優しすぎる魔王と、世界を壊した勇者
魔王城の朝は、驚くほど静かだ。
城門が開く音も、警戒の角笛もない。ただ、石畳を撫でるように吹き抜ける風と、遠くで交わされる魔族たちの穏やかな声があるだけだった。
魔王は玉座にはいなかった。
黒曜石の広間を抜け、城の回廊をゆっくりと歩いている。
道の脇で、小さな魔族の子どもが咳き込んでいた。
魔王は足を止め、屈み込む。
「咳が止まらぬのか?」
子どもは驚いたように目を見開き、それから慌てて頭を下げようとした。
魔王はそれを制し、懐から小瓶を取り出す。
「これはただのアメだが、喉が少しマシになるだろう」
子どもは両手で瓶を受け取り、何度も頷いた。
その様子を見ていた側近の一人が、感嘆の声を上げる。
「さすが魔王様……!
民の体調管理まで行き届かせるとは、素晴らしい!」
魔王は微笑み、何も言わなかった。
代わりに子どもの頭を軽く撫で、その場を離れる。
(……賞賛される程のことはしていないが)
胸の内で、そう呟く。
城の中庭では、収穫された作物が並べられていた。
今年は豊作だ。魔族たちは笑顔で籠を運び、互いに声を掛け合っている。
魔王は分配表を確認し、数字を一つ書き換えた。
「この村には、もう少し回そう。
先月、病が流行ったと聞いている」
「承知しました!」
側近は即座に頭を下げる。
そして、誇らしげに続けた。
「魔王様は領地の隅々まで目を向けられている。民からも喜びの声が届いてきますぞ」
魔王の筆が、一瞬だけ止まった。
だが、肯定はしない。
たとえ平和が続いているように見えても、人間側からの脅威は拭えていないからだ。
それを、彼はよく理解していた。
人間の村を救えば「支配の布石」。
魔族を守れば「軍備増強」。
人間側からは優しさは、常に別の言葉へと置き換えられる。
それでも、やめるつもりはなかった。
魔王領内は今日も穏やかだ。
笑い声があり、温かな食事があり、誰もが明日の話をしている。
その平穏が、外の世界では「恐怖」と呼ばれていることを、魔王は知っている。
知った上で、彼は今日も城を歩き、時には人間の村も救っていた。
――国民が平和に過ごすことができるならば、それでいいからだ。
ーーー
人間の王城は、いつも騒がしい。
絢爛な装飾が施された会議室では、貴族たちの声が重なり合い、怒号に近い音となって天井に反響していた。
「魔王がまたこの国の村を助けたそうだ。作物が不良だったところを魔族の育てた作物を分け与えたらしい。村の人間どもは魔王に大変感謝しているようだ」
誰かがそう口にした瞬間、空気が一段階重くなる。
「やはりな。民の信頼を得るための布石だ」
「善行を積み重ね、抵抗心を奪う……実に狡猾だ」
「魔王に感謝するなど、呪いにかけられた村だ!断罪するべきだ!」
報告書には、魔族が人間の村に薬を届けたこと、飢饉の地へ作物が回されたことが淡々と記されている。
だが、その内容を読んで好意的に取るものはいない。魔族が手を差し伸べなければ村のものがどうなって いたかもわからないのにだ。
彼らが見ているのは、結論だけだ。
――魔王は危険である、という前提。魔王が人間に脅威を知らしめようとしていると。
「魔王は善人のように振る舞っている。だからこそ、恐ろしいのだ」
老貴族の一言に、誰もが深く頷いた。
「善人ほど、支配者に向いている。
人の心を掌握するには、恐怖よりも恩恵の方が効くからな」
会議の端で、勇者は黙って立っていた。
剣を携え、討伐の命を待つ身として、この場に呼ばれている。
だが、報告を聞くたびに、胸の奥に小さな違和感が積もっていく。
――本当に、それは悪なのだろうか。
村を救うことが。
民を飢えから守ることが。
他種族の者を助けてくれたことに感謝を述べるべきところではないのだろうか。
