「もう結婚しない人」 その後(3)
選んだのはチェーン店ではない和風居酒屋で、
落ち着いた雰囲気である。
三輪は一人でもよく訪れる。
静かなうす暗い個室では逆に緊張するかと思い、
隣の席としきりのみあって、通路に面した半個室である。
店員が声を掛け合うのもよく聞こえ、明るい雰囲気である。
分煙もされており、向こうには家族連れもいるのも見える。
恵が席についてジャケットを脱ぎながら、
周りを見回して少し安心した様子だったので、
三輪は「よし」と思う。
人によっては、初めてのデートでこんな居酒屋なんて、
軽く見られた、と、憤慨するかもしれない。
だが、高いレストランに行ってしまえば、
そこの雰囲気に呑まれて、
お互い、その雰囲気にふさわしいカップルに
なりきったままで、
当たり障りの無いおしゃれな会話で終わってしまう可能性がある。
そのため、
ただの同僚同士のサシ飲みだと、
安心するが少し残念に思わせるぐらいの場所で、
気軽になんでも話をしたい。
もちろん、いつか高級なレストランへも連れて行って、
喜ぶ顔も見たいが、それはもう少し先の話である。
「何飲む? 俺はとりあえずビールかな」
「えっと、わあ、梅酒もいっぱいあるんですね」
「梅酒好き?」
「好きです。えーっと、じゃあ加賀梅酒で」
「初めっから梅酒行くの?」
「私ビールをジョッキで頼んだらそれ一杯で時間かかってしまうんで。
ぬるくなっちゃいますし」
「ああ、そう」
「親睦会だと瓶ビールとかジョッキだから、
初めにグラス半分くらいついでもらうんですけどね。
そうでないときはビールは頼まないです。ビールも好きですけど」
そう言うので、三輪のビールが届いたとき、
自分が口をつけるより前に恵に差し出し、
「一口飲む?」
と言ってみた。
すると、恵は初めはそんなそんないいですよ、と言っていたが、
いいよいいよ、と勧めると、じゃあ、と手に取って、ぐっと飲んだ。
「おお、いくねえ」
「乾いた喉に冷たいビールはおいしいですね!
あ、でももう、これで、いいです」
そう言ってジョッキを返してきた。
小中学生なら、間接キスだ! と言うだろうが、
大人になればもはや回し飲み程度ではなんとも思わない。
なんとも……、
つい、「都築さんが口をつけたとこから飲もうかな」
なんていうセリフが頭に浮かんだが、
そのエロ親父的発言は脳内のみに留めた。
梅酒も届き、乾杯もして、話す中で、
恵が遅れた理由についての話になった。
「聞いてくださいよ。信じられないんですけど、
今日、空港に届いたヨーロッパからの輸入品の
段ボールにつぶれがあったって、
写真が送られて来たのを見たら、
ちょっとひどいつぶれ方をしているんです。
それで追跡調査をしてもらったら、
なんと現地の空港で、
フォークリフトから荷物が落ちて、
さかさまになったのを、
そのさかさまの状態で飛行機に積みつけて来たって。
もう信じられないです。
日本の空港に着いてから、上下が元に戻されて、
航空会社からはその件について何も報告なかったんですよ!」
「え、そんなことあるの。どこの空港?」
「フランクフルト。航空会社は――」
と、恵は航空会社の名前を行った。
「ちょっとあり得ないですよ。
月曜日に品質担当者が倉庫に行って、
品質確認する予定なんですけど、
全部廃棄かもしれないです。
追跡調査したから良かったですけど、
何も知らずに、ただ外箱がつぶれただけだと思って、
そのまま品質確認もせずに
お客さんのとこへ行って、
何か不具合が起こっていたら、どうしてくれるんでしょうね。
その後は、在庫を確認しようにも、
それが分かったのが遅くて、
担当者は帰ってしまっていたし、
空輸するくらいの急ぎの荷物だったんで、きっと在庫ないだろうと思って、
時差の都合でヨーロッパはまだ稼働してたので、
再発注はかけてきたんですけど……」
そこで、自分の対応が良かったかどうか思い悩むように、
恵は考え込む目をした。
「いいと思うよ。俺は君の上司じゃないけど」
そう言うと、少しほっとした顔をした。
「高橋さんの携帯にわざわざ報告するほどのことでもないし。
でも自分の判断で何かして、それが良かったかどうか正解が無いし、
もやもやするものですね。いつも仕事してるときはこんな感じです」
高橋は恵の上司である。
「良かったと思うよ。急いで再発注かけていい対応だったと思うよ。
月曜日に品質確認して、OKならOKでそれは良かったねってことで。
欠品するよりいいよ。土日は悩んで過ごすのもったいないし、忘れよう!」
三輪がそう言うと、恵も少し微笑んだ。
「仕事していると、ほんといろいろありますよね。
何年か前のアイスランドの火山噴火のときとか、
