第五話
運命の神様は残酷だ。
彰人さんと交わした約束は果たされないまま、月日は残酷にも二年が過ぎた。
あの日、彰人さんは最後まで紳士な態度で私を自宅マンションまで送ってくれて、私は彼と過ごしたたった一日を宝物のように胸に秘めて日々を過ごした。
私の気持ちだけが世の中に取り残されたように、あの日ばかりを鮮明に思い出す。
月日が経てばたつほど彰人さんに会いたいと思う気持ちが募って、苦しくて、襲ってくる虚無感に一人で泣いて。
彰人さんとの再会を夢見てワクワクドキドキしていた日々はあっという間に過ぎてしまって、キリリと痛み始めた心に居ても経ってもいられず彼の宿泊していたビジネスホテルに足を運んだけれど、彼は既に滞在していなかった。
どれだけフロントで粘っても、結局は個人情報だからと彼の素性を教えてもらうことは叶わない。
落胆と憔悴が激しかった私を見かねた大学時代の同期が、無理矢理連れだしてくれた合コンで出会った男性に、誘われるがままに何度かデートを重ねて告白された時。
「忘れられない好きな人がいる」
だからごめんなさい、とするりと無意識に滑り落ちた言葉に、ああ、私はあの時すでに彰人さんに恋をしていたんだと自覚して。また一人きりで泣いた。
私に告白をしてくれた男性はとてもいい人で、忘れられなくてもいいからと私の傍に居たいと願ってくれたけれど、他の男性を受け入れられるほど気持ちに余裕がなかった。
男性は仕方ないね、と笑って許してくれたけれど、申し訳ないよりも募る彰人さんへの気持ちに翻弄されていた気がする。
職人さんだと言っていた彼を探すために、あの時の会話を頼りにしながらネットで彼の行方を探してみたけれど、そう簡単には捕まらない。
もう、ここまで来てしまうとストーカーなんじゃないかと自嘲するしかない。
かわりに彼が誇りに思うと言っていた鋳物という世界には少し詳しくなってしまったのは仕方ないことなのかもしれない。
富山県高岡市という場所と、鋳物工場から検索したらすぐに見つかると思っていたのが甘かった。彰人さんが教えてくれた通り、高岡市は鋳物の街というネットの情報に私は思わず動揺する。鋳物工場が多く、そしてあまりにも情報が少なすぎる。
高岡銅器に関する情報がじゃない――そこで働く人々の情報が、だ。
しかしそれも当然かと落胆せざるを得ない。働く人の情報なんて所詮は個人情報であってネットで流れるならば大問題だ。冴島という名字もよくよく考えたら彰人さんの名字であって、母方の親戚が経営している会社名がいくら名字を使われていようがヒットしないのも当たり前。
必死に探しているうちに彰人さんが携わる高岡銅器が抱えている問題もいつの間にか知識として私に流れ込んでくる。
高度経済成長の波に押され、需要が減って後継者不足に陥ってしまった高岡銅器という伝統。
少しずつ現代に追いつくように色んな催しで起死回生を図っているけれど、一度押し寄せた波はそう簡単に引いてはくれない。
そんな中で彰人さんが頑張っているかもしれないと思うと、ギュッと胸が苦しくなる。
恋にかまけている暇なんてないかもしれない。一度しか会ったことのない私の事なんてもう忘れているかもしれない。そう思うと苦しくてたまらない。
一度途切れてしまった縁の糸は、ネット越しでは到底つながらなかった。
会いたくて、会えなくて、もどかしい日々を過ごしながら、少しずつ気持ちが平穏になっていったのは、彼を好きだという気持ちをようやく受け入れることが出来た事と、周囲を見渡す余裕が生まれ始めたから。
ようやく彰人さんの存在を友達に伝えられたのは二か月くらい前で、たった一度会っただけの人に恋い焦がれている私に「いい年して」って呆れたように呟いて。それから「羨ましいわ」と続けてくれた友達に、私は肩を竦めることで誤魔化す事しかできなかったけれど。
「今日こそ飯に付き合ってもらうからな」
定時退社日の今日。帰り支度をしていた私の隣に歩み寄ってきたのは同僚の速見だった。院卒で入社してきた彼は、私より年上だけれど同期でもある。
「嫌」
隣に立つ速見の顔を見ないままキッパリと断れば、彼は「またか」と呟いて大きくため息をついた。そんな速見の言動を無視したまま、私は立ち上がって周囲でまだ仕事を続けている仕事仲間に「お先失礼します」と小さく声をかけて歩き出す。速見は諦めていなかったようで、帰路を急ぐ私の隣に並んでフロアの廊下を歩きだした。
「いい加減諦めろよな」
「その言葉、そっくりそのまま返すわ」
呆れたいのはこちらの方だと言わんばかりに不愉快さを言葉に含ませながら零せば、速見が隣で苦虫を噛み潰したように「ちっ」と小さく舌打ちをする。
「お前もいい年なんだし、そろそろ諦めて俺と付き合えよ」
