第二十三話:再び?馬車での野外授業
アリアは馬車に乗せられているはずだった。
いや、事実それは正しい。腰掛けた備え付けの椅子から絶え間なく振動がくるからだ。
馬車にはマリシア、メイ、そしてアリアの三人だけ。これはマリシアが望んだことらしい。元々世話を焼かれることが好きでないマリシアは、侍女を側に置きたがらないので、もっともマリシアに気に入られているアリアが乗ることになったらしい。大変恐縮な話だ。
そして、メイは今や貴族令嬢。騎士の護衛対象に入っているらしく、そのため守りの堅いマリシアの馬車に乗ることになったのだと言っていた。
まあ、それはいい。
ソマリア国とシス国はなかなか大きな国で、二国間には街道が通り、貿易が盛んだ。アリアたちはそこを通ってシス国へ行くことになっている。
街道の両脇は道行く人が寝る場所を確保できるように木が刈り取られている。そこで人々はテントを張ったり馬車で寝泊まりして夜を過ごすのだとか。
後は全部森、森、森だ。木が、我が物顔で生い茂っているので、一歩足を踏み入れたら恐らく迷子になってしまうだろう。
野外で寝泊まり。といってもさすがは王族。
アリアが馬車の内装を見回すと凝った装飾がそこかしこに彫られているし、金ぴかだし、どうにも見慣れない景色が広がっている。
クッションはふかふかで、それを枕によく眠れそうだとアリアは思った。しかし、備え付けの椅子がそのままふかふかのベッドになるのでクッションを枕に使うような出番はないようだ。
ベッドが二つあるので、メイとアリアは二人で一つのベッドだ。本来アリアは侍女である立場なので、床でいいと言ったがメイとマリシアが反対したのだ。
とは言ってもさすがにマリシアは小さいとはいっても王女様だから、アリアはメイのベッドがせいいっぱいだった。
マリシアはそれを仲間はずれにされているように思うらしく文句を言っていたが、マリシアにそんなことをさせたら怒られるに決まっているので勘弁して欲しい。
ちなみに他の侍女は別の馬車に乗っているらしい。そちらも、泊まれるようになっているそうだ。
ただ護衛のためについてきてくれているシス国の騎士たちは馬車の外で簡易なテントを張って泊まるそうだが。
…本当に申し訳ない。こっちは至れり尽くせりで。
食料は他の、料理が得意な侍女が担当する予定だ。ついでに侍女たちの分まで作ってくれるというのだから何とも頼もしい話だ。もちろん、アリアもそれほど料理が得意ではないが手伝いに行こうと思っている。
何よりも嬉しいことといえば朝の給仕がない。貴族はここにはいないし、騎士たちは自分のことは自分でやる主義らしく自炊するという話だったからだ。
おかげで朝の給仕の地獄が夢のようだ。ゆったりとした朝を迎えられるのは侍女になってから初めてだった。王女付きの侍女のときですら、ここまでの余裕はなかった。
アリアは感動していた。
アリアは基本的にマリシアの分の朝食を運ぶだけで事が足りるのだから楽なことこの上ない。
それも、大変ありがたい話だ。が……
「それで……ってお姉様!! 話を聞いていますの?」
マリシアが揺れる馬車でアリアに向かって注意した。どこか遠くを見ていた様子のアリアは慌てた。
「ええっと。すいません。ちょっと前から聞いてません」
「これだから、アリアは……。正直な子ね。せっかくマリシア様が呪文講座をしてくれるんだから聞きなさいよ」
メイが横やりを入れる。
今は何故か、呪文講座が始まっていた。それも馬車の中で。アリアがユーイのことについて根掘り葉掘り聞かれ、メイたちが満足した後のこうした会話が引き金だった。
「アリアって地獄の授業だの言ってたけど、どんなことやったの? あの時のアリアのやつれっぷりはひどかったわよ」
「……そんなにひどかった?」
「かなりすごかったですわ。アリア姉様。一体どうしたらあんな事になるんですか?」
「うーん。ダンスや礼儀作法。貴族それぞれの家の相互関係を覚えるために歴史を掘り起こして、あと、向こうで毒盛られたら困るから薬草や薬についてちょっと学んで、シス国についての歴史についてとか……あと」
