「もう結婚しない人」 その後(1)
綾子の子供も、小学生になった頃だろうか。
塾から出てくる子供が、親の車に乗り込むのを見ながらそう思う。
本当は自分との間に産まれてきたかもしれない子供。
綾子が毎日基礎体温計をつけていたのを思い出す。
「あの……、今日……」と、
何か言いたそうにしていても、
仕事が忙しく、平日はいつも綾子に背を向けて寝ていた。
綾子とは大学時代に仲間とスキーに行ったときに、
友達の友達のような形で紹介され、
何度か一緒にバーベキューや山登りなど遊びに行くうちに、
公認のカップルになった。
その頃の三輪はもてた。
名の知られた大学に通い、スポーツマンで、爽やかだった。
紹介された女子大生のメンバーの中で、
綾子が一番美人だった。
どこかおっとりとお嬢様風だったのも気に入った。
能力のある男が美人を手に入れるのは、
一種の勲章のようなものだと思っていた。
芸能人が年若い妻をもらうのも、
男の才能と女の若さが釣り合うという証明のような、
一種のステータスのように感じていた。
もちろん外見だけでなく、
小さなことでもおかしそうに笑う、無邪気な可愛らしさや、
手作りのケーキを上手に焼く家庭的な面も好ましかった。
仲間に祝福されて結婚し、
その後、まるで仮面夫婦のようになったのは、
何が問題だったのだろう。
よく結婚をゴールに例えられるが、
三輪も結婚してしまったことで、
ほっとして油断してしまったのだと思う。
結婚前は綾子に対してサービスを忘れず、
まめな男で、三輪が彼氏で羨ましい、と友達から言われるのを
綾子も満更でもなく思っていたようだったが、
結婚した後は、三輪は「よしゴールインした」とばかりに
仕事に専念し始めた。
妊娠出産に対する知識などまるで無く、
ただ35歳になるまでにできればいいと思っていたので、
まだ余裕がある、先の話だと思っていた。
がむしゃらに仕事漬けの毎日で、
綾子が平日の昼間に何をしていたのか、ほとんど知らない。
東京から遊びに来た母親とランチを食べに行ったり、
スポーツジムに行ったり、
料理教室に通ったりしていたらしい。
周りの友達に子供が産まれたという話も何回か聞かされた。
いつかは一戸建ての可愛い南欧風のオレンジの屋根の家に住んで、
ガーデニングをしたい、という夢も、
賃貸マンションの一室で、人ごとのように聞いていたものだ。
半年や数カ月といった単位での海外出張は何度もあったが、
インドに、短期で3年、延長すれば5年と告げたときの
綾子の目が忘れられない。
隠しきれない失望で虚ろになった目。
赴任先に一緒について行ったとしても、綾子は英語ができない。
もし妊娠しても、言葉が分からず衛生面でも信頼できるか分からないので
現地の産婦人科にかかりたくない。
妊娠が判明したら、即日本に帰る。
日本で出産し、赤ちゃんが小さいうちは飛行機が心配なので日本に居続け、
現地での水や病気や小児科医も心配なので、やはり2歳くらいまでは日本にいたい。
そう話す綾子に、
子供が産まれたら成長するのを身近で見たいと三輪は言った。
知らないうちに歩きだし、喋りだすなんて嫌だ。
離れて暮らすなんて、家族じゃない。
今とは違って、ネットで動画を送るなんてことはできない。
せいぜいビデオを撮るくらいだ。
三輪がわがままと言われればそれまでだ。
だが、人生において譲れない点について、
タイミングが悪く、
お互いに相容れなかった。
結局、海外赴任が終わるまで、子供については待っていてほしいと言い、
子供を作らないのであれば、ついて行かないと言うので単身赴任をし、
国際電話で、いわば、できちゃった離婚をしたい、と告げられたときは、
三輪の頭の中は真っ白になった。
急いで日本に帰ったが、もう事態を変えることはできず、
そこまで思いつめていたとも知らず、
まあ、忙しすぎて十分に話を聞いてなかったのだから当然だと思いながらも、
暗澹たる気持ちで離婚届けにハンコを押したのを覚えている。
出世コースに乗り、将来有望とされ、
順風満帆なはずの人生に狂いが生じた。
離婚したことで、会社内でも
仕事にがんばりすぎて家庭をないがしろにした男というレッテルを貼られ、
それはあながち間違いではなかったが、
離婚がまだ珍しかった中で、
脱落者のように感じたことも確かだ。
