第七話
電車で切符を買う時も、待つ間も、電車に乗って揺られる時も、ずっと隣で無言を貫く彼。いつも見せてくれる意地悪な笑顔はなくて、視線が合えば困ったように笑うだけで、私に何も言わせてくれない。
終わっちゃう――二人の時間が、終わってしまうなんて。
やっと会えたのに。やっと気持ちが通じた気がしたのに。しっかりとかみ合わないもどかしさが、ぐるぐると思考を占領する。分かってる。明日はお互いに仕事だから一緒に居られる時間なんて限られてる。
一緒に居たいって、もっとずっと一緒に居たいって思っているのは私だけ?
そんな気持ちを伝えられないまま、タイムリミットは無情にもやってくる。
「あの、ありがとうございました」
私の部屋の前まで送ってくれた彰人さん。一度目はマンションの前までだったのに、ここまで送ってくれたのは少しでも離れがたいと思ってくれたからかな?
「おう。ちゃんと鍵閉めろよ?」
いつの間にか標準語に戻ってしまった彰人さんを見て、私は笑って答える。
「はい」
「体調に気を付けてな」
「はい、彰人さんも」
「俺は頑丈だから」
「嘘。会った時に腰痛とか言ってたじゃないですか」
「覚えてんなぁ千穂は」
先ほどまでの無言は何だったのかと思うくらい饒舌でぽんぽんと飛び出る会話に苦笑する彰人さんを見上げて。
「……また、会えますか?」
「……ああ。今度こっちに来る時には連絡する」
「はい。待ってます」
そう言って彼に背を向けて鍵を開ける。冷たい鉄のドアが私を招き入れるために口を開く。振り返って笑えば、彼も笑い返してくれて。
「おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
結局、弱虫の自分は言えなかった。
彰人さんが何を望んでちゃんと気持ちを伝えてくれなかったのかわからなかったけれど。彰人さんは私にこれ以上の関係を望んでいないのだと思えて、私からは何も言えなくて。
ゆっくりと背中を向けたまま玄関に入って、背中で自然とドアが閉まるのを待つ。
ドアが閉まったらこの気持ちを涙に流そう。
次に彼とまた会う時に、何事もなかったかのように笑えるように。
そう心に決めながら、ドアの閉まる音を待っていた。
「――好きんなってゴメン」
ガチャリ、とドアが閉まった音と同時に聞こえてきた囁きに、私は驚いて振り返った。
視界に飛び込んできたのは冷たいドア。考えるよりも先に私はドアに手を掛けて外に居る人にもう一度確かめるために勢いよく開く。
ゴッと鈍い音がした。
開いたドアノブ片手に、ドアの向こう側に居るはずだった人を探せば、額を両手で押さえたままうずくまっている彰人さん。
「ぐっ……おぉぉっ!! 超イテェぇ……!!」
涙目になっている彰人さんを見て、私は顔色をサッと変えた。
「っ! きゃああっ!! ご、ごめんなさい! ごめんなさい彰人さんっ! だ、大丈夫ですかっ!?」
「だ、大丈夫! 大丈夫だからシィ!! 夜! ご近所さんに迷惑!」
さっきまでの雰囲気を一掃する出来事に、私はパニック。彰人さんは相変わらず落ち着いていたけれど、押せていた額が赤くなっているのが夜でもわかる。
「ご、ごめんなさいホント……」
オロオロし続ける私に、彰人さんは片手で額を押さえたままフラリと立ち上がり。私ではなくてドアを睨むと。
「くっそ、キューポラにブチ込むぞ!」
私じゃなくて鉄のドアに悪態をついた。
一瞬の間を置いて、たまらず爆笑してしまったのは言うまでもない。
「キューポラって……ぶくくっ……キューポラって……」
キューポラっていうのは鉄を溶かすための溶解炉だったはず。鋳物師ならではの発想だ。
つまり、お前なんて溶かしてやるって意味だと思う。
彰人さんらしい発想に笑いが止まらなくなっていると、彼はタンコブにならないよう必死に額を押さえながらムスッとしてしまって。
「ご、ごめんなさい彰人さ……っふふ……もう、根っからの鋳物師ですねっ……ふふっ……」
どうしてこんなにも私の好きになった人は可愛いんだろう。言い逃げばかりされていたけれど、こうやって罰が当たったんだと思えば可愛いものだと思う。
もう、本当にっ。本当に、もうっ!
