「もう結婚しない人」 その後(7)
急に三輪の声色が変わった。
目つきが変わった。
こういうのを、スイッチが入ると言うんだろうか。
だめだ、食われる、と、
草食動物ならそう思いそうだ。
三輪のぎこちない言葉や動きに、
恵も自分でも意外なほど身の内が熱くなった。
食われるのは、体だけじゃなく、心もだ。
嫌じゃない。
ただ指を触られただけなのに、
そこまで過剰反応する必要があるだろうか。
でも、あれはただの始まりだ。
もちろんそれだけじゃ終わらないだろう。
逃げないでいたら、三輪はその先へその先へ進むだろう。
指から、手の甲に、手首に、
そのあたりで、キスもされるだろう。
そんな想像が浮かんで、恵は壁に背をもたせかけ、
腕で自分を抱くようにしてため息を吐きだした。
それを望んでいる自分もいる。
どうして逃げることがあるだろう。
ロマンチックなだけでは終わらないのは分かっているはず。
恋愛は、生々しい。
今日は満月だった。
三輪の腕につかまりながら夜道を歩いた。
暗い玄関で抱き合った。
静かで甘美な幸せ。
でもさっきのは、また雰囲気が違う。
やっぱり生々しい。
動物的だ。
惠は鏡を見る。
いい年をした大人の女だ。
自分で自分の行動に責任が持てる。
誰も文句を言うこともない。
自立している。
誰も文句を言う人もいない。
自分の好きなようにすればいいじゃないか。
鏡の自分をにらみつける。
綺麗だと言われた。
それをお世辞だとか方便だとかは思わない。
確かに自分でも、綺麗でないとは思わない。
人の好みによるが、自分の顔を好きだという男も
いても不思議ではない。
でも、鏡に映る自分は、
かたくなで、肩肘張っている。
理屈っぽく、可愛げがない。
一つ縛りにしてある長い黒髪の先を、
なんとなく引っ張って、
またため息をつく。
好きだ、と言われた。
どうしてだろう。
飲み屋で飲んでいたときや、
歩いていたときは、
幸せでいっぱいだった。
学生時代に戻ったような、
ふわふわした浮かれた気分だったのかもしれない。
いま、鏡を見なければ良かったのかもしれない。
正直なところ、逃げ出したい自分がいる。
恵は心を決められなかった。
そもそも感情なんて、一つには決まらない。
相反する思いがある。
期待と不安。
受け入れる気持ちと拒絶する気持ち。
喜びもあるが、
自分自身に対する失望やもどかしさ。
疑いや羞恥。欲望と嫌悪。
もう、混ざり過ぎて、
自分が何を感じているのかが分からない。
次の行動を決められない。
だが長々と考えているわけにはいかない。
トイレに立てこもっているわけにはいかない。
どうするか、心を決められないまま、
恵は居間へ戻った。
不安で曇った顔をしていたが、
そんな顔を見とがめる者はいなかった。
三輪は、ラグの上に横になっていた。
右の二の腕が枕になっている。
恵が三輪の顔が見える位置に回り込むと、
三輪は目を閉じて、軽く眉をしかめている。
小さいいびきまじりに、息をしている。
……寝ている……!
それを確認した恵の顔に、安心の笑みが浮かんだ。
良かった。
ライオンは寝ている。
そんな題名の曲が何かのCMで使われていた気がする。
恵はやっと、普通に呼吸ができるようになった。
もっと若い頃なら、女を家に上げておいて、
寝落ちしてしまうなんて、
まるで魅力が無いと言われているようで
失礼だと感じたかもしれない。
でも今はそうは思わない。
金曜日の夜、既に1時を回っている。
もう若くもない。
酔っているところにかぶせるように、強い酒を飲んだ。
寝てしまって当然だ。
寝ている男の姿を、恵は愛しいと思った。
三輪を起こさないように気をつけながら、
静かにソファーの上に横になった。
「おやすみなさい」
恵もそのまま眠ってしまった。