第8章:王太子の後悔と、リリアナの焦り
アズライトで起こった奇跡――「眠り病」の蔓延と、それをオリビアという一人の女性が作った料理で解決したという一件は、辺境のゴシップでは済まされなかった。
アズライトの領主から、王国への正式な報告書として、アルフォンス王太子の元にも届けられたのだ。
執務室で報告書を読んだアルフォンスは、信じられないという顔で、何度もその文書を読み返した。
「馬鹿な……あの女が、聖女だと……?」
自分が「冷酷で嫉妬深い」と断罪し、蔑むように辺境へ追いやった女。そのオリビアが、街を救う英雄となり、人々から「聖女」とまで呼ばれている。
一方で、自分が妃に選んだリリアナはどうか。鳴り物入りで始めた「奇跡のパン」の慈善活動は、今や王都の笑いものだ。「見掛け倒しの偽聖女」と陰口を叩かれていることを、アルフォンスも知っていた。
今まで、彼は自分の判断が絶対に正しいと信じて疑わなかった。オリビアを捨て、リリアナを選んだことは、国のため、そして何より自分自身のための最良の選択だったはずだ。
しかし、目の前にある報告書は、その自信を根底から揺るがすものだった。
(私が……間違っていたというのか……?)
アルフォンスの脳裏に、断罪の日のオリビアの姿が蘇る。何を言われても、ただ無表情に、静かにそれを受け入れていた彼女。あの時、彼女の瞳の奥には、どんな感情が宿っていたのだろう。
もしかしたら、冷酷だったのは、彼女ではなく、物事の表面しか見ずに一方的に断罪した自分の方だったのではないか。
初めて、アルフォンスの心に「後悔」という棘が、深く突き刺さった。
その頃、リリアナは焦りの頂点にいた。
オリビアの名声は、今や王都でも無視できないほどに大きくなっている。貴族たちの間でも、「本物の聖女は、辺境におわしたようだ」「王太子殿下は、とんでもないお方を手放されたのではないか」という声が公然と囁かれ始めていた。
アルフォンスの自分への態度が、どこかよそよそしくなったことにも気づいていた。彼の心に、オリビアへの未練や後悔が芽生え始めていることを、リリアナは敏感に感じ取っていた。
このままでは、全てを失う。手に入れたばかりの王太子妃の地位も、未来の王妃という栄光も、全てが砂上の楼閣のように崩れ去ってしまう。
「こうなったら……もう、手段は選んでいられないわ……!」
追い詰められたリリアナの思考は、どんどん危険な方向へと傾いていく。
正攻法でオリビアの名声を貶めることは、もはや不可能だ。ならば、もっと直接的に、彼女を社会的に抹殺するしかない。
リリアナは、密かに王宮の裏社会と繋がりのある悪徳貴族に接触した。
「お願いがありますの。辺境の街アズライトにいる、オリビア・フォン・クライネルトという女を、再起不能にしていただきたいのです」
金に物を言わせ、彼女は王都のゴロツキや裏組織の人間を何人も雇い入れた。目的はただ一つ、アズライトへ向かい、「陽だまり亭」とその女主人オリビアを、徹底的に叩き潰すこと。
もはや、清純なヒロインの仮面は剥がれ落ち、そこには嫉妬と憎悪に歪んだ、本物の悪女の顔があった。彼女の放った悪意の矢は、静かな辺境の街へと、真っ直ぐに向かっていた。