もう飛行機が飛ばなくて飛ばなくて。
スペインの飛行場が開いた開かない、ヘルシンキ経由ならルートがあるか、とか、
欠品しそうな品物を両方の空港に待機させたりして。
フランスもストライキが多くて。
一回、港がストライキになって、
荷物が港に置きっ放しになったときも、
再発注してベルギーまで回して出してもらったり……」
ほんとに大変。と恵はいいながらも、
それを語る目はなぜかキラキラとして、活き活きとしている。
大変さの中に身をおいて、生きがいを感じているんだろうと思う。
「仕事好きなんだね」
と聞くと、
ちょっとびっくりしたようで、
「好きか嫌いか、考えたことなかったです。
ただもう、目の前のトラブルを片付けるのに精一杯で。
でも、うまく解決できたときは、達成感がありますね」
そう言って、いい笑顔を見せた。
「まあ、悩みはありますけどね。
書類書くの苦手だったり。
こう、はったりを張るとかできないし、堅い会議が苦手だったり。
三輪さんは、どうですか? 仕事、好きですか?」
「そう聞かれると、確かに自分も好きか嫌いか
考えたことも無かったなあ。
まあ、俺の場合は結構海外出張やら海外勤務やらで
いわゆる海外要員としていいように使われて来たから、
それこそ、もう、毎日頑張って会社に行くぞ! ってことしか
考えてなかったなあ。
仕事を嫌いになっても仕方ないというか……」
そこで、再び別れた妻、綾子の虚ろな目を思い出した。
少し立ち止まって、家庭に目を向ければ良かったのだろうか。
どうすれば良かったのか、と考えるとらちが明かない。
三輪はジョッキに少し残っていたビールをぐっと飲み干した。
離婚のことを思い出すと、酒が苦くなりそうだ。
そんな三輪の様子に、
恵が気付いたか気付かなかったか分からなかったが、
恵は「あ、携帯鳴ってる」と独り言のように言ってかばんを抑えると、
マナーモードになっている携帯を取り出した。
二つ折りの携帯だ。機種も何年か前の物らしい。
「あ、ただのメールマガジンでした」
そう言うと、待ち受け画面を一瞬じっと見てから、かばんにしまった。
ふと、興味が湧いた。
「待ち受け、何にしているの?」
そう聞くと、
「え? あの、大した物じゃないんですけど」
なんだろう。いま流行りの韓流スターだろうか。
恵が恥ずかしそうに画面をこちらに向ける。
すると……、
「飛行機!?」
「はい」
それは、機首を少し上げて飛行中のジェット機の画像だった。
三輪は苦笑する。
「何。こんなとこまで仕事?」
恵も笑う。
「そうですよね。何かと思いますよね」
そう言って、恵は携帯を手元に戻して、
自分でもその画像を見る。
「え? 何? なんで? 飛行機好きなの?」
三輪が聞くと、恵が照れくさそうに答える。
「あの、ちょっと長い話になるかもしれないんですけど」
「うん。聞きたい。聞かせて」
「あの、飛行機って、
機首を上にしていれば、
そのままで高度がどんどん上がりますよね」
恵は話しながら、手のひらを下にした手で、
飛行機が上がっていく様子をジェスチャーで示す。
「私、仕事で落ち込んだときに、
気持ちを持ち上げようと思って、
家に帰ってから音楽を聞いてみたり、
お笑い番組を見てみたり、
アロマを嗅いでみたりとか、いろいろするんですけど、
なかなかすぐに落ち込んだ気分は治らないんです。
あ~、どうしよう。何やっても、気分が回復しない! って、
逆にあせったりもして。
でも、ある時、それでいいんだって思ったんです。
飛行機って、機首を上げただけでは、
その時点では高度は上がっていないんですけど、
しばらく経つと、高度が上がっているんです。
機首を上げて、その時点では、高度は上がっていないんですけど、
機首を上げておきさえすれば、
いつの間にか、知らないうちに、高度が上がっているんです。
だから、私も落ち込んだときには、
機首だけ、上げておこう、と思うんです。
それで、落ち込んだ気分がその時点で上がらなくても、
それは当たり前で、
ただ、機首さえ上げておけば、
いつの間にか上がっているから、大丈夫って。
それを忘れないように、携帯の待ち受けにしているんです」
そう話す恵を見て、三輪は、
ああ、この子も、いろいろ仕事で大変なこともあって、
それでも自分なりに対処法を見つけて、頑張っているんだな、と思った。
髪を後ろですっきりと一つにまとめているので見える、まっすぐ伸びた首筋は、
落ち込んだときでも、機首は上げているように、
努めているのだな、と思った。
弱音や愚痴を吐かない人だ。
「ごめんなさい。うまく話せたか分からないんですけど」
「いや、なんか、よく分かったよ」
そう答えながら、恵のことをもっとよく知りたいと思う三輪であった。