第八話
それから彰人さんのワガママで、私は今、彼の胡坐をかいた足の上に腰掛けている。ワガママなのは密着して座ることではなくて、向い合せに座らされた事。恥ずかしいと抗議しても離れがたいという彼の気持ちに賛同してしまって、私は彼の体をはさむように両足を広げて座った。
着ていたワンピースの裾がめくれ上がってしまうのを、必死に戻しているのに、悪ガキな彰人さんがにょきっと顔を覗かせたらしく、私の太ももを撫でるものだから変な気持ちになってしまう。それでもそれ以降の行為に及ぶことはなかったのは、彰人さんが必死に理性を働かせてしまったから。
「順番を間違うようなことはしたくねぇ」
っていうのが彰人さんの主張。
どこまでも私の事を想ってくれる彰人さんの優しさに、嬉しい反面、残念な気持ちになってしまうのも仕方はない。明日になれば帰ってしまう彰人さん。
しばらくは遠距離恋愛だと私がため息交じりに言えば、毎日電話したらいいと言ってくれて。
彰人さんの額の色を確かめながら、私達は色んな話をした。
「千穂の両親に俺を認めてもらうことが何よりも最優先事項だ」
と彰人さんは何度も何度もソレを繰り返した。
私が気にしなくても、世間が気にするからと彰人さんは口酸っぱく言う。
「俺んトコはいい。親はとっくにいねぇし、世話んなってるおやっさん達は千穂連れてったら泣きながら『おりん』鳴らして喜ぶ」
「『おりん』って何?」
「仏具。仏壇とか寺とかにあんだろ? お椀の形して棒で叩いて音鳴らすアレだ」
……仏具叩いて喜ぶのか。ちょっと見てみたい気がする。
それも作ってるの? って聞けばうちでは作ってないけど、隣の工場で山ほど作ってる、とのこと。
製造方法違うんだってさ。
詳しく聞きたがった私に対して「今度な」って苦笑してぽんぽんと頭を撫でてくれた彰人さん。「絶対だよ?」って念押ししたら笑われてしまったけれど。
「結婚適齢期の娘だからって、相手が誰でもいいっていう親はいねぇだろ。俺も早めに挨拶できるようにすっけど、何も聞かされねぇうちに俺が行ったら混乱させちまうだろうから」
「うん、頑張って彰人さんの良さを伝えてみるね」
「あ、初めて会ったきっかけ、バカ正直に言うなよ? 知らねぇ男が娘をホテルに連れて帰ったなんて、事実がなくても変に解釈されるだろうから」
「わかった」
「できそうか?」
と不安気な彰人さんの言葉に、私は彼の癖のある髪を撫でながらうーんと考えた。
「先にお兄ちゃんに相談してみる。それからお母さんとお父さんかな。お母さんは大丈夫だと思うけれど……お父さんはちょっと分からない」
「怖い親父さんなのか?」
「ううん、怖くはないんだけど無口な父親でね。家族の中で何かあると、お兄ちゃんも私もまずはお母さんに相談するの。でも最終的にお母さんはお父さんに決断してもらうから、やっぱり問題なのはお父さんかな。お母さんが白って言っても、お父さんが黒って言えば、黒になっちゃうんだよね」
「そっか……いい両親だな」
「え、そうかな?」
今の話の中でそんな要素はあっただろうかと首を捻れば、彼は私の唇にチュッと軽いキスを落として教えてくれた。
「家ん中を回してのは千穂の母ちゃんだろ。でも最終的な決断を親父さんに委ねるってのはなかなかできねぇことだと思う」
そう、なんだろうか?
