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第一話

30歳ってもっと大人だと思っていた。


たぶん、学生の時に20歳が大人に見えていた時もそうだったけれど、自分はほとほと成長しない夢見がちな性格だなと思う。痛いほどの現実を目の当たりにしてきているのに、それから逃れようとする自分の幼稚さがそう思わせるのかもしれない。


なんとなく仕事をして、なんとなく好きな人と結婚して。


そういう風に淡々と生きていく中で、非日常的な夢を描き続けた私に対し、痛い現実を突き付けてきたのはちょうど一か月前。


三年付き合っていた恋人に振られた。


理由は好きな人が出来たらしいってことだけれど、浮気性の彼がそう切り出したのは何も今回が初めてってわけじゃない。別れ話を切り出された時にはまたか、と思ったけれど、いつもはそれで終わる別れ話が続いた事に私は驚きを隠せなかった。


好きな人が妊娠した。らしい。


これは初めて聞くパターンだと冷静に思いつつも、そりゃ好きな人じゃなくて本命だと言われた方がまだよかったかもしれない。彼の言葉に絶句し、コンマ数秒で導き出した答えは「避妊していなかったの?」っていう疑問だった。だって、私の時は必ずしていたはずだし。


ごめん、相手の人。正直言って相手が私でなくてよかったと思ったよ。


本当にそれが恋人の子供であるかは知ったこっちゃないけれど、女性が妊娠をしたら男性が取る行動は二つしかない。


一つは彼のように責任を取る。もう一つは逃げる。


まぁ、私の恋人が後者でなくてよかったとつくづく思いながら電話越しに泣きじゃくって謝る恋人――否、元恋人の話に相槌を入れながら聞いてやるくらい私はお人よしだったのかと自嘲する。別れ話から彼女に対する不平不満への話に切り替わった時にはさすがに「それ、私にする話なの?」と黙らせたけど。


男のくせにダラダラと長電話するのが好きな奴だなと思いつつ、淡々と相手をしていた私にも傷心する気持ちがあることを冷静に伝えると、彼はまたぐずぐずと泣きながら謝って来たものだから、私は「もういいよ、お幸せにね」と本心を伝えて電話を切った。


あのまま電話繋いでたら、また妊娠した彼女への愚痴を聞かされる羽目になっていたと思う。


無限ループ怖い。


電話を切って、脱力して、ボンヤリと現実を受け入れ始めた私はクッションを抱いて泣いた。淡々としていた割には、と言われるかもしれないけれど、三年も付き合っていた人なんだからそれなりに好きだったのだ。

彼は会社の取引先に勤める営業さんだから、今後も私と顔を合わせることになる。どんなに辛くても現実は失恋した私に手厳しい。

一人でめそめそ泣いて、次の日には親友に別れた報告件ヤケ酒に付き合ってもらって、自分の中でうまく昇華出来たと思う。


ただ、彼の事を昇華できても消化できなかったのは結婚という二文字。


今年で30歳という節目を迎えるからこそ強く意識していたのも本音。


浮気性の彼に不満がなかったかと言えば大嘘だけれど、結婚を意識した年齢だからこそ別れがたかったなんてワガママな理由も含まれている。今となっては彼でなくてよかったとつくづく思うけれど、じゃあ次は? ってなった時に、私は大切な一歩を踏み出す勇気がないかもしれない。


面白みがない女っていうのが会社でのレッテル。


公私をしっかり分けて考える私だから、周囲からの評価はそれなりに高いけれど、女としては終わってるんじゃないかと噂されているのを知っている。毎年やってくる同性の新人社員は華やかで愛らしい。そんな子達と比べる方が可笑しいって言いたいけれど、比較対象は身近にあって当然だ。


本来の私は甘えたがりだ。


好きな異性には甘やかされたいし、甘えたい。時々甘やかしたい。


彼はそんな私の本性を知らずに仕事だけの付き合いの中で告白してくれた人だったから、当初こそ戸惑いは大きかったらしい。でも、それが可愛いと受け入れてくれたから、私も私なりに彼を愛していたけれど。


甘え過ぎていたんだろうか?