そんな疑問を口にすることは許されない。
勇者に求められているのは、問いではなく、剣だ。
「勇者よ」
王が声をかける。
「魔王は、世界の秩序を脅かす存在だ。その優しさに惑わされてはならぬ」
勇者は一瞬、言葉を失った。
――惑わされる、魔王は本当に油断させて領地を奪うつもりなのか。
「討て。魔王を討ち、この国に真の平和をもたらすのだ」
返事を求める視線が集まる。
勇者は深く息を吸い、ゆっくりと頷いた。
「……承知しました」
剣を取る。
それが、勇者としての役目だからだ。
だが、心の奥に残った違和感は、その剣よりも重く、確かにそこにあった。
――もしも、魔王が本当に「優しい」のだとしたら。
その優しさを、世界はなぜこれほどまでに恐れているのだろうか。
それを知るためにも自分は魔王城へ行き、魔王という存在を確認しておくべきだと思った。
お供をつけるという提案を断り、一人の魔王城への旅へと出た。
魔王城へ続く道は、想像していたよりも静かだった。
荒れ果てた大地も、禍々しい瘴気もない。森は深く、風は澄み、鳥の声が遠くから聞こえてくる。
それでも勇者は、剣から手を離さなかった。
道の先に、魔族の一団が姿を現したからだ。
角を持つ者、獣の姿をした者、肌の色が異なる者。どれも、人間の王国では「敵」と教えられてきた存在だった。
勇者は足を止める。
魔族たちもまた、同じように立ち止まった。
張り詰めた沈黙が流れる。
互いに視線を交わしながら、誰も敵意を向けてこなかった。
警戒はしている。
だが、攻撃の気配はなかった。
「……通るだけだ」
勇者はそう告げた。
魔族たちは小さくざわめき、やがて道を開く。
「人間か……」
「勇者だな」
低い声が聞こえる。
敵意よりも、距離を測るような慎重さがあった。
勇者はその間を抜け、再び歩き出す。
背中に突き刺さる視線を感じながらも、剣は抜かれなかった。
しばらく進んだ先で、小さな影が足元を横切った。
「危ない!」
次の瞬間、勇者の足がもつれ、身体が前へと倒れかける。
その腕を、小さな手が掴んだ。
魔族の子どもだった。
背は低く、角もまだ短い。
「ここ、落とし穴。踏んだら危ない。食糧捕まえるための罠なんだ」
子どもはそう言って、勇者を引き戻す。
足元を見ると、草に隠れた浅い穴があった。
「……助けてくれたのか」
勇者が尋ねると、子どもは不思議そうに首を傾げた。
「うん。怪我したら、魔王様に怒られるから」
「……怒られる?」
「人間でも、怪我させたらだめって。魔王様の命だから、人間は僕たちのこと嫌いなのにね。でも、お兄ちゃんからは敵意感じないね?」
勇者は言葉を失った。
――魔王の、命。
人間を守る理由として、それが出てくるとは思っていなかった。
「あぁ、魔族が悪だと俺は思えないからな。それを確かめるために魔王に会いにきたのだ。お前は……人間が怖くないのか?いつも、その…敵意を向けられるのであろう。だけど、お前は躊躇いなく俺に近づいてきた」
子どもは少し考え、それから答えた。
「怖いよ。でも、悪い人ばっかりじゃないって、魔王様が言ってた。お兄ちゃんは悪い人じゃないみたい。魔王様はいつも正しいからね!」
そう言って、子どもは笑った。
警戒は残したまま、けれど疑いのない笑顔だった。
「魔王は魔族から好かれているのだな」
「うん!そりゃもちろん!」
勇者は礼を言い、再び歩き出す。
背後で、子どもが手を振るのが見えた。
道の先に、魔王城の影が見え始める。
高くそびえる城壁は威圧的だが、どこか整然としている。
戦のためではなく、守るために築かれたような佇まいだった。
魔王城の道中には様々な見た目をした魔族たちがいたが、誰からも剣も敵意を向けられることはなかった。
