1,500円の本の価値
○はじめに
『若きウェルテルの悩み』という小説がある。ゲーテ初期の傑作だ。
読書諸賢にはご存じの方も多かろうと思うが、「ウェルテル効果」の語源である。
一応補足するが、主人公のウェルテルが最終的に自殺するというので、発刊当時、この本に影響された読者が同じ方法で自殺するというのが多発した。このことから、報道に影響されて自殺者が増えることをウェルテル効果という。
音楽畑出身の私は、マスネという作曲家が書いたオペラ『ウェルテル』からのつながりで、必要に迫られ読んだのだが、私の好みからするといくぶん叙情的すぎて、ずいぶん苦労した覚えがある。
なぜ最初にこの話をするかといえば、冒頭にゲーテを出しておくと格好がつくからというのに他ならない。あるいはライナー・マリア・リルケとか。
さて、先に上げた『テンプレ批判について思うこと』というエッセイのようなものの中で、「たかだか1,500円やそこらの本で人生が変わるのだとしたら、その人生の軽さを心配した方がいい」と書いた。
これは「高尚な小説を読むと知性や人間性がアップするので、逆にテンプレのような低俗なものを読むとダウンするに違いない」という説に対するカウンターとして書いたものだが、これにぽつぽつ批判がついた。
誰も直接言ってきてはくれないので、タイムライン上で見かけた限りの話だが、「いや、1,500円の本で人生は変わるのだ」という直球のものから、「出版業界の価値を貶める」、「読書の感動を否定している」、「この本と出会って、私はこんなに変わりました!」などなど。
私は意味内容より語感と印象を優先するきらいがあるので、論理的に反駁される余地はあるだろうが、「読書は神聖視されすぎている」という意見自体に変わりはない。
したがって、見かけた批判を挙げつつアンサーを返していこうと思う。
1)1,500円の本と人生の重さを比較することで人生に値付けしている
これは食らった。
確かに、3,000円の本で変わった人生は、1,500円で変わった人生の2倍重いのかという話になる。
もっとも、私としては対比によって「人生とは、そんな軽いもんじゃないでしょう」という意図があったわけだが、論理的に読み解くとまったくその通り。
参りました。
2)感動を否定している
感動は否定していない、の一言で片付けてもよいのだが、それはそれとして、私は数百ページの本をなんの感情もなく目で追い続けるだけのモンスターだと思われているのだろうか。不気味すぎるだろう。
とはいえ、感動は過大評価されているとも思う。
感動系のコンテンツが安定供給されるのは、感動がハックできるからだ。「こういう苦境を乗り越えた先に、こういう報酬があったら泣くよね〜」というのが、ある程度再現性のある技術として確立しているからこそ、2時間やそこらの映画に数億の予算がつくのだ(それでもスベる映画があるのが人間の面白いところだが)。
もちろんそうして作られた感動の価値は否定しないが、美しい感動の涙を流した次の日にはまた退屈な日常に戻っていくことを、私は「人生が変わった」とはいわない。
3)作家のくせに出版業界の価値を貶めるな
私個人の考えを損得抜きにいえば(自分の書籍の印税より購入する書籍代の方がはるかに高いことに留意されたい)、本の単価というのはもっと高くてよいと考えている。日本の出版業界では過去にいろいろの経緯があって、物価の上昇率に照らして本の価格が著しく低いらしいのだ。
次に詳しく述べるつもりだが、私は個別の本の価値が低いといっているわけではない。それによって人生が変わるというのは因果関係の誤謬だろうといっているのだ。
とはいえ、「作家だから本の価値を悪くいうな」というのは、「自分の属する業界の有利にはたらくようポジショントークをしろ」ということだ。浅ましいと思わんのか!
ちなみに私は営業マンなので、日頃そういうポジショントークを平気な顔でしている。私にも生活があるのだ。
4)いや! 1,500円の本で人生は変わる!
ここで冒頭のウェルテルに話を戻す。
『若きウェルテルの悩み』を読んで、命を絶った若者たちがいる。実際に手段を真似た(劇中では恋敵の拳銃を用いたはず)というのだから、因果関係があったのは確かだろう。
もともと主意は「読書が神聖視されすぎている」であるから、「読書はよい結果ばかりをもたらすわけではない」という論法をとることもできるだろう。
しかし、批判の主意は「人生が変わる」であるから、その点にフォーカスしたい。自らの手で命を断つというのはとても悲しいことだが、十分「人生を変えた」といえるだろうから。
しかし、彼らは果たして『若きウェルテルの悩み』によって命を絶ったのだろうか?
私はここに疑問がある。
光文社古典新訳文庫は、そんな殺人小説を今なお出版し続けているのか? あの一筆書きみたいな、物悲しくも可愛い書影で?
ここで一人の若者を仮定しよう。彼はサッカー部の部長で、マネージャーと付き合っている。関係は良好だ。そんな彼が『若きウェルテルの悩み』を読んで自ら命を断つだろうか?
「サッカー部が本なんか読むわけねえだろ」という反論はいったん脇に置こう。
より有効な反論としては、「いやそれだけじゃわからないだろ、他に悩みとかあるかもしれないし」といったところになりそうだ。ひょっとしたら変なタイミングで「マイボマイボ」と言ったせいで周囲と気まずくなったとか。
つまり、彼が自ら命を断つか否かは、本を読んだか否かではなく、彼自身の資質や環境要因によって決定されるであろうということだ。
また、ウェルテル効果は著名人等の自殺報道による後追い自殺の増加を指す。本でなくても起きるのだ。
私も本読みの端くれであるから、本との出会いによってものの見方や思考の枠組みが変わることは重々承知している。
しかしそれは人との出会いや異国への旅、ひょっとしたらYoutubeのショート動画でも起こり得ることだ。
読書を音楽にたとえると、鑑賞よりも演奏に近いと私は常々思っている。自らページを繰り、文字という記号から意味を取り出すという行為は、楽譜から音楽を取り出すのととても似ている。
当然のことだが、聴いただけの音楽より自分で演奏した音楽はずっと記憶に残る。
私はここに、人生を決定する要因としての認知の錯誤が起きると考えている。
おそらく、ある人の人生を決定づけているのは、もっと小さなものごとの、膨大な集積だ。意識もしていなかった仕草が誰かを不快にしたとか、くしゃみのしかたが可愛いとか。1,500円の本はその一つに過ぎない。
にもかかわらず、本には著者がいて、題名があり、言語で書かれ、自らページをめくって文字を拾うという体験があるから、とても強い印象を残す。まるであなたや私の人生の支配者であるかのように玉座に居座るのだ。
もしあなたが、1冊の本と出会って人生がよい方向へ変わったように思えたとしたら、それはあなた自身の資質や行動の積み重ね、いくつかの幸運、周りの人たちの善意によるものであって、あなたの輝かしい功績のすべてを、著者にくれてやることはない。
それはそれとして、この文章で人生が変わったというなら、振込先情報を送るのでDMをください。
とにかく、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』さえ読んでおけば、「あ、この問題……この前プロ倫に書いてあったことだ!」テストはいつも100点、部活も上手くいって彼女もできる、というようなことは起こらない。
私は今どきの恋愛事情に詳しくはないが、経験からいって読書ほど恋愛の役に立たないものはない。
飲み会に行くのだ。他に方法はない。