毎日のように聞かされている言葉に、私はやはり「嫌」の一言で片づけた。
――そうなのだ。
こんなエラそうな態度をしている速見は、どうやら私に長いこと片思いをしていたらしい。
仕事はできる人だと思う。
身なりもたぶん、モテる方。
ただ、同期の私には何かと突っかかってくることが多かったから、私は彼を苦手としていたのだけれど。
そんな折だったと思う。私が憔悴していた時に友人から誘われた合コンに行くと何気なく零した時、彼は酷く慌てて私を合コンへ行かせまいとした。仕事で容赦のないこの男に、プライベートまで踏み込まれたくはないと言い返せば、彼は突拍子もなく私に告白をしてきた。
「好きでもねぇ女ならさっさと行けって言うよ俺だって。好きだから引き留めてんだろ?」
「……速見、もしかして私の事好きなの?」
彼にとっては一世一代の告白だったらしいけれど、寝耳に水だった私が呆けた表情でそう返せば、速見は「言うつもりなかったのに!」と逆ギレしたからこっちが困った。
それからだ、速見が開き直って私を口説き始めたのは。
ところ構わず私に好きだの付き合えだの上から目線で言ってくる彼に、最初こそ戸惑ったものの、彼の片思いは意外と周知だったらしい。
知らなかったのは私くらいだったらしくて、仕事仲間の雰囲気は圧倒的に速見の恋を応援する方向に傾いている。これが彰人さんと出会う前だったら、きっと私は速見の事を好きでなくても、まぁいいか、くらいの気持ちで付き合い始めていたと思う。
しかし、彰人さんと出会ってしまった私にとってその気持ちは迷惑でしかない。何度もキッパリと断っているはずなのに、それが恥ずかしがっていると取られるなんて意味がわからない。
満更でもないなんてひとかけらも思っていないのに、速見を好きだという顔も知らない女性社員からお門違いなやっかみを受けた事だってある。
「好きな男が居るとか言うのも、どうせ嘘なんだろ?」
「私は本当の事しか口にしていないわよ。もちろん、それはアンタじゃないって言葉も正直な気持ちよ」
なかなか私を諦めない速見にはっきりと思い人が居る事を告げたにも関わらず、彼は都合のいい解釈をしたらしく「それって俺の事?」と言ってきたので、持っていた鞄を振りかぶって彼の頭に叩き込んだのは結構最近の事。
「んなこと言って、俺が告白してからお前ますます綺麗になったじゃん? 俺の事ちょっとは意識してくれんだろ?」
こっちが呆れてしまうほど自分に自信がある物言いに、私は軽蔑の一瞥を向けて無言のまま満員に近いエレベータに飛び乗った。
私が見た目に気を遣い始めたのは確かに二年前だった。
でもそれは告白してきた速見の為じゃない。彰人さんと、いつどこで再会してもいいように、と思って自分磨きを始めたのがきっかけだ。
どんなに忙しくても綺麗に化粧が出来るよう練習し、肌の曲がり角である30歳を迎えた事もあって、クレンジングや肌の手入れを入念にした。
好き嫌いも少しずつ減らして、健康的なダイエットで理想体重を手に入れたし、ずっとやってみたいと思っていたけれど、私なんてと敬遠していたエステにも通い始めた。
恋は人を変えるって本当だと思う。
おかげで色んな人から「綺麗になったね」って言われるようになったし。
努力が目に見えて人に評価されるのはとてもうれしい。けれど、やっぱり私はたった一人の人からの言葉が欲しい。
彰人さんといつか偶然出会った時に「綺麗になったな」ってくしゃりと笑って言ってもらいたい。そのたった一言のために私は努力しているんだと思って。
それなのに、速見の言葉がいちいち癪に障る。
エレベータに乗っても相変わらずぺちゃくちゃと私に話しかける速見を、丸っと無視している私。乗り合わせた第三者から見て見れば異様な光景だろうけれど。エレベータの口が再び開いた途端、私はカツカツとピンヒールを鳴らしながら早歩きでオフィスの入ったビルを出る。相変わらず速見は私の少し後ろを追いかけるように歩いていて、いい加減にウザいとキレそうになった時だった。
まだ寒さの残る春先の街中。
帰路を急ぐ人達の隙間を縫って歩いていた私の瞳に幻が飛び込んできた。
数十メートル先の歩道と車道を区切るガードレールに、ゆったりと腰を掛けながら手元のスマートホンに視線を落とす男性を見つけて、私は思わず足を止める。
私を追っていた速見が急に立ち止まった私にぶつかりそうになって足を止めたのをなんとなく背後に感じたけれど、私は振り返る余裕もなくその人をただただ見つめてしまって。
ふと、スマートフォンから顔を上げたその人を見て、私の心臓がドクリと跳ねた。
脈打つ心音が全身を駆け巡る血流を早め、体全身が熱を帯びていく。
――彰人、さん……?