勇者の胸に、芽生えた違和感がはっきりとした形を持ち始める。
――人間側から見る魔族の姿と、実際に見る魔族の姿があまりにも違う。
剣を握る手に、わずかな迷いが生まれる。
だが、引き返すことはできない。
彼は勇者だ。
そして、魔王と会うために、ここまで来た。
城門の前に立ち、深く息を吸う。
この先で、世界の常識が、また一つ揺らぐ予感がしていた。
魔王城に入るとたくさんの魔族が働いていた。いきいきと楽しそうだ。
そして彼らは俺の存在を確認すると、魔王様は今なら執務室にいらっしゃいますよと執務室の場所を教えてくれる。
剣を持っている者に対して君主の場所を教えてしまっていいのか?疑問に思いつつ、なんとなく罠ではないような気がして案内通りに進んで行った。
案内通りに進むと執務室と思わしき扉があった。
勇者は剣を抜かなかった。
鞘に収めたまま、静かに立っている。
緊張と警戒で顔が強張っているのを感じたが、自分が求めていた答えがこの先にあるのを感じていた。
扉を開けた先に魔王がいた。
黒い外套を纏い、角も爪も見えないその姿は、玉座に座る魔王というより、一人の統治者に近い。
魔王は勇者を見て、穏やかに口を開いた。
「遠いところを来たな。疲れてはいないか」
その第一声に、勇者は一瞬、返答を忘れた。
敵意も、挑発もない。あまりにも自然な気遣いだった。
「……あなたが、魔王か」
「そう呼ばれている」
魔王は否定も肯定もせず、微かに笑った。
「剣は抜かないのだな」
「ここで抜く理由が、見当たらない」
そう答えた勇者の声は、わずかに硬い。
魔王はそれを責めることなく、ただ頷いた。
「では、話そう。君が聞きたいことは、だいたい分かっている」
魔王は視線を外し、窓の外を見た。
「私は、自分が世界からどう見られているかを知っている。
村を救えば『支配の前兆』。
魔族を守れば『軍備増強』。
善行は、必ず別の意味に翻訳される」
勇者は黙って聞いている。
「否定しようと思えば、できる。
説明しようと思えば、いくらでも言葉はある」
魔王は、そこで一度言葉を切った。
「だが、それをすれば、世界はもっと壊れる」
勇者の眉がわずかに動く。
「……どういう意味だ」
魔王は勇者を見る。
その目には、怒りも悲嘆もない。ただ、確信があった。
「人間は分かりやすい悪を求めているからな。だから、悪の象徴である魔王が存在し続けている」
「共通の悪がいることで人間は結束している」
あまりにも信じられない言葉だった。
「前魔王である父が、前勇者が来る前日に自分にこう伝えた『明日、勇者が来るだろう。私以外は皆お前主体で今日中に避難しなさい。ーー今日からお前が魔王だ。悪であることが嫌になることがあろう。だが、魔王がいるから世界は平和に保たれる。よく覚えておきなさい』これが父との最後の会話だった」
魔王は静かに続ける。
「だから私は、憎まれる役を引き受けている。
優しいまま、悪として扱われる役目を…父のように」
勇者の喉が鳴った。
「……それは、あまりにも一方的だ」
「そうだな」
魔王は否定しない。
「だが、誰かが引き受けなければならない。
魔王の犠牲で血を流さない世界に出来るならばそれでいいと思う」
勇者は拳を握った。
怒りか、困惑か、自分でも分からない。
ただ自分の中にある正義が間違っていると叫んでいた。
「あなたは……世界を変えたいとは思わないのか」
魔王は首を振った。
「私は変えない。
変える資格があるのは、私ではない」
「なぜだ」
「私が動けば、それは『魔王の陰謀』になる。それでは、ただの悪だ。人間は真実に気づかないまま、魔族との対立は深まるであろう」
その言葉に、勇者は何も返せなかった。
魔王は椅子から立ち上がり、勇者に向き直る。