「内助の功ってヤツだな。千穂の母ちゃんも色々考えて動いてるトコはあんだろうけど、千穂の親父さんが黒って言えば、白っつってた千穂の母ちゃんも黒にするのはそういう事だと思うぜ。千穂は、千穂の親父さんが決めた事に対して不満に思った事ねぇか? そう言う時、千穂の母ちゃんなんていう?」
「大抵は『お父さんが決めた事だから』って」
「だろ? 千穂の母ちゃんもきっと白が良かったって思ってんのに、千穂の親父さんが言った事を家族に伝えるってーのは、千穂の母ちゃん大変だったと思うけどな」
「あ……そう、かもしれない」
「千穂の父ちゃんが出てくる回数って逆に少なかったんじゃねぇの? 千穂や千穂の兄貴が、千穂の母ちゃんに相談して解決する事は解決すっけど、どうしても千穂の母ちゃんで手に負えない時だけ、千穂の父ちゃんまで話が行くんじゃね?」
言われてみれば思い当たることばかりだった。
大抵、私と兄が相談するのは母であり、母がOKを出せばOKだったし、NGだと言われたら諦めるしかなかった。けれど私達や母だけではどうしようもない時だけ、母は父に助言を求め、最終的な結論は父が出すという構成が出来上がっていた感じがする。
「千穂の一生を決める話に、千穂の親父さんが出てこねぇわけがねぇだろ。話の仕方は千穂に任せる。きっと俺の事は千穂の母ちゃんから千穂の親父さんに行くんだろうから、千穂は今まで通り自分の母ちゃんにまで話してくれ。千穂の親父さんに話をすんのは俺の役目だ」
「彰人さん……」
彰人さんの言動に、凄く感動してしまった。家族への話し合いを、全部私に丸投げするわけではなく、ちゃんとそこまで考えてくれている事に嬉しさがこみ上げる。正直、母に彰人さんの良さを伝える事までは私にもできると思っていたけれど、父に同じ思いを抱かせる自信がなかった。
父がダメだと言えば、きっとダメになってしまう。そんなのは絶対嫌だったし、でも、と葛藤を繰り返すだろう未来の私を気遣ってくれる優しさが泣きたいほど嬉しくて。
「千穂は俺よりも自分の家族を大切にしてほしい。俺には千穂に紹介してやれる親がいねぇし。できる事なら俺も千穂の親を、父ちゃん、母ちゃんって呼びてぇ」
「……うん、わかった彰人さん。ありがとう」
「ただし」
と、彰人さんは続けた。
「俺の事を家族に言うのは、もうちょい先延ばしにしよう」
先ほどまであんなに積極的だった彼が突然真逆の事を言い出したものだから、私は思わず首を捻る。なんで? と思うのは当然で、彰人さんもそれを分かっているらしくククッと困ったように笑った。
「結婚前提に、っていう気持ちは嘘じゃねぇけど、先走りすぎんのも違ぇと思うんだよ」
「でも、いずれはそうなるんだったら早い方がいいと思うけれど」
「考えてみろ。千穂は親に俺のこと紹介してくれんのは嬉しいんだけどな、『付き合い始めてどれくらい経つ?』って聞かれたらどうすんだ?」
「……あ」
「だろ?」
そう言えばそうだったと思わず零せば、彰人さんはまた笑って。
お互い思い続けた年月は二年だったけれど、二人が会ったのはこれが2回目。たった2回で結婚を前提としたお付き合いを決めてしまい、しかも1回目に会ったのは二年前。
運命的な出会いだった事には違いないけれど、言葉を介した二人の出会いは現実的に理解されない確率が高い。私ではなくても親がその経緯を聞いてしまえば「たった二回しか会っていない人と結婚を決めるなんて!」と思われるかもしれないのだ。
「どんな些細な事でも反対される理由になっちまうのは心苦しいだろ。もしかしたら付き合っていくうちに、こんなはずじゃなかったってどっちかが思うかもしれねぇ」
「そうだね……そうなりたくはないけれど、気持ちの移り変わりは自分でも分からないもの」
どちらかと言えば、私が危惧するのは彰人さんの心変わりの方だけれど。回数を重ねて会ううちに、こんなはずじゃなかったと思われるのは、やっぱり嫌だなと考えながらも、彰人さんと私はしばらく現実と運命の間で葛藤し続けなければならないのだ。
その中でお互いを知り、時には妥協して関係を作っていく必要があって、ようやく経緯を他社に話すことが出来る。私達にはそれが圧倒的に少ないから。
「年齢的にお互い焦る時期かもしんねぇけど、焦らず行こう。俺も考えてる事とか思ってること、できるだけ素直に千穂に言う。だから千穂も遠慮なんてすんな。我慢は言いたいこと言った後でもできる。時には理不尽な妥協をしてもらう事があるかもしんねぇ」
「うん……くだらない事で喧嘩になってしまうかもしれないけれど、それでも最後にはやっぱり、彰人さんと仲直りしたいな」
「だな。そう言ってもらえると俺も助かる」