二年ぶりに見た彼は、以前より少し長くなった髪を、相変わらずけだるそうにかきあげて。ポケットにスマホをしまいながら静かな動作で立ち上がる。
あっ――と、声を掛けようとした時だった。
彰人さんの視線が一人の女性を捉えて微笑んだ。私よりも先に彼の元へ駆け寄った女性は、驚くほど若くて愛らしく、短いフレアスカートをひらりとさせて彼の腕に体を摺り寄せるように腕を絡めて。
――あ。
今まで、考えないことはなかった。
一方的に恋心を抱いている私と違って、彰人さんに相手がいるんじゃないかって。二年前に出会った時、彼も私もそれなりに年齢を重ねていて、結婚していてもおかしくないくらいだった。
あの時、その事実を聞けなかった事がとても悔やまれて、彼に特定の人がいませんようにとお祈りしたくらい、私は酷い事を考える女だった。
じっと動かなくなった私を、後ろで見ていた速見が気付いたらしい。
彼が何か話しかけてきた気がするけれど、そんな事も聞こえないくらい、私は目の前に現れた彰人さんに心奪われていた。騒音が響き渡る街中で、彰人さんと彼女は何か楽しそうに会話をしたかと思えば、やがて私達に背を向けて歩き出して。
――ねぇ、彰人さん。私はここに居るよ。お願い、気づいて?
気付いた時に、私は無我夢中で彼らの元に走りだした。
隣に居る人が彼女でもいい。奥さんでも構わない。ただもう一度だけ。
もう一度だけ貴方の視線に映る権利を私に。
「――っ! 彰人さん!」
行き交う人達が、叫んだ私を驚いて見た。
今にも泣き出しそうな私がせいいっぱい足を踏みしめて愛しい人の名を呼べば、呼ばれた彼の背中がピタリと止まってゆっくりと振り返る。同時に彼の腕に絡みつくように歩いていた女性も一緒に振り返ったけれど、私の目には私を見つけて驚いた表情を浮かべる彰人さんの姿しか映らなくて。
追いかけてきた速見が私の元へ到着したのが先だった。
私を振り返らせるように肩に手を置いて引かれたけれど、私はそれを振り払って彰人さんを見つめる。彰人さんは自分と並んで歩いていた女性に一言何か告げた後、彼女から離れて私の元へ小走りに歩み寄ってきて。
「千穂っ!?」
くしゃっと懐かしさを覚える屈託のない笑みを浮かべた彰人さんが、私の名前を呼んでくれた。
「うわ、久しぶりだなっ! 元気してたか? よく俺だって分かったな!」
二年前と変わらない口調で、私を見つめる彰人さんの姿に、私は泣きそうになるのをグッと堪えて微笑んで。
「ひ……さしぶり。元気だったよ。彰人さんは?」
「俺? 最近、腰痛と肩こりがちょっと」
「やだ、オジサン臭いよ」
そこで、元気だったって返事をしてくれないのが彰人さんらしい。相変わらずの軽い口調に、私が思わずクスクスと笑う。嬉しくて、本当にただ嬉しくて。言いたいことがいっぱいあったのに、唐突過ぎる再会に言葉が上手くでてこなくて。
「正真正銘、俺はおっさんです」
キッパリと言いながらも残念そうに肩を竦めた彰人さんの態度に、私はまた愛しさがこみあげてくる。
「加藤」
幸せ過ぎる再会に水を差してきたのは、隣に立っていた速見だった。
「……あ、速見。まだ居たの?」
「い、居ちゃあ悪いかよっ!」
気持ちが一気に急降下した感情をそのまま露わにした私の言葉に、速見は珍しく戸惑って私に食って掛かる。彰人さんと自分に対する扱いの差が全く異なるのを目の当たりにしたものだから、そうなっても仕方なさそうだけれど。
「ああ、すみません。お連れの方ですか」
ふと聞こえてきたのは彰人さんの敬語だった。私が彰人さんに振り返るのと同時に、速見はいち早く「同じ会社の者です、今はまだ」と意味ありげな言葉を含んで敬遠する。慌てたのはもちろん私だ。
「昔も今もこれからも、ずっと速見とは同じ会社の人間である以外の関係にはならないわよ」
本気でやめてよね。彰人さんに変な誤解を与えないでほしい。