「まだあるの?」
「いいお野菜の見分け方とか、新鮮な魚の見分け方とか、商品の値切り方とか」
「……後半やけに所帯じみてるわね。必要あるの?」
アリアはメイに言われて、何とも言えず、首を傾げて苦笑いした。
後半のものは、ミネルとの会話のときに、クロウリーがやたらと詳しかったので、アリアもミネルと一緒になって聞いていたのだ。これもいつか役に立ちますからとクロウリーは断言していた。いつ役に立つんだろう、これ。と思いながら聞いていたのを覚えている。
「私はてっきり呪文の特訓でもやっているのかと思ったけど、案外内容は普通ね」
「呪文なんてものが数週間でできるわけないでしょ? 私の家はそんなに位が高くないから習わなかったし」
アリアは口を尖らせて言った。呪文はおろか、小さい頃から最低限の教育以外ほとんど何もされていないので、侍女になってやっと礼儀作法や貴族の間のしきたりが少し分かってきたのだ。
「メイはどうなの? 呪文唱えられるの?」
「いや、無理ね。全くできないわ」
「えー? 習わなかったの?」
レイアス家の令嬢、メイならいくつか呪文を唱えられそうだと思っていたアリアは驚いて声のトーンを上げた。
「もちろん習ったわよ。でも適性がね……」
「適性?」
アリアはどういう意味か分からず聞き返した。メイがそれに答える前に、
「私が教えて差し上げましょうか、アリア姉様」
マリシアがおずおずと言った。
「え? マリシア様、呪文が使えるんですか?」
マリシアは、そっと手のひらを差し出して、何事かを唱えた。呪文を習ったことのないアリアは何を言っているのか欠片も理解できない。
しばらくして、マリシアの手の上に光の玉のようなものが出てきた。
「光の呪文ですか?」
「そうですわ。これで、夜もばっちり明るいのです」
「すごいですね、マリシア様。この年で呪文が使えるなんて」
とアリアが言ったらなんでもないといった顔をしてマリシアは
「そんなことないですわ。私は簡単なものしかできませんし。ミネル姉様は呪術師の資格を十歳のころに得たらしいですから」
と返した。
呪術師というのは、呪文を扱う者のことだ。普通の人間はちょっとした火を付ける程度のことしかできないが、彼等は妖精を呪文により使役し雨を降らせたり、土を移動させてトンネルを作ったりできるのだ。通るだけで一生が安泰だと保証されたも同然という超難関なものらしいが…。どう考えても十歳は異常だろう。
何なんだろう、この王族は…。いくらなんでも神様はこの王族に甘すぎるのでは。
アリアとメイは絶句した。
これが、マリシアによる呪文講座のきっかけである。マリシアも子どもだから大したことはないと思って甘く見たアリアがいけなかった。マリシアは、あの王妃の子どもだということを計算外にしていた。
「アリア姉様は呪文について習ったことがないのですね。それでは初歩から説明しますわ」
うきうきとした声でマリシアは説明し始める。
「呪文の原理から説明しますと、誰でも知っていることですが、呪文などの魔法といわれる類のものは全て妖精の力を借りるという前提で行っているものなのです。
いわば、妖精に頼むというのが正しいですわ。そのために人は妖精と意思を疎通させるための呪文、つまり“妖精言語”を編み出したのです。
言葉が通じなければ、人の間でもなかなか思い通りにならないものですからね」
「……はい」
饒舌に話すマリシアにアリアはたじたじだった。
「呪文で妖精とは意志を通わせることができるとしても、そこにはまた別の問題があります。
まず、妖精は頼まれたからといって言うとおりに動いてくれませんわ。妖精からすれば何の見返りもないですし、当然のことかも知れません。
それは、妖精と呪文を唱える人の相性によるのですわ。これを適性というのです」
「そうそう。私、妖精にあまり好かれてないみたいでねー。だから早々に諦めたのよ」
メイが若干口を挟んだ。
マリシアはきちんと座ったまま、人差し指を立てた。
「これが、一つめですわ。ここまで分かりましたか?」
アリアは黙ってこくこくと頷いた。
