第1章:絶望の食堂と、至高の一皿
王都を追われ、揺れる馬車に身を任せること数週間。たどり着いた辺境の街アズライトは、乾いた土埃と、冒険者たちの荒々しい活気が入り混じった場所だった。
そして、慰謝料として押し付けられた食堂「陽だまり亭」は、その名のどかな響きとは裏腹に、私の想像を遥かに超える代物だった。
「これは……ひどいわね」
傾きかけた建物、蜘蛛の巣だらけの内装、埃をかぶったテーブルと椅子。客観的に見れば、絶望以外の何物でもない。同行してくれた年老いた執事のセバスも、言葉を失っている。
しかし、奥にあった厨房の扉を開けた瞬間、私の心は決まった。
そこには、年季は入っているものの、巨大な石造りの竈と、広々とした調理台が鎮座していたのだ。鉄製の調理器具は錆びついているけれど、磨けばまだ使えるだろう。
(やるしかないわね)
前世の、料理好きだったOLの血が騒ぐ。私の新しい人生は、ここから始まるのだ。
まずは掃除から。生活魔法の「洗浄」は、妃教育の一環で習得したものだ。埃を吹き飛ばすイメージで魔力を発動させると、
ゴッッ!!!
凄まじい突風が巻き起こり、埃も蜘蛛の巣も、ついでに壁の漆喰までごっそりと剥ぎ落としてしまった。
「お、お嬢様……?」
「……加減が難しいわね」
どうやら私の生活魔法、少し威力が強すぎるらしい。昔からそうだったが、気合を入れすぎるとこうなる。仕方なく、ここからは地道に雑巾がけだ。
数日かけてセバスと二人で店を磨き上げ、なんとか人が入れる状態になった。しかし、問題は食材だ。手持ちの資金は心もとない。
「お嬢様、食料の備蓄が尽きそうです」
「そう……。なら、私が調達してくるわ」
「お、お嬢様、森は危険です!」
セバスの制止を振り切り、私は最低限の護身用のナイフと、なぜか厨房の隅に転がっていた鉄製のフライパンを手に、街の近くの森へ足を踏み入れた。
森の中は、見たこともない植物やキノコで溢れていて、私の料理人としての探究心をくすぐる。
その時だった。ガサガサッ!と茂みが大きく揺れ、一体の獣が姿を現した。
それは、まるで小さな戦車のような、巨大な猪だった。牙は鋭く湾曲し、赤黒い目が爛々と輝いている。
(フォレストボア……! ギルドの依頼書で見たことがあるわ)
普通の人間なら悲鳴を上げて逃げ出す場面。けれど、私の目に映ったのは、凶暴なモンスターではなく、上質な脂がのった極上の豚肉だった。
「美味しそう……」
涎が出そうなのを堪えていると、フォレストボアが私を敵と認識したのか、大地を蹴って突進してきた。岩をも砕くと言われる突進。避けなければ。
そう思った瞬間、私の身体は勝手に動いていた。迫りくる巨体に対し、私は無意識に手に持っていたフライパンを、力いっぱい横薙ぎに振り抜いていた。
ゴォンッ!!
鈍い金属音と共に、凄まじい衝撃が手に伝わる。フォレストボアは巨大な頭を打たれ、白目を剥いてその場に崩れ落ちた。気絶しているらしい。
「……打ちどころが良かったのよ、きっと」
私はそう自分に言い聞かせ、気絶したフォレストボアの解体にとりかかった。硬い皮も、ナイフに少し魔力を込めたら、まるでバターのようにすんなりと切れてしまった。これもきっと気合のおかげだわ。
食堂に戻り、持ち帰った大量の肉塊を前に、私の創作意欲は最高潮に達した。この分厚い脂肪と、旨味の強そうな赤身。これには、前世の日本で得意だった、あの料理しかない。
フォレストボアのバラ肉を大きな塊に切り分け、まずは下茹で。生活魔法の「発火」で竈に火を入れる。火力が強すぎて焦げそうになるのを必死に抑え、コトコトと煮込んでいく。
肉が柔らかくなったら、次は味付けだ。この世界にある醤油に似た調味料と、甘い蜜、そして香り高い酒を使って、特製の甘辛いタレを作る。
そして、この料理の最大のキモは、肉の柔らかさ。私は生活魔法の「軟化」を肉にかけた。これも妃教育で、硬いパンを柔らかくするために習った魔法だ。魔力を込めると、肉は見るからにプルプルと震え、信じられないほどの柔らかさに変化した。
それをタレでじっくりと煮込み、竈から取り出した炊きたての白米の上に、惜しげもなく乗せる。
「フォレストボアの角煮丼、試作品……完成ね」
湯気の立つ丼から立ち上る、甘辛い魅惑的な香り。一口食べると、とろけるように柔らかい肉の脂の甘みと、濃厚な赤身の旨味が口いっぱいに広がり、甘辛いタレが染み込んだ白米が、それを優しく受け止める。
夢中で丼をかき込み、私は確信した。
これなら、きっとやっていける。辺境の街での私の新しい人生は、この最高の一杯と共に幕を開けたのだ。




