魔女がいた。
彼女は、魔女だった。
「こんにちは、いや、夜だからこんばんはかなあ」
「いつでもいいのよ、ここは貴方の夢なのだから」
暖かな土色の髪の彼女は黄昏にも似た暖かな瞳を細め、笑いかけてきた。
彼女の瞳に似た色の炎がともった暖炉は常に暖かく、僕を迎え入れてくれる。
注がれた暗い赤色とも取れる紅茶の色。
「ミルクと砂糖はご自分で、ね?」
ふっと笑う彼女は僕の寂しさを和らげてくれる存在だ。
現実世界では一人ぼっちの、僕の唯一の友達。
「少しは様態良くなってるって。君と会った時からかな、すごく体が軽いんだ」
「それはよかったわ」
彼女は自分のことのように喜んでくれる。僕と一緒で彼女の友達は僕だけだから、僕のことは自分のことと同じなのだ。
夢から覚めた僕は一人、白い部屋に寝ているだけの生活。
誰も会いに来ない、来るのは決まった時間にお世話をしてくれる看護師さんと僕の変化を探しに来るお医者さんだげ。
家族のことなんて何も覚えていない。
最後に顔を見たのは、いつだっただろうか。
でも、そんなことはどうでもいい。
この人がいるから、いいんだ。
「体が治ったら、一緒にいろんなところに行こうね」
「そうね、どこにでも行けるわね」
「うん、どこでもいけるんだ」
人の話やテレビの中でしか知らない場所にだって行けるのだ、それはどんなに楽しいだろうか。
僕は彼女にたくさんの夢を話す。
海に行きたい、空を飛びたい、古い都にだって、違う国にだっていける。
海はどんな色だろうか、青い色とも緑色とも言われている。しおの香りとはなんだろう、塩とはちがうんだろうか。
「沢山、できるわね」
楽しそうに彼女は笑う。そう、たくさんできる。
でも、不安が一つだけある。
「最近、すごく眠いんだ。君によく会えるからいいけどさ」
とても眠い。現実にいるときは手術も成功したはずなのにリハビリをする体力もない。
ただ、ベッドに横になってほとんどの時間を夢の中、彼女と一緒の場所で過ごす。
それを心配してくれているからお医者様も会いに来てくれてるんだろう。僕はほとんど話したことがないけれど心配はしてくれているらしい。そう看護師さんに聞いた。
よくなるごとに彼女と会う時間が増えて、手術の少し前から彼女は僕に飲み物などを差し出してくれるようになった。
これは、何か関係があるのだろうか。
「ねえ、私たちずっと一緒に居られるかしら?」
そんな僕の考えを呼んでいるみたいに、彼女が尋ねてくる。
僕は、僕は返事ができなかった。返答によっては二度と目を覚ますことができない気がして。
だから、だから。
「冗談よ、貴方と私は違うから」
彼女の寂しげな笑みを見た途端、襲ってきた強烈な眠気になぜか後悔した。
「こんなに早く治るなんてすごいわ、神様が見ていてくれたのね」
看護師さんが笑ってくれる。
両親も泣きながら今までこれなかったことを謝ってくれた。僕の治療費で家計が大変だったのだ、本当に申し訳ない思う。
「でもよかった、治らないかもしれないと言われたときは、どうしようかと思ったわ」
「本当にありがとうございます、先生」
僕の両隣に立って頭を下げる両親。
僕は治らないかもしれない病気だったらしい。
そう、彼女と会うまでは僕も希望なんて持っていなかった。彼女がいたから。
彼女と話すことで寂しさも、苦しさもなくなって、希望や夢を持つようになって。
なのに、なのに僕は。
「もう、会えないのかな」
ぽつりと漏らす。あの日以来彼女の夢を見ることはなくなった。
謝りたかったのに。一緒に居たかったのに。
それとも、彼女は病気で落ち込んだ僕の心が作り出した幻だったのだろうか。
ああ、そうかもしれない。夢の中にしかいない友達。
僕はまた家族と一緒にいることができるようになって、きっと現実での友達も増えるから。
彼女が必要なくなって、彼女を捨てたんだ。
酷い人間だ。醜い人間だ。
「またね」
だから、僕はさよならを言っていないから、言えなかったから。
きっと、また会える日を。
「さあ、行きましょう」
「うん」
両親の手を握って僕は歩きだす。
顔なじみの看護師さんや患者さんとあいさつしながら。
「治ったのね、おめでとう」
「退院おめでとう」
「また会おうね」
たくさんの言葉を交わして。
「元気でね」
すれ違いざま聞こえた声。
はっとして、振り返る。
「どうしたの?」
両親に尋ねられ、僕は何でもないと首を横に振った。
何時もの風景。
患者さんもいるし、看護師さんもいる。知り合いの看護師さんとすれ違ったのかもしれないし、退院する患者さん相手に告げる言葉として普通かもしれない。
そう、まさかだ。
彼女がここにいるはずないのだから。
「さあ、帰ろう」
手をもう一度握りしめて、僕はもう振り返らない。
さよなら、優しい魔法使いさん。
むかしむかし、優しい魔女がおりました。
彼女は誰にも知られずに、誰からも忘れられて、寂しい人の心に住んでいました。
寂しい人がいた時、その人の心に住んでいます。
貴方が寂しい時も、きっとあなたの心の中に。
「面白い話だわ」
「そうでしょう?古い昔話よ」
笑う彼女に、私も笑う。
友達のいない私のたった一人の友達。
彼女は、優しく笑いながらおいしい紅茶を入れてくれた。
「貴方のお話も聞きたいわ」
黄昏のような、温かい瞳を細めて笑いながら。