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会社小説  作者: 古河晴香
10/11

「もう結婚しない人」 その後(6)

モノトーンの色調のシンプルな住まい。

ローテーブルは黒。ソファーも黒。

ラグは毛足の長い銀色。

黒いテレビ台の上のテレビと、簡単な作りの黒い鉄ラック。

寝室は別のようだ。


海外勤務もこなすバリバリの42の男性が住む住まいにしては、

こじんまりとしている。

まるで仮住まいかのように、物が少ない。


一度結婚していたようには思えないが、

かつての家具は全て奥さんにあげたのだろう。


ふと、気づいて慌てて三輪に声をかける。

「何かお手伝いしましょうか」

恵はローテーブルの前に座り込んで、

ただ部屋を眺めていたが、

こういった場合、お手伝いを申し出るのが

気の利いた女性の行動だと思われた。


だが、もし手伝えと言われたとしても、

何をして良いか分からない。

料理にも自信はない。

必要とされることを察して行動する能力もない。


「いいよ、座ってて」

三輪にそう言われて、恵はほっとした。

こういったときに、自分の女子力の無さを痛感する。


女子力を発揮する場面が来るとも思わなかったし、

練習する機会もなかった。


まるで大学一年生から成長していない。

うぶな小娘だ。

外見はいい大人だというのに、恥ずかしい。


男の一人暮らしの家に上がりこんで、

身の置き所無くおろおろしている。


だが、すぐに三輪が準備を終えて

ローテーブルへ合流したので、

そんな気まずさを感じたのも少しの間で済んだ。


三輪が事前に言ったとおり、用意されたのは

チーズとチョコとナッツとドライフルーツを、

袋から開けて盛っただけの平皿と、

ラキアの瓶とグラス2個だった

「おもてなしの仕方も分かりませんが、

どーぞ」


そう言われて、恵も気づいた

三輪の方も慣れていないのだ。

友人を家に呼んで飲むことは無いのかもしれない。

いつも外で飲んで、

ここへは寝に帰るだけなのだろう。


恵も少しほっとした。

なんだか、二人でままごとを始めるような気分だ。


「よーし。飲むぞ」

三輪は宣言すると、ラキアの瓶を取ったが、

「あ、しまった。これラキアじゃなくてウゾだった。

ウゾでもいい?」

そんなことを聞かれても、惠はラキアもウゾも知らない。

「両方知らないので、どちらでもいいですよ」

「そう。バーリンカとズブロッカも知らない?」

「ウォッカは知ってますよ。三輪さん、酒飲みですか?」

「いやいや、珍しい物好きなだけ」

三輪はにやにやと笑っている。


ラキア改め、ウゾの栓を開けた。

「そういえば、ギリシャはギリシャ文字使ってるんですよね」


「そうだね。俺も、出張に行って初めて、

店の看板がギリシャ文字だったから、

はっとさせられたよ。

アルファベットでもキリル文字でもなく

ギリシャ文字なんだっ! て。

あの三角形のデルタとか、

数学で出てきたシグマとかが

普通に看板に書いてあるんだからなあ」


そう話しながら、三輪はグラスにウゾをつぐ。


「ギリシャいいですね。出張の話聞かせてください」

「強行軍で、残念ながらほとんど観光できなかったよ。

日本に帰る飛行機が出る日の午前中に、

なんとかパルテノン神殿だけ見て帰った」


「そうなんですね」


「でも、飯もうまかったなあ。

ぶどうの葉っぱで包んである奴とか。

トルコに近いから、飯もトルコっぽいんだよな」


「トルコは三大グルメといいますもんね」


「あ、あと、パルテノン神殿で衛兵を見たけど、

向こうの民族衣装なのかな、派手な格好してて良かったよ」


「いいですね。海外。私は忙しくて会社休めないし、

何年か前に出張でアメリカに行ったっきり、

プライベートでは全然ですし」


「俺も仕事で行くばっかりで、

プライベートではどこも行ってないなあ」


「仕事ではいろんな国行ってますよね」

「そうだな。インド、ロシア、ポーランド、

ベルギー、ギリシャ、アメリカ、えーっと……、

あとイギリス。あっ、メキシコも行ったな」


「すごいですね。すごく話聞きたいです。

私、自分は行かないんですけど、

いつも、自分が発注した商品が乗った船が通る港を

思い浮かべるだけで、

なんだか旅行した気分になっているんです。


上海は霧が出ると大変で、

シンガポール、マラッカ海峡を抜けて、

インド洋はモンスーンで船が遅れたりもして、

スエズ運河を通りますよね、スエズ運河は一方通行なので、

タイミングを逃すと一日待たされてしまいます。

そこから地中海を抜けて、冬は荒れるビスケー湾を通り、

サザンプトン、ロッテルダム、ハンブルク、

あっ、船会社によって、寄る港が違ったり、

順番も違うんですけどね。

イギリスの港も、サザンプトンだけじゃなくて、

フェリックストーとかイミンガムとかもあって」


そんな風に、指で航路をたどる仕草をしながら話をする恵は、

うっとりとした表情を浮かべている。

仕事好きなんだな、と三輪は苦笑しながらも、

好ましくその話を聞いている。


前に若い女の子との飲み会で、

仕事で外国に行った話をしたときは、

「そうなんですね~。すっご~い」

と言われたが、それで話は終わりだった。

三輪がもう少し詳しく話しても、

「へえ~、そうなんですね~。ふ~ん」ばかりで、

