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第九話

翌日。


前日と打って変わってかなり機嫌よく出社した私を、仕事仲間達は酷く戸惑いながら見ていた。とうとう速見が私と付き合う事になったから機嫌がいいのだ、と好き勝手囁かれているけれど、幸せ絶頂な私の耳には届かない。

昨日は名残惜しい気持ちを必死に抑えながらもホテルへ帰って行く彰人さんを見送って、ホテルに着いたとメールを貰った私は、幸せの微睡みに落ちて行った。


彰人さんは帰り際に、自分が作ったと言っていたネックレストップを私にくれた。


チェーンは見るからに太めで男性用だからと、わざわざ外してくれたけれど、どうせなら彰人さんが身に付けていたチェーンも欲しかったなとは言えなかった。やっぱり女の私が付けるにしては太すぎるのが理由だ。

もらったペンダントトップは、元々スマホに付けていたイヤホンジャックから垂れていたアクセサリを外してそこに付けた。ちょっと悪戦苦闘してしまった自分の不器用さに涙目になったけれど、満足のいく形になって本当に良かったと思う。


時々、仕事中にこっそりとソレを見てはニヤけてしまう私がそこに居て、仕事仲間は心底不可解だっただろうけれど。今朝も朝からおはようメッセージが入っていて、彰人さんは律儀な人だなと感心してしまった。

私も「今日も一日頑張ってください」って返すと、すぐに「千穂もな」と短い返事が来てまたニヤけてしまった。


うーっ! ダメだっ! 幸せ絶頂過ぎて怖いくらいっ!


二年越しの片思いが通じることがこんなに嬉しいとは、昨日までの私に教えてあげたいと思うくらいで。


そういえば、彰人さんっていつから私の事好きになってくれたんだろう? 今日、帰ったら早速電話で聞いてみようかな? なんて妄想も炸裂してしまう、そんな高揚する気持ちの中で仕事に勤しみながら迎えた昼休み。


チャイムが鳴るとほぼ同時に、省エネの理由からフロアの電気は一斉に消される。薄暗くなったフロアで仕事に一区切りついた私は、社食に向かうため鞄から財布を取り出している時だった。


「加藤」


と、声を掛けられて顔を上げると、幸せ絶頂な私とは正反対に不機嫌丸出しの表情を浮かべた速見が立っていた。


「はい」

「昼飯、一緒に食おうぜ」


コイツ、昨日私が言った事を覚えていないんだろうかと呆れながらも、私は淡々と事務的な会話を続けた。


「何か仕事の話でも?」

「……いや」


少し口ごもった彼の様子を見ていると、どうせ昨日の事だろうとため息もつきたくなる。

仕事以外では話しかけないでって昨日と同じセリフを繰り返そうと口を開きかけた時、反対側から派遣社員の女の子が恐る恐る私に話しかけてきた。


「加藤さん、なんか今日すっごく機嫌いいですね? なんかありました?」


彼女の言葉に周囲の空気が一瞬ピタリと止まった気がした。


皆が聞きたくて聞きたくてたまらなかったことを、彼女が代表して聞いて来たらしく、周囲はそれに聞き耳を立てていたらしいとすぐに察した。私に尋ねてきた彼女は速見と私を面白がって付き合わせようとする人達とは一線引いている子で、たぶん理由を聞くい相手として適任だという選出だろう。

すぐ隣に速見が居る事もあって、確信に近い気持ちで聞いてきたのだろうけれど、私は速見をけん制する意味も込めてたっぷり、にっこりとほほ笑んでちょっと大き目な声で伝えた。


「ちょっと、ね」


意味ありげな言葉を投げかければ、彼女が次に続ける言葉は決まってくるだろう。

彼女の視線は案の定、座ったままの私の隣に立つ速見をチラリと見て、少し声を潜めて核心に迫ってきた。


「もしかして……速見さんと付き合う事になったんですか?」

「まさか。速見とは今も昔も変わらず同期の仕事仲間よ。それより聞いてくれる? 私、彼氏ができたの」

『ええぇっ!?』


ようやく伝えられた事実に、彼女の声だけではなくフロアに残っていた人達、ほぼ全員の視線と戸惑いの声が聞こえたのにはさすがに私にも予想外で驚いた。私に尋ねてきた彼女はもちろん、隣に立つ速見も唖然とした表情を浮かべている。


