囲い込むように寝台に両手を付いたマルセルの頬にゆっくりと手を伸ばす。ああ、私はどうしてこのような事を口走っているのだろう? このような事、言うつもりなど無かったのに。


「帰りたいのか、故郷に」


 暗闇の中でも端正な面立ちは変わらず、艶めいた眼差しが私の滲む視界をひたと見つめている。どうしてか胸をかきむしるような寂しさに突き動かされ、私はぎゅっとマルセルの首に両腕を回した。まるで幼気な子どもになった気分で、私はその首に顔を埋める。嗅ぎ慣れたマルセルの香が鼻腔を擽った。


「分からない」


 小さく呟いたそれは、気弱な感情を滲ませるくぐもった声だっただろう。マルセルは付けていた冠を器用に外し、髪を崩して私の背に両手を回した。


「必要だと言って。ここに居ても良いのだと、その資格はあると言って。でないと、―――…」


 帰りたくなってしまう。

 そう続く筈だった言葉は、マルセルの唇によって押し流された。角度を変え口づけが深まる度に、ゆるゆると強張っていた何かが緩く解け、熱い奔流を生み出していく。粘着質な水音と時折漏れる吐息が交わり、慣れ知った指が後頭部を撫で、さらりとマルセルの前髪が私の頬に落ちる。


「んっふっ、マルセル」

「お前が必要だ。だから何処にも行くな」


 耳元で囁かれた言葉は、今の私が求めていた言葉。心のどこかで渇望する程求めていたそれ。マルセルが帯に手を伸ばす様子を見つめながら、私は一時の快楽に溺れた。





 それから、あっという間に時は過ぎ、私が陽国へ向かう日がやって来た。私に随行するのはリュウホウ―――と言いたい所だけれど、若手文官の中でも高官という地位にあり、まつりごとの要でもあるリュウホウが長期間その席を空ける事など出来はしない。故に私のお目付け役として付けられたのは、一応面識がある程度の外交担当の文官と護衛武官、そしてマルセルが付けた女官が一人。私の目の前には、見送りに出てきた女官長と、共にこれから陽国まで旅をする花山院様とヒカイが立っている。

 マルセルは朝議に出ている為、この場には居ないが、その代わりというべきか、リュウホウが傍に控えていた。


 先程、挨拶がてら旅に同行する女官を紹介した瞬間、女官の顔を見たヒカイの口元が若干引き攣って見えたのは気のせいだろうか?

 これから長期の旅をするに当たって、私はゆったりとした瑠璃色の襖裙を纏っていた。髪も緩く結い上げるに留め、極力装飾品の重みを減らし、旅の道中で体が凝る事が無いよう準備を万端に整えている。別の馬車に乗るヒカイと花山院様は滑らかな絹の狩衣かりぎぬを纏い、こちらも身軽そうな衣装である。お二人共、流石に着慣れているのか凛とした面差しが爽やかで美しい。

 女官長の後ろに控えた女官からほうっと感嘆のため息が零れ落ちた。やはり皆、見慣れぬ異国の衣装を纏った二人に見惚れているらしい。確かに私自身も思いがけず目を惹かれたものだ。この分では後程裏で女官達の『どちらが恰好良いか』選手権なるものが開催されるのかもしれないなぁ。

 勿論、女官長に見つからないようこっそりと、だろうけれど。

 正装していたヒカイの姿も驚いたけれど、狩衣を纏っているヒカイは本当に貴族そのものといった優雅さが滲み出ている。


「それでは、行って参ります」

「ご無事のお戻りを、お待ち申し上げております」


 女官長の言葉と共に、その後ろに控えた女官達が深く礼を取る。

 馬車に乗り込む直前、遠くに佇むマルセルの姿が見えた。もしも私がマルセルの正妃であれば、このような公式行事は大々的に行われていた事だろう。然しながら私は単なる妾妃である。大仰な行事など必要ないし、また多大な国費を投じて行う事でも無い。あくまでも公式という体裁を整えてはいるが、実際には私が個人的に陽国に招待され、向かうだけの事。

 それに伴う外交的な成果など期待されてもいない。


「行ってきます、マルセル」


 遠くに見えるマルセルに礼を取り、私は今度こそ馬車に乗り込んだ。遠ざかっていく王宮の景色を眺めながら、私は隣国、陽国へと思いを馳せた。



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