自分は何に向かって話しているんだろう、という気になったものだ。

聞き上手の女子がモテる、という手法を

実践しているのだろうか。

それにしても、興味が無く聞いているのは

話し手にも分かる。


恵はこっちの話の腰を折って、

うっかり自分の話にして長々と喋る癖があるようで、

そういうのが嫌いな男もいるかもしれない。

三輪は逆に、何か好奇心か挑戦心か、

恵の様子に胸の内をくすぐられるものがあった。


これも、自分が年を重ねて、余裕が出てきたからなのだろうか。

もっと若い頃は、自分の話を聞いてもらうのに必死で、

いかに自分をアピールするか、

自分をすごい奴だと思ってもらうかが重要だと思っていた気がする。

だから、素直に「すご~い」と言ってもらうことで、

自分を認めてもらえたと嬉しかった。


しかし今は、自分を認めてもらうことに以前ほど関心はない。

仕事でも実績を積み、部下もいる。

人と会話をすることが、

自分を認めてもらうための手段ではなくなり、

純粋に、人の話を聞くのを面白いと思うようになった。

そう、改めて実感した。


「ほら、乾杯しよう」

「あ、すみません。つい夢中になってしまって……」」

「かんぱーい」

グラスを合わせた。


何に乾杯だろう。

この出会いに乾杯。

これからに乾杯。


透明な液体の強いアルコールに舌がしびれ、

独特の香りの異国情緒に、

恵の心もふわっとほどける。


一つの酒で、一つの言葉で、

別の世界への扉が開く体験をすることは

幸福の一つだと思う。


我に返って三輪と目を合わせると、

さっき抱き合ったことを思い出して

また酔いが戻ってきたかのように

恵の頬が上気する。


「それにしても俺なんでラキアだと思ったんだろうな。

恥ずかしいな」


「ラキアでもウゾでもいいですよ」


「昔俺の父親がギリシャ出張に行ったときに、

ラキアだぞって言って買ってきたことがあったんだ。

俺はそれを覚えていて、

ギリシャ出張に行って飲んだこれを、ラキアだ! って思って、

その店に教えてもらって、疑いもせずに買ってきたんだよな。

ラベルにもちゃんとウゾって書いてあるな」

「どちらも似たものなんじゃないですか?」


二人でノートパソコンを開いて、

ラキアやウゾについて検索したりする。

バルカン半島の料理も出てくる。


「新栄町にルーマニア料理店がありますよね。

私行ったことないんですけど、

そこ行ったら近い物が食べられるかもしれませんね」


「じゃあ、次回はそこで」

三輪がそう言うので、恵がはっとして三輪の顔を見る。

三輪はパソコン画面を見たままで、

恵の方を見ない。


「では、次回はそこで」

恵も反復する。

次回の約束。

次回がある。

これはお互いの暗黙の確認行為だ。

これは、別の問いに対する、別の答えだ。

これからも二人で会いましょう、という。


「あの、都築さん」

呼びかけられた声の真面目さに、

恵のうなじの毛が逆立つような気になる。

急に部屋が狭く感じられ、

自分より大きな、男の体の存在に

圧迫感を感じる。

恵の心拍数が上がる。


追いつめられた猫のように

じとっとした眼で、

身動き取らずに固まったまま三輪を見返す恵に、

三輪は、さっきまで口に出そうとしていた言葉を見失い、

喉がかわく。


「あの、都築さん」

不器用にも同じ呼びかけをもう一度する。

三輪の心拍数が上がる。

何を、どう言うべきなのか、

頭が真っ白になってしまった。

気の効いたセリフなど出てこない。

酔いと疲れで頭も回らない。

こんなときに言い始めることではないのかもしれない。

しかし、今言わなくていつ言うのだろうか。

しかし、何を、どこまで、どう言うべきなのか。


「綺麗だ」


口に出たのは、そんな言葉だった。

それを耳で聞くと陳腐に聞こえる。

この女は綺麗だ。

そんな感想を。相手に対してなのか。

世界に対してなのか。自分に対してなのか。

何に対してなのか分からず、

ただ感想を述べた。


毛足の長いラグの上に置かれている恵の左手。

女の手の細長い指に、

自分の指をそっと触れさせてみる。


この態度が、行動が、気持ち悪くはないだろうか。

拒否されないだろうか。

残念ながら、俺も相当なオヤジだ、と三輪は内心自嘲する。

見栄を張ることも、それなりに見せかけることも慣れたが、

恋と言える物を最後にしたのは何年前になるか覚えていない。

恋の仕方も忘れてしまって、これが恋なのかどうかも分からない。


「好きだ」

何の保証もない言葉を呟いてみる。

この言葉を言ったからといって、何を約束できるのだろう。

この言葉が嘘ではないと、酔っぱらいの戯言ではないと、

どうやって証明できるというのだろう。

この好きがどういう好きなのかをどうやって説明できるのだろう。


ただ、おい。

逃げるなら今だ。

逃げるなら今だ。

そのほっそりした、鹿のような首筋と、

しなやかな背中を持った女。

ぴょんと跳んで、逃げるなら今だ。


三輪の右手の指が、

恵の左手の指をなぞる。

指と指の間に、指を割り込ませる。


女は吐息混じりに喉をそらせて

大きくため息をつくと、

身をよじらせて立ち上がる。

「あの、すみません。ちょっと、お手洗いお借りします」



「……ああ、どうぞ」

そうだ。逃げろ。

逃げるなら、今逃げろ。




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