そう言えば私、プライベートな話をあんまりしないから驚かれたのかも。って解釈したけれど。


「えっ……ええっ!? は、速見さんじゃなくて?!」

「だーかーら。私、速見の事は何とも思ってないって繰り返し言ってたと思うけど。本人にもちゃんと伝えてるし。やっと二年越しの片思いが通じたのよ」

「二年っ!?」


寝耳に水だと言わんばかりに彼女が悲鳴を上げれば、周囲の視線が速見に向いて、それはもう心底気の毒そうなもので。


周囲から固めて丸め込もうと思っていたのが手に取るようにわかる速見のやり方は、勝手に自分で盛り上がってしっぺ返しが来たようなものだ。私はむしろ清々とした気持ちで悪い気分になんてこれっぽっちもならない。

ようやく私が速見に向けていた態度が、照れ隠しではなく真実であったことを周囲が理解し始めた頃、質問してきた彼女は速見よりも私を射止めた相手に興味が勝ったらしく、食い入るような体勢で聞いてきたのだ。


「ちょっと詳しく聞かせてもらってもいいですかっ!?」

「いいわよ。一緒に昼食行く?」

「是非っ!」

「あっ! わ、私もご一緒していいですかっ!? 加藤さんを射止めた人がどんな人か知りたいですっ!」

「わ、私も!」

「俺も一緒に行ってもいいっすかっ!? あ、俺弁当だけどっ」


次々と名乗りを上げる人達に私はにっこり微笑んで。


「いいわよ。久々に皆でご飯食べましょう」


名乗りを上げた人達は皆、速見の言動に苦言を漏らしていた人達であることを理解している。速見との関係を推していた人達は遠巻きに私達を見つめて、話を聞きたいけれど入っていけないといった様子だ。

にこにことして受け入れた私は立ち上がって速見に振り返ると、彼はまだ自分の立場に納得がいかないのか、呆然とした面持ちのまま私をジッと見ていて。


「それで? 速見はどうする? 一緒にご飯食べるの?」

「……いや、俺は遠慮しとく」

「そう?」


残念だわ、と思ってもないことを呟いて、昼食を共にする仲間に「じゃあ、行きましょうか」と視線で会話し食堂へ向かうために踵を返せば。


「……うわぁ……えげつなっ……」


と、誰かが呟いた声が聞こえた気がした。


ふんっ、何とでも言うがいいわ。


散々私を嫌な気分にさせておいたんだから、これくらいで勘弁してあげるんだから、ありがたいと思ってもらわなければ困るわ。


なーんて思う私は、悪女かしら? と、歩きながら、最初に私に話しかけてきてくれた彼女に尋ねれば。


「いい気味ですよ。速見さんの行動は目に余るところがありましたからね」


と同意してくれたのを聞いて、胸をなでおろしたのは内緒。まぁ、ちょっとは罪悪感があったってことで。


あー、私って悪女になりきれないわ。


食堂へと移動した私は当然の如く質問攻めにあった。


「相手はどんな人ですか?」


と興奮気味に聞いてきた後輩に対し、私は率直に彼を思い浮かべながら伝える。


「見た目は普通の人よりちょっとワイルドな感じかしら。でも可もなく不可もなくってところね」

「ワイルド系って意外かもー。年上の方なんですか?」

「五つ年上ね」

「出会いを聞いても?」


四方八方から飛んでくる質問に、私は苦笑しながら「ご飯食べながらね」と伝えつつ、定食のアジフライにかじりつく。

ソレを見た周囲もそうだったと思いだしたように自分達の食事を進めながら、私が紡ぐ言葉を今か今かと待ちわびている様子で。口に入れたアジフライを呑み込んだ私は、先ほどの問いに答えた。