本当は、迷惑をしていたのかもしれない。


自己嫌悪に陥るのは振られた女性の得意分野だ。無論、私も。


が、次の週には自分の仕事が多忙を極め、失恋どころじゃなくなったというのが正しい。傷心中の気持ちなんてぶっ飛ぶような出来事が待ち受けていたのだ。


一緒に働いていた同僚が、たんまり溜まっていた有給をまるまる一ヶ月使って仕事を辞めると言い出したのだ。引き継ぎはたった一週間程度。聞けば妊娠していてつわりが酷く、仕事ができる状態ではないという。

つわりがおさまりそうな来月下旬には結婚式をあげるという話を聞いて、ピンと来ない方が可笑しい。


え。ちょっと待って。


まさかと思って問い詰めれば、案の定、彼の浮気相手は同僚だった。


取引先の相手と恋仲なんて、会社には体裁が悪くて誰にも言えなかった。でも、気軽に話せる同僚数名がその事実を知っていて、彼女もそのうちの一人だったのだ。


まるで私が悪者みたいに彼女は「ごめんなさい」と「私が悪いの」を繰り返す。貴方の気持ちが重いと嘆いていた彼を慰めたのがきっかけだったの、と彼女。なんでそんなことを私は本人じゃなくて貴方から聞かなければいけないのだと冷静に憤慨すると、彼女はまた「ごめんなさい」としくしく泣く。


泣きたいのはこっちの方だと思っていると、そこに慌てて登場したのが私の元彼様こと、今は彼女の婚約者。

彼は当然のように私ではなく彼女の隣に座り、すすり泣く彼女の肩を抱き寄せて「彼女は悪くない」と「悪いのは俺だ」を繰り返す。


え。なに、この茶番。


悲しいとか腹が立つとかより、バカじゃない? って気持ちが大きく上回る。


本当に馬鹿馬鹿しくなって「私の事は気にしないでいいから、お幸せに」と常套句を繰り出せば「やっぱり許してくれないんだ」と大号泣し始める彼女に、私はもう絶句するしかない。挙句の果てには「俺の事はいいから、彼女の事は許してやってくれよ」と私を裏切った男の口から飛び出したもんだから、開いた口がふさがらなかった。


もう、この茶番に付き合ってられなくて、周囲の目も痛いし私が渋々「本当に怒ってないってば」と苦笑交じりに呟けば、彼女はようやく笑顔を見せて「ありがとう」と鼻をすすった。そんな悶々とした気持ちを抱えた、おおよそ和解とは言えない和解に安堵したのが彼。

さも当然のように「結婚式には出てくれよな」って言うもんだから、必死にかき集めた理性がプチンと切れたのはご愛嬌。


泣く子も黙らせる満面の笑みを浮かべて「無理」とバッサリ切り捨てた時の、二人の驚いた顔は死ぬほど間抜け。


絶句した数秒の間「やっぱり許してくれないんだ」とまた泣き始めた彼女を見て、だから無限ループ怖いって。と、心の中で毒づいて。


あ、もう、無理。この雰囲気耐えられないとばかりに、財布から自分の会計分をテーブルに叩きつけ、鞄を持って席を立とうとすると、慌てた彼が私の名を呼んだけれど足は止めてやらない。背中でわぁっ! と大声で泣き出した彼女の声が聞こえたけれど、それも無視。

「あ、ありがとうございましたー」なんて、思ってもいない店員さんの声を背に受けて店を飛び出すと、ヒールを鳴らして道を歩きながら大きくため息が漏れた。


――あぁ、もうあの店行けない。結構気に入ってたのに。


所詮、他人の幸せを妬む小さな女ですよ、私は。


で。彼女が私から奪っていったものは正直計り知れない。

男は正直どうでもいいと思うところまで来た。百年の恋も凍りつく茶番に巻き込まれて彼を好きだと思う気持ちは失せてしまった。けれど、もっとも私を追いやったのは彼女が残して行った仕事の量。


あの子、ここで何やっていたの? って聞きたくなるくらい、中途半端な仕事を山ほど残して有給消化に入ったのだ。


私や彼女の仕事は個人住宅の設計だ。まだしっかりと希望が固まっていない施主の理想に近い家を設計し、営業がそれを持って施主と話し合いを進め、理想を現実に近づけていく。


営業から聞いた内容とお客様の予算、それから施工を担当する下請け業者との兼ね合いを考えながら設計図に仕立て上げるのだけれど、正直設計はこの三つ巴の中で板挟みになる立場でもある。

本来、下請け業者とのやり取りは発注部に委ねるんだけれど、発注部はあくまで設計に沿って発注するだけで、下請けや営業部からの小言は何でか設計部に来る。


ホント、なんでだ。


施主と契約する営業が一番偉いと考える会社の方針と、職人気質で頑固すぎる下請け業者の間に入るのは骨が折れる。私はどちらかと言えば施主主義な営業より職人気質のガテン系。頻繁に営業の子とぶつかるけれど、お金を払うのは施主であり職人じゃないって一言を言われてしまうとぐぅの字も出ない。

結局は営業の意見を優先させてしまい、私が下請けの皆さんに頭を下げる羽目になるけれど、職人さん達は皆気前のいい人達で、私がちゃんと仕事で戦っていることを見てくれているし、「仕方ないよ」の苦笑の次にはちゃんと職人らしく「予算内で最高の家を建てたろうじゃねぇか」っていう優しさに惚れる。