「大好きっ」
クスクスと笑いながら自然と流れ出た告白。
目尻から零れそうな涙を指先で拭いながら、めいいっぱいの笑顔で伝える。
ズルい人にはズルい私でいい。
それくらいがちょうどいい。なんて図々しいことを考えていると。
彰人さんが両手で私を後方に追いやると、足がもつれて玄関先で転びそうになる。目まぐるしく視界が変わる。ギュッと抱き寄せられ、密着した体に驚いて顔を上げれば。
大きく口を開いた彰人さんに食べられた。
はむり、と後頭部を支えられたまま激しいキスが降り注ぐ。
「ふっ……んっ! ……ぅっ」
自然と瞳を閉じて、唇と全身に纏わりつく溶けてしまいそうなほどの熱を感じながら、ドアが再び閉まる音を遠くで聞いた気がした。
「……っあ……ふぁ……っ……き……と、さ……んっ!」
幾度となく角度を変えて荒っぽいむさぼるようなキス。
このまま食べられてしまうんじゃないかと思うくらい、情熱的に激しく私を求めるそれに、呼吸が出来ずに頭がくらくらし始める。ようやく離れた唇から、必死に酸素を取り入れるように短い呼吸を繰り返せば。
「……くそっ」
悔しそうな声と共に、彰人さんの頬が私の首元に摺り寄せられて、不安定な体をしっかり抱きしめた。
「んで……くそ……んなつもりなかったのにっ……」
何度も何度も悔しそうに言葉をこぼす彰人さんの声を聴きながら、私はゆっくりと温もりを確かめるように彼の背中に両手を回す。
彰人さんの背中に触れると、彼が大きく呼吸したのを感じた。先ほどよりも力がこもった彰人さんの腕の強さに、私ははぁっと息が上がる。
幸せすぎておかしくなりそうだ。
このままずっとくっついていたい。
彼に食べられたいというより、彼を食べてしまいたいと思うほど気持ちが高揚している。
ふと、彰人さんの腕が拘束を解いた。離れていく温もりに寂しい気持ちを押さえて顔を上げると、彼の長い髪が私の頬をくすぐる。
「……我慢、できなかった」
と、まるで供述する容疑者のように彰人さんは呟く。
「もし、奇跡的に会えたとしても、自分の気持ちを伝えるつもりなんてなかったんだ」
矛盾している自分の言動に後悔しているような言葉に、私は彼の頬を手のひらで包むように撫でる。
「どうして?」
と聞けば、彼は瞳を大きく揺らして苦笑した。
「色々考えてたんだ。考えて考えて……結果的に無理だと思った。千穂の事、好きだって気持ちだけじゃあどうしようもないって」
そんなことない、なんて言えなかった。愛が総べてなんて言えるほど、私たちは若くない。たぶん、会わなかった二年間の間に考えていたことは一緒だと思う。ただ、考え方が違うだけで。
「聞かせてほしい」
意を決して彰人さんをまっすぐ見ると、彼は私の言葉に隠された意図を読み取り大きく頷く。気持ちに翻弄されるだけの恋なんて出来ないのは大人な証拠。でも、時には感情を優先する事で関係が成り立つのであれば、私達は大丈夫。何の根拠もないけれどそう思えたから。
名残惜しみながらも彼から離れると、真っ暗だった玄関の電気を手探りでつけて、彰人さんに振り返った。
「あがって、彰人さん。ちゃんと二人で話そう。これからの事」
「ああ」
互いに必死に理性をかき集めながら、私たちは未来の話をするために靴を脱いだ。
◇◆◇
「大丈夫?」
「まだ、ちょっと痛い」
彰人さんを部屋に招き入れて最初にしたのは、彼の赤くなった額を冷やす事だった。冷凍庫から小さめのアイスノンを持ち出して、ハンドタオルにくるんで差し出した。彰人さんは私のベッドを背もたれに、ラグの上で胡坐をかいて座っている。
彼が冷やしている間に、私はお湯を沸かしてインスタントコーヒーを淹れた。両手にマグを持って戻ってくると、彰人さんは物珍しそうに私の部屋を見渡している。私が声をかけると、彼は気恥ずかしそうに笑って答えるものだから、思わず私も笑ってしまったけれど。
部屋の真ん中に置いてあったローテ―ブルにマグを置いて、私は彼の隣に腰を下ろした。彰人さんはちょっと驚いていたけれど、私は今まで離れていた分の距離を取り戻すように彼にピッタリと張り付いて。