「二年前にね、痴漢に遭いそうになったのを助けてくれた人なの」


これは昨日、彰人さんと二人で話し合って決めた二人の出会いだった。真実の中に嘘を織り交ぜることによって、不自然な部分を失くした事実が出来上がる。

それから次々と飛んでくる質問に律儀に答えていると、ふと私の背後に誰かが立った気配を感じて顔を上げると。


「おーっす千穂!」

寧々(ねね)じゃない。どうしたの? 貴方が社食なんて珍しいわね」


同期でプライベートでも付き合いのある羽鳥寧々が立っている事に驚いた。


寧々は俗にいうキャリアウーマンだ。


同期が次々と結婚を機に寿退社していくなかで、女性としてはめずらしく出世コースまっしぐらな子だ。男勝りな性格で、口調も男前な彼女は私にとって親友にもあたる子。


「聞いたよぉ。彼氏できたんだって?」

「えっ? もう寧々のところまで話行ってるのっ!?」


私が思わず素で話せば、寧々はニヤニヤと笑うから急に恥ずかしくなってしまう。

フロアが違う寧々のところまで話が行くなんて、どれだけの人が噂しているのだろうと思うと流石に先ほどのやり取りはやり過ぎただろうかと反省してしまう。


「どこ行ってもアンタの話で持ち切りよー。イケメン速見を振って、当社の撫子を落とした男はどんな奴だって、もう私びっくりして」

「っ……ごめんね寧々。本当は寧々に最初に言わなきゃいけないことだったのに……って、当社の撫子って何?」

「撫子の話は置いといて。他人の噂で聞かされたのは悔しいけど、二年越しの恋がようやく叶ったんだから大いに祝福させてよね」

「寧々……」


彼女の寛大な心に思わずジーンッとくるものがこみあげてくると、私と寧々のやり取りを見ていた子が驚いた表情を浮かべた。


「えっ。羽鳥(はとり)さんって加藤さんのお相手知ってるんですか?」

「話には聞いていたけれど、実際会ったことはないわよ」


端的に回答する寧々の言葉に、周囲はますます驚いて。


「っていうか、やっぱりそっちまで噂届いてるんですか……早いッスね」

「やっぱり?」


弁当を広げた後輩君がぽつりとつぶやいた言葉に、私が思わず首を傾げると、彼は苦笑しながら肩を竦めて言った。


「そりゃそうッスよ。自分では気づいてないかもしんないッスけど、加藤さんモテるンッスよ?」

「えぇ?」


初めて聞く話に、私は驚くより戸惑いの気持ちが大きい。そんな彼の会話に輪をかけるように寧々が相槌交じりに続けた。


「仕事はバリバリこなすくせに、プライベートはまるで謎。飲み会にでれば垣間見えるプライベートな天然甘え上戸に、男性陣は既婚者も含めギャップにメロメロ。アンタに実感がなかったのは速見が他の連中を牽制してたからねぇ」

「えぇー?」


私、そんなだったかしら? と思い返すも、やはり腑に落ちなくて。


「加藤さんって公私かなりしっかり分けてますよね? プライベートも関係している羽鳥さんの前だと口調が全然違うし」

「うんうん、私もそう思う。だから、今回珍しいなって思ってたんですよ。速見さんのこと牽制するためだとは思うんですけど、あんなにはっきりプライベートの事をフロアで言うなんて、誰だって驚きますって」


そうかなぁ? と思いながらも私が思わず照れると、寧々が私の隣の空いた席に座りながら「照れるところじゃないから」とバッサリ切り捨てた。

公私を分けるのは当たり前だと思っている私にとって、これほどはっきり分かれているのも珍しいことなのだと、今日初めて知った気がする。

昔、バイト先の店長に学校の人間関係で悩みを抱えていたまま悶々としながら仕事をしていた私に対し、手厳しい言葉を投げかけてきた。


――仕事のできる人間ってどういうヤツか知ってるか? いかに効率よく仕事ができるかじゃない。仕事にプライベートを持ち込まないことだ。


店長の言葉は私にとって目からうろこで、確かにプライベートを仕事に持ち込むのは周囲にとってとても理不尽な事だと教えられた。それから私の死後に対する信条はそれ一本だった。どんなにプライベートで辛いことがあっても、仕事を始める時には切り替えるスイッチを手に入れた。

だからこそプライベートな感情を持ち込む速見を好きになれなかったし、不愉快にさえ思っていたくらいで。


今回、彰人さんの事があってちょっと気が緩んでしまっていた。


思い返せば今日の私は脳内が彰人さん一色になっていて、真摯な態度で仕事に取り組めていなかったと思う。

恋は人を変えるというけれど、仕事に支障をきたすのは間違っている。猛烈な自己嫌悪に陥りながらもすぐに気持ちを切り替えて思わず握り拳を作ると。


「うん、ごめんなさい。プライベートは持ち込まないようにします。仕事頑張る」


と、宣言すると。


「いやいやいやいや! そこ違うから!」


と寧々が呆れたように言うから、私はまた呆けてしまって。


「え? 違うの?」

「アンタね……この子たちが言いたいのはそういう事じゃなくて。逆よ逆。いっつも仕事で厳しいアンタの恋バナ聞けて、この子たちは嬉しいのよ」


持ってきたオニギリを頬張りながら言う寧々の言葉に、私はそうなの? という視線を周囲に投げかければ。私と一緒に食事をとっていた人達はみんな恥ずかしそうながらも嬉しそうに笑って頷いて。