「君は勇者だ。
剣を振るう力も、世界に届く言葉も持っている」
だが、そこで魔王は一歩引いた。
「だが、頼みはしない。
助けを求めるつもりもない」
勇者は、思わず問いかける。
「……では、なぜ俺に話した」
魔王は、ほんのわずかに微笑んだ。
「君が、ここまで来て…そして私に剣を向けなかったからだ」
理由はそれだけだと言わんばかりに。
沈黙が落ちる。
執務室には、風の音だけが残った。
勇者は剣に手を置く。
だが、抜かなかった。
彼の中で、「討つべき魔王」という像が、音を立てて崩れていく。
代わりに立ち上がるのは、世界そのものへの疑問だった。
混乱する中執務室を出ようとすると、勇者は魔王に呼び止められた。
「城の外を見ていくといい。お前の目で実際に魔族の姿を目にしてから、帰りなさい」
魔王はそう言い、側近に目配せする。
「案内を頼む。……害することはない」
それは命令というより、確認に近かった。
勇者は頷き、側近に導かれて城下へ向かう。
魔王領の町は、静かだった。
だが、活気がないわけではない。
露店には品が並び、魔族たちは互いに声を掛け合っている。
値切る声、笑う声、子どもを叱る声。
どれも、人間の町と変わらない。
「争いは、ないのか」
勇者が尋ねると、側近は首を振った。
「なくはありません。ですが、武器を取る前に話し合うよう、教えられています」
「教えられて?」
「魔王様から」
市場の一角で、小さな揉め事が起きていた。
作物の分配を巡る口論だ。
だが、誰かが言った。
「魔王様が悲しむぞ」
その一言で、場は静まった。
怒りが消えたわけではない。ただ、ぶつける先がなかった。
勇者は、その光景から目を離せずにいた。
――正義も、恐怖もない。
あるのは、「壊さない」という選択だけだった。
魔王は、ここでは語られない。
だが、確かに息づいている。
どう考えても悪でない存在がここで暮らしている。
自分がすべきこと、覚悟が決まった。
「ここまでで十分だ。案内感謝する」
案内してくれた魔王の側近に感謝を述べ、国に帰ることを決めた。
王国へ戻る道は、魔王城へ向かうときよりも重く感じられた。
城壁が見えた瞬間、勇者は無意識に息を詰める。
――帰ってきてしまった。
人間の王城は、相変わらず華やかだった。
旗は風に揺れ、兵士たちは整然と並び、民は何事もないかのように行き交っている。
その平穏が、どこか薄っぺらく見えた。
勇者はすぐに会議室へ通された。
王と貴族たちは、彼の帰還を待ちわびていたかのように口を開く。
「どうだった、魔王は」
その問いに、勇者は一瞬だけ言葉を探す。
「……想像していた存在ではありませんでした」
空気が、微かにざわつく。
「だが、危険であることに変わりはないだろう?」
王が念を押すように言う。
「魔王は優しい。だからこそ、放置すれば民の心を奪う」
その言葉を聞いた瞬間、勇者の中で何かが噛み合った。
――ああ、そうか。
勇者の脳裏に、かつて見た光景が蘇る。
国境近くの小さな村。
疫病が流行り、多くの者が床に伏せていた。
その村が救われたのは、魔族の薬だった。
だが、その事実は祝福されなかった。
「魔王に通じた可能性がある」
そう告げられ、村は調査対象となった。
兵が入り、家々が改められ、人々は怯えた。
「助けていただいただけです!」
そう言った村人たちは、連れて行かれた。
以降、その村で「魔族に救われた」という言葉は、口にされなくなった。
――善意は、黙ることを強いられる。
別の町では、半魔族を匿った疑いで、一人の男が捕らえられた。
証拠は曖昧だった。
だが、「同情した」という事実だけで、十分だった。
「裏切り者が出れば、秩序が乱れる」
それが、人間の正義だった。
勇者は、理解してしまった。