「千穂、それじゃあ話せねぇだろ」
「いいの、ちゃんと声は聞こえるから」
「俺の理性がぶっ飛んだらどうしてくれんだ」
「やったね、ラッキー?」
「千穂ぉ……」
押せ押せな発言を繰り返す私に対し、彰人さんは呆れたように私を呼ぶ。でも、決して満更でもない声色に、思わずクスクスと笑みが漏れて。
「だって離れがたいんだもの。だから彰人さんが頑張って」
「惚れた女と二人きりなのに、無茶言うなよ」
私が素直になったのが功を奏したのか、彰人さんが私を惚れた女だと言ってくれた。ただそれだけなのにすごく嬉しくて、顔の筋肉が緩んでしまう。
「私、彰人さんが好き。すごく好き。二年前にたった一度会っただけなのに、この二年間、ずっと貴方に片思いしてきたの。これだけ時間が経ったんだもの、吊り橋効果なんて言わせないわ」
やっと伝えられた気持ち。でも、と私は続ける。
「こんなに好きなのに、彰人さんの事何も知らないの。きっと彰人さんも私の事をそんなに知らないと思う。だから、この気持ちは恋とは違うんじゃないかって思った時もあった」
「……ああ」
静かに相槌を入れてきた彰人さんは、額にアイスノンを当てたままずっと耳を澄ませてくれている。真面目な話をしているはずなのに、どこか抜けたシチュエーションに思わず笑みがこぼれそうになったけど、必死に唇を噛みしめて堪える。けれど彰人さんにはバレバレで「こら」って小さく叱られてしまった。
「それでも好きって考えると、彰人さんの事を一番に思い浮かべるし、彰人さんをもっと知って、嫌なところを見ても、やっぱり好きって思うんじゃないかなって」
不安な気持ちも、先の見えない未来も、全部全部少しずつ小出しにしていくことで、自分の感情が自然と落ち着いていく感覚。
もっとうまく伝えられたらとも思うけれど、あふれ出す気持ちは結構いっぱいいっぱいで。
「俺は……」
と、今度は彰人さんが切り出した。
「……俺が、もし、今度誰かと――千穂じゃなくても、女性と付き合うって話になった時、最初に思い浮かぶのはやっぱり結婚なんだ」
「うん、わかるよ」
やっぱり、という気持ちもあって素直に頷くと、彰人さんも頷いて。
「今年で37になるオッサンが、未だに未婚ってのは、世の中から見てどっかに問題あるんじゃねぇかって思われて当然だと思う。実際、俺は問題だらけな野郎だよ」
うん、それもなんとなくわかるよ、とは口にしなかったけれど。
「中卒で親なし。手に職持ってるとはいえ、その仕事はやっぱり普通に会社で働く連中より危険を伴って、給料もたぶん千穂がもらってるより低いし。俺が娘を持つ親だったら、この先苦労するだろう相手んトコに嫁がせたくねぇと思うんだ」
彼の言葉を聞きながら、自然と顔が彰人さんの方を向く。彰人さんもすぐ隣で私をまっすぐに見つめてフッと笑う。
「どんな女性を嫁にしたって、俺は嘘でも嫁になる人の両親に、娘さんを幸せにしますなんて言えねぇんだよ」
彰人さんは揺れている。
職人としての誇りと、現実との間で。
なにより人を想う気持ちがとても強いからこそ、彼はずっと一人だったのかもしれない。
「結婚って当人同士だけの問題じゃねぇだろ? 少なくとも俺はそう思ってる。お互いの家の事とか、色んなこと考えてたんだけど、最終的に俺は今の仕事捨てられねぇ。それしか出来ねぇってのも当然あるけど」
彼の言葉に、うん、と頷いて。
「彰人さんは、守りたいんだよね。伝統を」
彰人さんが伝えたいことは、きっとコレなんだと思いながら口に出せば、彼ははにかんだように笑ってくれた。けれどすぐにそれは悲しみを含むものに変わってしまって。
「んな立派な事だったらいいんだけどな」
「違うの……?」
彼だったらきっとそう言うだろうと思っていたから、口に出したけれど、これは私が自分の理想を押し付けたのかもしれないと思うと、急に不安が襲ってくる。けれど、彰人さんはククッと困ったように笑って言った。