その劣等感を隠すために、
飲み会では自虐的なネタとして離婚を話題にすることもしばしばあった。
どうせ離婚したのだから独身生活を楽しんでやれと、
遊び人になろうとした時期もあった。
しかし、それも虚しかった。
子供が産まれたら成長を身近で見たい、と思うほど、
家庭に対して憧れがあった三輪にとって、
結婚を前提にしない遊びは、金と時間の無駄使いだと感じられるようになった。
そんな中、恵に出会った。
海外赴任が長かったため、
本社の状況についてあまり知らなかったが、
隣の部署に独身でばりばり働いている女性がいると知った。
少し古い言葉だが「負け犬」というやつだ。
恵が入社した時代は一流大学でなければ
リクルーターが来ず、総合職として入社できなかったため、
恵は大卒だったが一般職に応募して入社した後、
周りに認められようと、毎年、残業制限いっぱいまで働き、
単身で海外出張までした結果、
総合職への昇格試験に受かったという。
その話を聞いて、気が強くて鼻もちならない女性かと思っていた。
だが、実際に会ってみると、
一見、さばさばした男っぽい性格にも思えたが、
実は虚勢を張っているだけで、
根は責任感が強い真面目な優等生タイプで、
自分では気づいていないらしいが
ときどき抜けたところもあるので、
つい気になって目で追うようになってしまった。
最近は恵のことをよく考えている。
もう過去に捨てたはずの、あきらめきれない妄想に、
恵が登場するようになった。
夏の庭でバーベキューをする夫婦と子供たち。
その夫婦が三輪自身と恵だったりした。
恵に見られると、自分が10年前に若返ったような気持ちになる。
三輪ももう42になり、『おじさん』になった自覚があるため、
時々、恵が自分を盗み見ているのを、初めは不審に思ったものだった。
恵自身は自分が盗み見ていることも、それを気づかれていることにも
気がついていないようだった。
目が合うと、何も悪びれずに微笑んだ。
打合せをしているときに、こちらの手を盗み見たり、
会議をしているとき、発言していないのにちらっとこちらを見たり、
車で送ったときには、並んで座っていることをいいことに、
肩をじっと見られて、思わず「ばかやろう!」と心の中で叫んだ。
そんな目で見て、ただで済むと思うなよ。
変な汗が出てきて、アクセルを踏み込みそうになった。
だが、恵は爽やかだ。
動物に例えると、女鹿のようだと思う。
まっすぐ伸ばした背筋と、きっちりと一つに結んだ髪から、
そのようにまっすぐでありたいと思っていることが感じられる。
打合せをしていても、こちらに媚びることや甘えることが全く無く、
むしろ鋭い指摘をして来たりもして、
もうお互い親しい仲なのだから許してよ、と思うこともしばしば。
もし彼女が自分の奥さんになったら、
尻に敷かれてぎゅうぎゅうやられてしまうのだろうか。
でも、綾子のようにこちらにあきらめきって、
何も言わずに別れの準備をするのではなく、
恵はきっと気に入らないことがあれば
戦って納得いくまで話そうとするに違いない。
いや、その反面、こちらが浮気でもしようものなら即荷物をまとめて出て行きそうだ。
以前、若い女の子と二人きりで食事に行ったときには、
隠れ家的なフレンチレストランを予約して、
かっこいい大人の男を演出して、
彼女もいたく感激していた。
こちらを見る目も尊敬してきらきらしていて、
紳士にエスコートされた、と、満面の笑顔で帰って行った。
だが、何か違うと感じた。
それはそういった形の楽しみの一つで、
自分の生活とは切り離された娯楽だ。
本当に、自分の家族を持ちたいと思うのなら、
娯楽ではなくて、もっと違うやり方が必要なのだと。
でも、どうすればいいのか分からなかった。
そんな中で、恵が飛び込んで来た。
懐に飛び込んで来た。心の近くまで飛び込んで来た。
今日は金曜日。約束の時間に遅れないように、
早めの電車に乗って、駅を出たところで恵を待っていたが、
仕事上のトラブルもあったようで、
15分ほど遅れると恵からメールがあった。
こんな気持ちになったのは何年ぶりだろうか。
駅前の塾から出てくる子供が、次々と親の車に乗って行き、
大学生らしい塾の先生が「気をつけてね」「ばいばい」と手を振っている。
その様子を見ているとなぜか胸が熱くなるのは年のせいだろうか。