「昼休み中くらいいいじゃないッスか! 皆、思う存分に加藤さんの惚気話聞きたいンッスよ!」


と後輩君が言ってくれたのを皮切りに、次々と思う事を告げてくれた。


「そうそう。加藤さんをメロメロにした相手の事、もっとたくさん知りたいです。もちろん加藤さんが相手の事をどう思ってるのかも知りたいですよ!」

「今はプライベートな時間です加藤さん! さあ、めっろめろに言っちゃって下さい!」

「彼氏のどこがよかったんですか?!」


身を乗り出すほど食いついてくる周囲の雰囲気に圧倒されながらも、ふと彰人さんの事を思えば。

自然と頬が緩んでふにゃりと笑った私は、彰人さんに対する気持ちを惜しみなく曝け出してしまった。


「……っ……すっごくすっごく優しい人。気遣いが上手くて、でもちゃんと自分の主張もしてくれて。ちょっと乱暴な言葉遣いだけれど、それもすっごく彼に似合っていて。時々ポロッとでる方言がまた可愛くて。自分の仕事に誇り持ってて尊敬できる、私にとって大切で大好きな人……なのっ」


きゃぁっ! 言っちゃった!


とばかりに恥ずかしさで紅潮する頬を両手で押さえれば。

一瞬、沈黙が走ったかと思えば、後輩君が持っていた箸をおいて「ごちそう様です」と言ったのを皮切りに。


「うぁ……お腹いっぱいです……全然食べれてないのに、お腹がいっぱいです……どうしてくれるんですか」

「想像以上の破壊力……」

「甘い……ゲロ甘です加藤さん……今度から加える糖分で加糖さんって呼びますわ……」

「初心者にはレベル高すぎますわ加藤さんのプライベート……羽鳥さん尊敬します」

「序の口よ」

「序の口なんッスか!? これでっ!?」


次々と白旗をあげる周囲の雰囲気に、私は「え? え?」と戸惑うだけ。


「……アンタね、普段プライベート曝け出さない癖に、ここで爆弾投下してどうすんのよ」


呆れた寧々の言葉に、私はうぅっと顔を真っ赤にしながら定食を箸でつついて、自分が作ってしまった居心地の悪さに萎縮した。


 ◇◆◇


午前中の高揚した気分を突き落す現実を思い出す羽目になったのは昼や水終了まで10分ほどの時だった。食事を済ませて自席に戻り、彰人さんから連絡がないかスマホを触っていると、背後からやってきた気配に視線を上げる。


「休み時間中にすみません、加藤さん」

「田原君。何、どうしたの?」


営業部に所属する田原浩紀(たはらひろき)君は、来月でようやく入社一年目を迎える新人社員。入社した当初は彼の噂で女性社員が浮足立っていたのを覚えている。


通称、笑わずの御曹司。


本人はそう呼ばれている事を知っているらしいけれど、決して否定する内容でもないからと飄々とした性格をしている。イケメンに分類される容姿を持ち、しかも我が社社長の二番目の息子であるという彼がやってきた時は玉の輿を狙う女子社員達が目をギラギラさせていた。


その通り名の通り彼は笑うのを苦手としていて、営業としてやっていけるのかと思うくらい無口な青年だ。決して冷たいわけではないし、感情の起伏がないわけではないけれど、基本は無表情で取り乱したところを誰も見たことがない。

誰がどんなに面白い事を言っても爆笑するところも当然見たことはないし、この年でここまで冷静を保てる人もなかなかいないという評価。肝が据わっているというか、言い寄ってくる女性社員にも事務的な会話をしてプライベートには踏み込ませようとしない辺り、ちょっと共感が持てる相手。