「伝統は守りてぇと思ってる。その理想が現実になれば嬉しいに越したことはない。けど現実はやっぱそれが仕事で、生きてくために必要だからってのもある」
理想だけ追いかけていては生きていけないという現実を、彼はしっかりと理解している。
「そうなるとさ、相手に求めることが多くなる」
「うん」
「俺の稼ぎじゃ、ろくな生活送らせてやれねぇかもしれねぇ」
「うん」
「仕事辞めて富山に来てもらうしかねぇ」
「うん」
「家族とも離れる」
「うん」
「こっちで何年もかけて作り上げてきた人間関係を、あっちでイチから作り直してもらう事になる」
「うん」
「俺は根っからの職人だから、女が男のやることに口出すんじゃねぇって怒鳴るかもしれねぇ」
「うん」
「笑わせるより泣かせる回数が多いかもしれねぇ」
「うん」
「それでもいいか?」
長く続いた会話と相槌の流れで、彼が初めて私の意思を確認した。今まで見せたことがないくらい、真面目な顔をして現実を理解してくれとまっすぐに視線を向けてくる彰人さん。私に答えを求めてきているはずなのに、それでも彼は重ねるように続けた。
「こんな俺と、結婚前提に付き合ってくれるか?」
まっすぐな告白に、私の心臓は一際うるさく高鳴った。嬉しくて、嬉しくて。もうとっくに出ている答えを私は口にする。
「はい。私を彰人さんの恋人にしてください」
「……んな簡単に答えて後悔しねぇか?」
「簡単じゃないですよ。ずっと考えていましたから」
戸惑いというより明らかに落胆したような表情を浮かべた彰人さんに、私は侮らないで欲しいと強い感情を込めた目を向ける。
「二年間、ずっと考えていたんです。考えて考えて、それでもきっと私は彰人さんを選んでしまうんだろうな、って」
馬鹿みたいに一途に貴方を想っていたから。
「私、鋳物の事は少し勉強しました。普通に工業部品作る会社でも、鋳物っていう技術は使われているって。でも、彰人さんがしているのは伝統的な鋳物で、全部を理解するところまではまだ至っていません」
「……ああ、だろうな」
「分かってたんですか?」
驚かそうと思っていたのに理解されていた事にちょっとガッカリしながら聞き返せば、彰人さんは苦笑して。
「普通は鋳物師って言ってもわかんねぇんだよ。大抵は漢字教えても『いものし』って読む。でも千穂は普通に俺を鋳物師って言っただろ。あと錫ってのも、聞いた事はあるけど金属だって事を即座に理解できるヤツは珍しい。何よりさっき俺のキューポラって単語にも反応したじゃねぇか。ちょっとやそっと勉強したくらいじゃ出来ねぇ芸当だ」
さらさらと答え合わせのように言われた彰人さんの言葉に、私はうっと言葉を詰まらせて顔を紅潮させる。
ば、バレてる……なんて今更過ぎるけれど、彰人さんもよく私の話す内容聞いてるなぁとつくづく感心してしまったけれど。
「彰人さんもお察しの通りですけど、さっきも言った通りちょっとは勉強しました。でも鋳物師の事は分かっても、鋳物師の奥さんってどう支えていけばいいのかもわかってません」
「ああ」
「確かに新しい土地に移ることになれば、ホームシックにもなるだろうし、人間関係に緊張して疲れちゃうこともあると思います」
「ああ」
「そんな時に、彰人さんが傍に居てくれたら心強いなって思います」
「……うん」
「私の家族の事は問題ありません。実家の近くに兄夫婦が住んでいますし、私はいつ嫁に行くんだって母にせっつかれているくらいですし」
「そうなのか……」
「はい」
静かに一呼吸を置いて、改めてまっすぐに彰人さんを見つめると、好きって感情が自然と表情を綻ばせて。
「私を、彰人さんのお嫁さんにしてください。鋳物師のお嫁さんとしては不甲斐ないばかりだと思いますけど、彰人さんの傍に居たいから頑張ります」
言い終わると同時に、彼の大きな手が私の髪を梳いた。突然の事に驚いて目を見開けば、彰人さんの顔がすぐ間近に迫っていて。
「お前、スゲェいい女だな」
って、急に褒めるから。
「すっごく男前な人のお嫁さん候補ですから」
と返せば。「たまんねぇな」と言ってついばむようなキスをしてくれた。