「次に妖精の特性があります。
例えば、火の妖精は燃やすのが好きな性格ですから、一般人でも簡単に扱うことができます。
しかし、土の妖精はじっとして動かない特性があるので、呪文で動かそうとしてもなかなか動こうとはしません。だから、“頼む”呪文も長く説得するようなかたちになるので難易度が上がるというわけです。……これが二つ目です」
マリシアは立てる指を一本増やしながら言った。
「そして、大事なのは“目”を養うことです。妖精は見えるものではないので、正確には見るのではなく感じるといったところでしょうか。妖精のいないところでどんなに上手く呪文を唱えたところで発動するわけありません。妖精の気配を感じ取る事が大事なのです。これは、元々の素質が大きいですわ。……これで三つ目」
アリアの前でまた、立つ指が増やされる。一つ目がすでにあやふやなアリアは話を聞くので精一杯だ。
「そして、呪文を唱える“発音”。これで呪術師の力量は決まりますわ。呪文…妖精言語はかなり発音が難しい言語なので、小さな頃からの鍛錬が必要です。綺麗な発音だと、呪文の成功率も上がります。……これで最後です」
マリシアはそこで指を下ろした。アリアはマリシアが言うことを聞くので精一杯だった。
これが十歳なのか……。改めてマリシアの年齢を疑う。まるで教師に教えてもらっているかのようにしっかりした口調だったのでアリアは呆気にとられて何も言えなかった。でも、これはまだ序の口だった。
「呪文について、簡単なものなら初めてでもできるかも知れませんよ。やってみませんか?そうですね……風の呪文はいかがですか?」
それから、アリアはひたすら呪文らしき言葉を教わっているが、さっぱりわけがわからない。正しい発音が何なのかさっぱり分からないのだ。
「ファルトュス……」
「最初のファはもっと強く。ルは軽く付け足す程度に。それとファの発音が若干違いますわ。舌を歯の裏につけて……」
呪文の最初の一句ですらこのような感じだ。アリアはかなり疲れていた。
火を出すくらいならアリアだってできる。ぶっちゃけ火を出すことに限っては呪文などいらない。「燃えろ」だけで十分だ。炎の妖精はどうやら燃やしたいあまりに人語ですらも受け付けてしまうようだ。炎の妖精なんて、見えなくてもかまどにはいるので“目”もいらない。だが、それは普通の人なら誰でもできるので何の自慢にもならない。
火をつけられたらそれでいいのではないか、とアリアは諦めかかっていた。これではメイが諦めるのも納得だ。
それで、今に至る。マリシアは一度教え出すと熱が入る性質のようで、呪文講座はかなり長い間続いていた。
「私がさっき言ったのは、もっと滑らかに発音しないと呪文として発動しないということですわ。発音自体は上手くなってきたのですから……」
アリアはマリシアに促されて、気を取り直してもう一度、呪文を唱える。
「フェルっ……痛っ」
アリアが唱えたところで馬車が大きく揺れて、アリアは口を押さえて顔をしかめた。
「舌噛んだ…」
「……ご愁傷様、アリア」
その大きな揺れは街道を出たことで生じたもののようで、馬車がゆっくりと減速して止まった。今日はここで野営するらしい。いつの間にやら夕焼けが窓から差し込んでいた。
助かった。これで呪文講座も終わっ…
「……アリア姉様。今日の所はここまでのようですね。また、明日頑張りましょうね」
また、明日、と言われてアリアはがっくりと肩を落した。
「あの……マリシア様」
ちゃんと正直に言おう。私にはもう無理です、と。アリアは覚悟を決めてマリシアに問いかけた。
「どうしました?」
マリシアはとっても嬉しそうな顔でアリアに言う。上機嫌な様子の顔は、呪文講座がいかに面白かったかを物語っていた。
「……何でもないです」
アリアはそんな様子のマリシアに、意志が挫けた。あんなに嬉しそうな顔をされては何も言えなくなるのも無理ないだろう。
それを見ていたメイがポンと背中を軽く叩いた。
「頑張って。マリシア様の説明、そこらの教師より上手いし。ね?」
夕焼けがさしこむ馬車の中でアリアはがっくりと肩を落した。