社内に居る時の彼は営業に出た途端、お前は誰だと思いたくなるほど饒舌で満面の笑顔を浮かべ、施主を満足、納得させるまさに営業向きの人らしい。

ようやく先輩の営業マンにくっついて歩く必要性がなくなった半年前からバンバンと契約をゲットしているというのだからまたすごい。彼の担当になったことはまだないから、彼との接点はほとんどないに等しい。だからこそ彼が声をかけてくる事が不思議でたまらなかったのだ。


「再来週の飲み会、加藤さん出席でしたよね。会費集めているんですけど」

「あ、幹事って田原君だっけ?」

「はい」


慌てて財布からお札を数えて取り出そうとしたとき、あれ? と急に不安が押し寄せて勢いよく顔を上げると、田原君はびっくりした顔をして。


「飲み会っ! いつだっけ!?」

「再来週の金曜日ですよ」

「うぁ……」


すっかり失念していた飲み会のスケジュールに、私は頭を抱えたくなった。


再来週の金曜日ってっ! なんてタイミングの悪い!!


次の日には彰人さんが来てくれるから、前日は仕事から帰って色々準備しようと思っていたのに最悪だ。


「い、今ならキャンセル間に合いますか?」

「間に合いますけど……都合悪くなったんですか? でも、秋庭(あきば)さんの送別会だから絶対出るって言ってませんでしたっけ?」

「そうだけどっ! そうだけどっ!」


究極の選択を迫られている私がうーんと唸ってしまうのは仕方がない。

田原君が幹事を務める飲み会の名目は、私がこの会社に入って一番お世話になった総務部に所属する秋庭さんの送別会だ。この会社に30年近く務めている大ベテランの女性で、総務部のドンとも呼ばれているほどすごい人。


厳しいけれどちゃんとその中に優しさも兼ねそろえているお母さん的存在で、老若男女問わず慕われている秋庭さんに、私も入社当初から色々とお世話になっていていた。長年勤めていた秋庭さんだったけれど、数年前に脳卒中で倒れてしまったお母様の介護の為、今回退職を決意されてたという。

うぐぐぅっと悩んだ挙句、苦渋の決断をして財布から会費分のお札を取り出した私を見て、田原君は不思議そうに首を傾げて。


「予定、よかったんですか?」

「忘れていた私が悪いんだもの、後から入った予定よりやっぱり秋庭さんを優先したいし。それに、大した予定ではなかったから」


大した予定があるのは翌日だから、なにも金曜日にまとめてやらなくても少しずつ準備しておこうと即座に気持ちを切り替えて会費を渡せば、田原君は受け取った会費を数えて「確かに受け取りました」と顔を上げたけれど。


「……それ」

「え?」


ふと、田原君の視線が別の方向を見ていて、私が何事かと彼の視線を追えば、それはデスクの上に出していた私のスマホで。

再び田原君を見上げたけれど、彼は相変わらずじーっとそれを見つめていたから、今度は私が首を傾げる番だった。


「田原君? 私の携帯がどうかした?」

「……あ、いいえ。それ、確か最新機種だなと思いまして」


彼の言葉に私はようやく納得がいってスマホを手に取って彼に見せた。


「そうなの。予約してたんだけどなかなか回ってこなくて。ようやく手に入れたのよ」

「へぇ。どうですか、使い心地」

「うーん、前のとあまり変わらないかしら。ちょっと通信速度が速くなったくらい?」

「最近の携帯って目に見える進化ってあまりしなくなりましたね」

「あははっ、確かに。でもやっぱり新しいもの欲しくなっちゃうっていうのは私の(さが)なのよねぇ」

「あーなんとなくわかるかもしれません」

「それって、私が新しいもの好きってことが?」

「ええ。加藤さん結構、小物にこだわるタイプですよね。以前から言おうと思っていたんですが、そこの鉛筆立てもシンプルで使いやすそうですね」

「よく見てるわねぇ。さすが営業職の人は目ざといっていうか。浅見(あさみ)さんにもこの前そう言われたわ」

「浅見さんに先を越されてしまいましたね」

「浅見さんの営業トップは伊達じゃないわよ」

「精進します」

「ふふっ、そうしてください」


珍しく田原君と談笑した後、「それじゃあ」と彼が発したのを合図に、私も軽く挨拶をして自分のデスクに向かって座りなおした。

去っていく気配を背中で感じながら、私はパソコンのスリープモードを解除しつつ、昼からとりかかる仕事の確認をし始める。


――だから気づかなかった。


田原君が酷く険しい表情で私の背中をジッと見つめていたなんて。

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