今まで疑問視していたものが点と点となり、線となった。
彼らは、魔王を恐れているのではない。
恐れているのは、『民が魔王を信じる可能性』なのだ。
「魔族が善良だと知れ渡れば、秩序が乱れる」
「敵が敵でなくなれば、統治は難しくなる」
貴族たちは、悪びれもせずに言葉を重ねる。
「魔王が倒れれば世界が平和を認知し、皆が喜びの感情を持ち今の統治への賞賛へと変わるでしょう。すぐに魔王は次の代へと変わりますがね」
キミが悪い笑顔で言い切る。
勇者の胸に、静かな怒りが灯る。すぐにでもその口を閉ざさせてしまいたかったが、すべきはここではな い。
――魔王より、人間の方が、よほど世界を歪めている。
村を救った行為が陰謀にされる理由。
善意が悪として扱われる理由。
それは、魔王の問題ではなかった。
「……魔王を倒したからと言って、何が変わるのですか」
勇者の問いに、王は少しだけ目を細める。
「平和だ」
即答だった。
「少なくとも、我々の平和は守られる。
さあ、勇者よ。明日魔王討伐の報告を全国民の前で行う。本日は疲れたであろう、休んでくれたまえ」
その言葉で、すべてが決まった。
勇者は理解する。
ここで言う平和とは、誰かを救うことではない。
変わらないための言葉だ。
魔族が悪であり続けること。
魔王が恐怖の象徴であり続けること。
その方が、この世界は都合がいい。
勇者は、ゆっくりと頭を下げた。
「……承知しました」
その返事に、誰も疑問を抱かなかった。
明日はこの国中の誰もが魔王を討伐したという勇者の言葉を待っているだろう。
そんな事実はないというのに、私が悪の象徴である魔王を倒して帰ってきたと信じて疑わない。
勇者の胸には、魔王の言葉が残っていた。
――私は変えない。
変える資格があるのは、私ではない。
勇者は、その意味を理解していた。
世界はあまりにも歪んでいる―
それを守ろうとしているのは、誰か。
剣を振るうべき相手は、もう、魔王ではなかった。
王城前の広場には、人が集まっていた。
魔王討伐の報告が行われると聞きつけ、民も、兵も、貴族も、その場に集っている。
勇者は壇上に立つ。
剣を携えたまま。
その姿を見て、誰もが勝利を疑わなかった。
「勇者よ!」
王が声を張り上げる。
「魔王は討たれたか!」
広場が静まり返る。
期待と歓喜が、空気に満ちていた。
勇者は、ゆっくりと口を開く。
「――いいえ」
ざわめきが走る。
「魔王は、生きています」
一瞬、理解が追いつかない沈黙。
次いで、怒号が湧き上がった。
「何を言っている!」
「なぜ討たなかった!」
勇者は視線を逸らさない。
「討つ理由が、なかったからです」
王の顔が歪む。
「貴様……魔王に惑わされたか!」
その言葉を、勇者は否定しなかった。
「ええ。ですが、惑わされているのはどちらでしょう」
広場が凍りつく。
「魔王は今までたくさんの村を救いました。飢えた地に作物を回し、病に苦しむ者に薬を届けた。それに救われたものはこの中にいるであろう?」
「それは支配の——」
「違う」
勇者は、言葉を遮る。
「それは、善意だ」
その言葉に、広場がざわめく。
混乱と否定の声で満ちる中。
最初に声を上げたのは、一人の老女だった。
「……うちの孫は、魔族の薬で助かった」
周囲が息を呑む。
老女は震えながらも、続けた。
「言えなかった。言ったら、せっかく助けていただいた命を失うことになるから」
次に、男の声が重なる。
「俺たちもだ!飢饉の時、作物を分けてもらった!」
「悪だとは思えない!」
堰を切ったように、声が広がる。
「俺もだ!」
「助けてもらった!」
今まで口を閉ざしていた人々が、次々と名乗り出る。
恐れていたのは、魔族ではない。