けれど彰人さんは、今の会話で私と速見がどういう関係にあるか理解したようで、クククッと笑いながら「モテるなぁ千穂」と茶化したように言ってきたものだから。
本当に好きな人に振り返って貰えないなら、モテなくたっていい。そんな言葉を呑み込んで。
「すみません。お邪魔してしまって。彼女とは久々に会ったものですから、つい」
「お邪魔じゃないよ彰人さん。声を掛けたのは私の方だし、遠慮なんてしないで」
お願いだから、って気持ちを込めて言えば彰人さんは困ったように笑うだけだったけれど。
「ねぇ、まだぁ?」
ふと、彰人さんの背後から甘ったるい声が聞こえてきて、私は思わずハッとその人を見つめた。
放置された事に対してか、不満そうに背後から彰人さんに歩み寄ってきた先ほどの女性は、彼の腕に自分の腕を絡めながら胸を押し付けるように密着している。彰人さんはそんな彼女を振り払う事なく受け入れたまま、呆れた表情で彼女を見下ろした。
「お前、ちょっと待ってろっつったろーが」
「だってぇ……」
砕けた会話の中に親密さがうかがえる。ギシリと心が軋む音を耳元で聴きながら、必死に体裁を取り繕って笑顔を張り付ける。けれど彰人さんに密着している彼女は、私を酷く睨んでいるのを見て、ああ、やっぱり……なんて思ってしまった。
「だぁれ?」
先に口を開いたのは彼女だ。私を睨み続ける彼女が、親密さを見せつけるように彰人さんを見上げる。
「……凄く可愛い彼女さんですね」
私が一番聞きたくて聞きたくなかった事を速見が聞いた。
余計な事をと思いながらも、驚いて振り返った彰人さんは私じゃなくて速見を見る。
確かに可愛い人だった。
甘えるのが上手で、私なんかとは正反対の。
聞きたくないと耳を塞ぎたくなった。ぱぁっと表情を明るくした彼女が視界に入ったのだから、それは当然で。
「いや、従妹です。こっちに二年前に進学したんで、コイツの親の代わりにたまーに面倒見てるんです」
従妹――? と、彼女の正体を聞いて、あからさまに気が抜けてしまった私を、彼女が再び睨んできた。従妹と呼ばれてこの場で納得していないのは彼女だけだとすぐに理解する。
「ねぇ、行こうよ彰兄ぃ」
「お前なぁ」
早く早くと一刻も早くこの場から立ち去ろうとする彼女に、彰人さんは呆れた表情を返すだけ。仕方なさそうにため息を漏らした後、私をみて「じゃあ」と踵を返そうとした彰人さんを私は呼び止めた。
「あ、彰人さん! 連絡先教えてっ!」
このままバイバイなんて酷すぎる。せっかく会えたのに、また偶然を祈らなきゃいけない日々なんてこりごりだ。彰人さんは思い出したように「あ、そういえば」と呟いたけれど、隣の彼女は隠そうともせず「えぇ~」と頬を膨らませて。
速見に至ってはそんな子供じみた事を言わなかったけれど、向けてくる視線は不愉快そのものだ。スマホを取り出し操作し始めた彰人さんを見て、私も慌てて鞄の中からスマホを取り出して。
「赤外線でいいか?」
「うん、私が送るから、受け取ったらメール貰ってもいい?」
「わかった」
そう言って互いにスマホを操作してデータを送ると、彰人さんは再び操作しながらふと零した。
「今から飯?」
「ううん、今日は帰る」
「え? そうなんか?」
連絡するタイミングを聞きたかったらしい彰人さんが思わず顔をあげると、私はにっこり笑い、隣に立つ速見は本日の敗北を知る。
そんな私達の姿にまたもや色々と察してくれたらしい彰人さんは、少し思案した後に伺うように聞いてきた。
「……なら誘っていいか?」
「……え?」
「飯。誘っていい? 久々に会ったし」
「あ、うん。……でも」
思わず私が彰人さんの隣に立つ彼女に視線を向ければ、彼女は酷く憤慨した様子で抗議し始めた。
「ちょっと彰兄ぃ! 私はっ!?」
「お前、今から合コン行くっつってただろうが。約束してたから店まで送って行くけど、帰りは自分の足で帰ってこい」