が、引き継ぎ一週間というアホみたいな短い時間で彼女の仕事を引き継いだ私に待ち受けていたのは、営業達の容赦ない洗礼だった。どうやら彼女は私とは逆で営業主義の考え方だったらしい。


「彼女はもっと融通が利いた」とか「お前の設計は最悪だ」とか、じゃあもっと具体的に何が足りないか言ってよ! って思うほどの小言をねちねちくらう。彼女の仕事を全部引き継いだわけではないけれど、量はかなりあった。中途半端にしていた仕事を放り出してふざけんなってなぜか私が怒られるし。


担当営業も増えたおかげで、ミーティングの回数も比例した。精神的にクるミーティングを何度も重ね、私が繰り返しパソコンにかじりついて設計を修正するを繰り返していると、帰宅も自然と遅くなるのは当然。今では深夜を回る事が増えてしまった。


あんな無茶苦茶な彼女の退職申請を、泣き事小言で通した会社許すまじ。


デスクワークだというのに、精神的な疲労困憊が激しくて、一人暮らしのマンションには寝に帰るだけという生活を余儀なくされてしまう。朝目覚めるのも億劫になるのは久々で、化粧ノリも最悪だった私は本当に見た目もヘロヘロだったと思う。


だからって、これはない。


自分の情けない記憶を必死に手繰り寄せながら、自分の居場所を確認するように布団から飛び起きた。


昨日は久々に定時で上がれると、喜んで満員電車に駆け込んだまでは覚えている。通勤ラッシュは身動きが取れないほど窮屈だけれど、慣れればどうってことはない。けれど帰宅ラッシュは正直苦手。通勤よりも車内にいる人数は疎らではあるけれど、一仕事終えた後の電車内はちょっと臭いがキツい。普段なら「あー、ちょっと汗臭いな」くらいで済ませることができるけれど、連日の忙しさで体力が低下していた事もあって、かなりの嗚咽感が私の胸に渦巻いていた。


混み合う車内で電車が減速する度に隣の人とぶつかっては「すみません」と小声で謝り続ける。反対側のドアが開いて人が減ったかと思えばすぐに増えを繰り返し、開かないドアに全身を向けて、買ったばかりのピンヒールで踏ん張って。それほど酷いわけではないのに、体調の悪さから酷く敏感になっている鼻先を何度か指先で拭いながらも、足元に視線を落として帰路を耐えていた時だった。


ざわり。


と、何気ない背後の感触にふと違和感を覚える。


自分の後ろに立つ人がぶつかったのかと思ったけれど、次の瞬間に感じたソレは勘違いなんかじゃなかった。


一瞬にして全身の毛が逆立った。


――痴漢!?


会社に入ってからずっと続けていた電車通勤。そんな中で決して出会ったことがない、むしろ出会うべきでない犯罪の手が私のお尻を撫でる。

ハッと顔をあげれば走りゆく景色とは裏腹に、ドアの車窓に自分の背後にピタリとくっつく男と視線が合って、ニヤリとほくそ笑んだのが見えた。


途端に押し寄せてくる恐怖は底知れないものだった。


気持ち悪いってもんじゃない。


最悪どころの話じゃない。


恐怖で頭が真っ白になって、体が小刻みに震える。


すぐに視線を落としてみせたのがいけなかったのか、自分の背後に立つ男の手が私の体を遠慮がちに、けれど大胆に触り始める。


やだ。


無理。


どう、して。


こんな時にどうしたらいいかなんてちゃんとわかってる。


分かってるのに現実は無情で勇気なんてありはしない。


普段の気の強さをどうしてこういう時に発揮できないのか、そんな自分が嫌になる。


耳までカッと熱を帯びているのが自分でもわかった。


「ってぇ」


突然割り込んできた男性の声に、私と同様、私に痴漢行為を働いていた男までもがビクッと反応した。男の手が私から離れたかと思えば、声のした方を思わず見る。それはもう反射的に。


「あんた、俺の足踏んでんだけど」

「あっ、えっ!?」


低い男の声に、戸惑う男の声。


低い声は私の隣に立っていた男性から発せられたモノ。


戸惑う声は私の背後から。


視線の先に居た隣の人は見るからに昔はヤンチャでした、って体で表しているような人だった。

中肉中背、と表現するより少し背は高いように思われるけれど、決して太り過ぎてもいない。けれど痩せてもいない普通の体格。黒色の長髪はパーマがかかっていて、細身の黒いダメージジーンズを着こなす程度に足は長く思える。

耳にはピアスがいくつか並んでいて、ギロリと鋭い釣り目で私の背後に立つ男性を睨んでいた。

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