声を上げることで、人間から命を奪われることだった。
勇者は、それを見て確信する。
――壊すべきは、沈黙を強いる常識だ。
「魔族を守ったのは、軍備ではない。ただ、生きる場所を守っただけだ」
勇者は一歩、前に出た。
「それを"悪"と呼び続けたのは、誰ですか」
視線が、王と貴族たちに集まる。
「魔族が悪である方が、統治しやすいからでしょう。敵が必要だったからでしょう」
沈黙。
勇者は剣の柄に手をかける。
誰もが、ついに振るわれると思った、その瞬間。
――鈍い音が響いた。
剣が、地に落ちていた。
勇者は、自らの手で、剣を折っていた。
「俺は、勇者の称号を捨てる」
広場が、言葉を失う。
「この剣は、都合のいい正義の象徴だった」
勇者は折れた剣を見下ろす。
「だから、壊す」
彼は向き直り、王城を指差した。
「ここに残された記録。
魔王を悪と書き続けた歴史。
それらすべてが、この世界を歪めてきた」
兵士たちが動こうとする。
だが、誰も勇者を止められなかった。
「俺が、新しい"悪"になろう」
勇者の声は、震えていない。
「世界の常識を壊した者として、歴史に名を刻まれてもいい」
彼は、民を見渡す。
「だが、考えてみろ。魔族の行動が、魔王の行動が…本当に人間に悪なことだったかを」
風が吹く。
旗が大きく揺れた。
誰も答えない。
だが、その沈黙こそが、世界の崩れる音だった。
勇者は背を向ける。
剣なき背中で、王城を後にした。
その歩みは、重い。
だが、迷いはなかった。
――世界は、確かに壊れ始めていた。
ーーー
魔王城は、以前と変わらず穏やかだった。
世界のあちこちでは混乱が続いていると聞く。
勇者が魔王討伐を拒否し、王城で語った言葉は、各地に波紋を広げていた。
魔族への疑念は持つものは消えてはいない。
だが同時に、かつてほど一方的な恐怖も、確実に揺らぎ始めている。
確かに魔族に救われた命はたくさん存在し、声を上げ始めていたからだ。
魔族領の中ではそんな混乱を感じさせることなく日常が続いていた。
魔族たちは畑を耕し、子どもたちは走り回り、食卓には温かな食事が並ぶ。
魔王は回廊を歩きながら、その様子を眺めていた。
「……騒がしいようだな、外は」
背後から、声がする。
「ええ。でも、前よりは静かです」
勇者だった男が、そう答えた。
今はもう剣を持たず、簡素な衣を身に纏っている。
魔王は立ち止まり、振り返る。
「後悔はしていないか」
問いは短い。
だが、その中には多くの意味が込められていた。
男は少し考え、それから首を振る。
「していません。……人間の世が悪くならないかと怖くはありますが」
「それでいい」
魔王は静かに言った。
「恐れを知った上で選んだようでよかった」
二人の間に、沈黙が落ちる。
だが、それは気まずいものではなかった。
「君は、なぜここに戻ってきた」
魔王が尋ねる。
「行く場所がなかったからです」
勇者だった男は、正直に答えた。
「それに……あなたに、聞きたいことがあった」
「なんだ?答えられるとは限らない」
「それでもいい」
男は微笑んだ。
「説明されなくても、分かることがあると知ったので」
その言葉に、魔王はわずかに目を見開いた。
そして、初めて小さく息を吐く。
「……そうか」
それ以上、何も言わなかった。
だが、その沈黙には、拒絶も警戒もなかった。
夕暮れの光が、城内を染めていく。
窓の外では、魔族の子どもたちが笑い声を上げていた。
魔王は歩き出す。
勇者だった男も、静かに着いていく。
説明はいらない。
理解を求める必要もない。
ただ、同じ景色を見ている。
魔王城は、今日も穏やかだ。
変わらない日常が、ここにはある。
ただ一つだけ、以前と違うことがあった。
――揺るがない、魔族の平和が広がっていた。