「なんでよっ! 迎えに来てくれたっていいじゃんっ!」
「俺は忙しい」
「その女とご飯食べる時間はあるのに!?」
「だから忙しいんだろうが。今忙しくなったの。お前のワガママばっかに付き合ってられっかよ。あと知らん人に対してそういう言い方すんな。謝れ」
「私が合コンでお持ち帰りされちゃってもいいんだ!?」
「そん時はどこの馬の骨かもわからん奴に食われたって、おやっさんに報告してやるよ。あと謝れ」
「酷いよ彰兄ぃ! なんでその女が優先なのよっ!」
「樹里」
きゃんきゃんと喚く彼女に対し、彰人さんの声色がワントーン低くなった。
名前を呼ばれた彼女は彰人さんの変化にいち早く気付いて、ビクッと体を震わせる。彼が本気で怒っている事を察したらしい彼女は、急にしおらしくなって彰人さんにすり寄った。
「や、やだ……そんな怒んないでよ」
「樹里。謝れ」
「なんで私が……」
「謝罪の理由をイチから十まで教えなきゃなんねーほどお前はガキか。ああ?」
流石に私も逆に申し訳なくなってきて、しどろもどろに視線を泳がせれば、隣に立っていた速見は無言のまま驚いている様子だった。
「っ……」
一瞬、私を睨むように見た樹里さんの瞳は、決して本気で謝罪の気持ちを含んでいたとは思えない。唇を噛みしめながら、それでも彰人さんの怒りを鎮めるためだけに、私に視線を合わせないまま「すみませんでした」とぼそりと呟いて。
彼女が本気で謝っていないのを理解していながらも、ようやく彰人さんは怒りをほどいたらしく、私に向き直って重ねて謝罪してくれた。
「嫌な思いさせて悪かったな千穂。一人っ子でちやほやされて育ってっから、ワガママでな」
「ううん、大丈夫。ちょっとびっくりしただけだから」
私が首を横に振りながら答えると、彰人さんは安心したようにホッとして「じゃあ、たぶん一時間後ぐらいに連絡する」とだけ言って。速見にもう一度「お邪魔してすみませんでした」と丁寧に謝って樹里さんと一緒に去って行った。
そんな二人の背中――正しくは彰人さんの背中を見えなくなるまで見送った私に、今まで無言を貫いていた速見が声をかけてきた。
「……アイツが、お前の好きな奴?」
皆まで言わずとも私の態度で充分わかってくれたらしい。
私は振り返ることなく「そう」と言えば、彼は既に見えなくなった彰人さんを探すように視線を同じ方向へ向けて。
「……んだよソレ。アイツよか俺の方がカッコいいじゃねぇか」
「バカ言わないでよ」
負け惜しみとばかりに呟かれた速見の声に、私は厳しい視線でようやく振り返って。
「見た目は確かにアンタの方が上出来かもしれないけれど、中身からにじみ出るかっこよさは断然彰人さんの方が上よ」
「はっ……馬鹿じゃねぇの!? あんなどこにでもいるような男に何が負けるって?!」
「全部よ」
「はぁ? お前の目腐ってんじゃねぇの!?」
納得できないらしい速見は、私が懐かしいと思えるほど辛辣な言葉を投げかけてきたけれど。久々に彰人さんと再会した私に怖いものなんてなかった。
「いつも一生懸命仕事している派遣さんに対して、どうせ腰掛けだろうとか、私に対して女は楽でいいとか、そういう差別と不平不満ばかり口にする男のどこに惚れろって言うの? 逆にどんなにキツい仕事でも、自分の仕事に誇りを持ってるって言う男性を嫌えと? 比べるのもお門違いだわ」
今まで心にしまっておいた気持ちを一気に噴き出すと、速見は絶句して目を大きく見開いたけれど。
「じゃ、そういうことでお疲れ様でした。明日からは仕事以外で私に話しかけないでね」
関わりたくもないと何度繰り返したか分からない絶縁状を叩きつけ、私は唖然としている速見を置いて帰路を急いだ。
「……んだよ……ぜってぇ認めねぇからな」
ようやく我に返った速見が、ぽつりとつぶやいた言葉なんて、私は知らない。