「ううん。私の方こそ、結構溜め込んじゃうタイプだから、彰人さんがちゃんと受け止めてくれると思えば、言いたいことも言えると思う」
「二人で考えよう。一人で悶々と悩むよりはぜってぇその方が効率いいし」
「うん」
私の返事を聞いた彰人さんは、すごく嬉しそうに笑って私をギュっと抱きしめてくれた。ふぅっと大きな吐息が耳元で聞こえて、ちょっとくすぐったくも間近に彼の温もりを感じてドキドキが膨張する。
この人はどれだけ私をドキドキさせたら気が済むんだろうっていうくらい、冷静に話をしている間も嬉しさと緊張が止まらない。
チュッとリップ音を立てながら私の頬にキスを落としてくれた彰人さんは「さてと」と小さく呟いて、膝の上から私を降ろす。
私も彼の動きに合わせて自然と立ち上がれば、彰人さんも立ち上がって。
「そろそろ行くわ。千穂押し倒しそうで限界」
くしゃっと悪戯っ子な笑みを浮かべた彼に、私は思わず向い合せで抱き付く。彼が驚きながらも私の唐突な行動を受け入れて抱きしめ返してくれたけれど、わざと上目使いで見上げて拗ねた表情を浮かべた。
「どうした?」
「ん……寂しいなぁって。やっとお付き合いできるようになったのに、ゆっくりできないのが凄く残念。またしばらく会えないんだと思うと……」
「あー……俺ら遠距離恋愛か」
「そうだよ」
少し前にその話もしたばかりなのに、もう忘れてしまっていた彰人さんに対して不満がこぼれる。二年ぶりに再会したとは思えないほど彼があっけなく帰ろうとするものだから、怒るよりも寂しいって気持ちが断然強くて。
「……泊まって行っちゃえばいいのに」
「そうしてぇのは山々だけど、明日は色々あるから朝から早ぇんだよ俺」
「うん……。拗ねてるだけ」
自分が無理なお願いをしている事も分かっているけれど、彼のあっさりとした反応に残念な気持ちが降り積もってしまう。
泣きそうになるのを堪えながら彼の胸に顔をうずめると、彰人さんの大きな手が優しく私の頭を撫でてくれた。
「千穂ちゃん」
と、急にちゃん付けで呼ばれた事に驚いたけれど、拗ねている今の私は素直じゃない。
彼の胸元でいやいや、と鼻先をこすり付けながら小さく首を横に振ると、彼の体が揺れて笑っているのが分かった。少しだけ彰人さんは身じろぎして、私の耳元に彼の吐息がダイレクトにあたる。
「そんな可愛いこと言われたら、オッチャン帰れんくなるわ。ワガママ言わんといい子にしとってくれんけ?」
耳元で囁かれた方言交じりの甘い言葉に、私はビクンッと反応してしまった。悔しさと嬉しさが入り混じっておかしくなりそうな思考回路の中、真っ赤に染まった顔をゆるると上げれば、彼のほくそ笑んだ顔が視界に飛び込んできて悔しさが勝ってしまう。
「ずるいっ」
「あはははっ!」
もうっ! もうっ! と憤慨して暴れそうになっている私を、彼の両腕が拘束して離してくれなかった。
「千穂の休みっていつ?」
唐突な質問に、私は彼の腕の中で不貞腐れながらも素直に答える。
「カレンダー通りっ! 土・日・祝日は完全休みっ!」
建築関係とはいえ、私は事務職だからそういうことになっている。
ちなみに同じ会社の中でも営業さんは水曜日が固定の他はシフト制。平日働いている施主さんを相手にするんだから、土曜、日曜、祝日なんかは逆に忙しいから。
「おっ。そうなのか。じゃあ再来週デートしよう」
「え?」
思わず顔を上げて彰人さんを凝視すると、彼は満面の笑みを浮かべたまま続ける。
「来週は無理だけど、再来週の土日こっちに来るから、今度こそゆっくりデートしよう。だからいい子で待ってろ、な?」
「えっ……再来週もこっちに用事があるの?」
「阿呆。もちろん千穂に会いに来るのが用事だろ」
いきなりの提案に、私は一瞬呆けてしまったものの、すぐに意味を理解した私は馬鹿みたいに喜んで。
「本当!? 嬉しいっ!」
「おー、そうかそうか。そんなに俺が好きかぁ」
「うんっ! 彰人さん大好きっ!」
抱き付いていた腕にギュっと力を込めてめいいっぱい嬉しさを態度に示せば、彼にとっては茶化したつもりが予想外だったらしく珍しく狼狽えた。
「やべ……変な事言うんじゃなかった……帰りたくなくなる」
「ずっと居たらいいのに!」
「仕事クビんなるわっ!」
「そうなったら私が養ってあげる!」
「男前過ぎるだろっ! 惚れ直すわ!」
「わっ! んっ……っ!」
ぎゃんぎゃんとバカップル丸出しの会話をしていた私の唇と彰人さんの唇が強引に重なった。
何度か角度を変えながら名残惜しむようにキスを繰り返すと、ゆっくり離れていく温もりに、自然と閉じていた瞳が開かれ絡み合うと。どちらからともなくクスクスと笑い声がこぼれて、現実を置いてけぼりにした幸せに酔いしれたのだ。