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────それはとある夏の日。
とある廃アパートの屋上、フェンスの向こう側にて。
……もう、いい。
全部、何もかも、どうでもいい。
小さい頃からお姫様に憧れていた。
どんな不幸な目にあっても素敵な王子様が現れて、お姫様を救い出してくれるから。
だから、あたしは今とても不幸だけど、我慢出来た。
家族の中で、あたしだけ奴隷のように扱われても。
まともなご飯を食べさせて貰えなくても。
まともな服を着せて貰えなくても。
お風呂は一週間に一回で、しかも一番最後にしか入らせて貰えなくても。
髪すら、切ることを許されなくても。
気がついたら、とても汚くてみすぼらしい容姿になっても。
それでも。今あたしが不幸なのはいつか王子様があたしのことを助けに来てくれるからって。
そうやってずっと期待して、ずっとずっと待っていたのに。
それだけがあたしの生きる希望だったのに。
それも、打ち砕かれた。
兄に純潔を散らされてしまったから。
お姫様は純潔でいないといけなかったから。
純潔じゃない子は、お姫様ではなくなってしまうから。
もう、あたしのところに王子様は来ない。
だから、もう、どうでもいいの。
あたしは目を瞑り、ゆっくりと倒れるようにして、落ちた。
「……九条宵子」
いつまで経っても痛みが襲って来ないと、恐る恐る目を開く。
するとあたしの目の前には一人の男の人がいた。
それよりも信じられなかったのは、あたしは落ちていないということ。
いや、正確に言うと、落ちている。落ちているのだが、途中で静止しているのだ。
こんなの、時が止まってるみたいじゃない……!
「ああ、確かに俺は今お前に流れる時間を止めている」
「あの、普通に人の心を読んで会話するのやめて貰えませんか。というか、あなたは誰なんですか」
「……八万三千九百九十九回」
「………………はい?」
彼はあたしの問いには答えず、突然訳の分からない数字を口にする。
「九条宵子、いくつもの世界でお前が自殺した回数さ」「何、言って……」
あたしが自殺した回数はこの一回のみだ。
というか、そもそも自殺は一回しか出来ないだろう。その後死んでしまうのだから。
この人はいったい、何を言って……。
「その度に俺はこうやって時を止め、死ぬ直前まで戻してやった。まあ、何をしてもお前は俺とこうやって会話したことすら忘れ、最終的に自殺してしまうんだがな」
「それ、ファンタジーの話ですか?そんなこと現実に起こる訳……」
「なら今お前の身に起こってることは何だ?飲み込みが悪い女だな」
……まあ、そう言われればそうなんだけど。
あたしは、夢でも見ているのだろうか。
「また、お前を止めることは出来ないかもしれないが……何と今回でお前が自殺するのは八万四千回目。キリも良くしかも縁起の良さそうな数字さ」
「……?そうでしょうか」
「……はあ。頭の悪いお前には分からないだろうな」
むう。多分、いや絶対、馬鹿にされたのだろう。
というかどうしてそうトゲのある言い方をするんだろうか。もうちょっと優しい言葉を選んでくれても良いと思う。
「八万四千人目の九条宵子、俺はお前に期待してるんだ」
「勝手に期待されても困ります。だいたいあたし、死ぬつもりですし」
「いいから聞け、セッカチ女。まだ死ぬな。来年の4月まで待て」
「どうしてそんな残酷なこと言うんですか……。どれだけ待っても、あたしにはもう、王子様は迎えに来てくれないっていうのに……」
吐き出してからはっとする。
高校生にもなって王子様なんて。夢物語もいいところだ。きっとドン引きされる。
……まあ、どうせ死ぬんだからこの人に引かれても関係ないけど。
「……俺がお前を迎えに行ってやる」
「えっ……」
「俺は王子でも何でもない男だがな」
迎えに、来てくれるの?
あたしを?
ほんとうに……?
「だから、4月まで待て」
「本当に、あたしを迎えに来てくれるんですか……?あたしを、助けてくれるんですか……?」
「そう言ってるだろ。間抜け面で泣くんじゃねえよ」
「な、泣いてなんか……!」
気がつけば、涙が一気に溢れてきた。
何があってもずっと堪えてきた涙。それが今、決壊した。
「あなたが、王子様なんですか……?」
「違う。そんな柄じゃねえ」
「じゃあ、あなたはいったい誰なんですか」
「頭の悪いお前にも分かるように説明してやると、俺はこの世界の人間じゃない。俺はお前に干渉することは出来ない」
「な、ならあたしのこと、助けに来るなんて無理じゃないですか……!というかあたし、もう限界なんです!4月までなんて、待てない……!」
この世界の人間じゃないのなら、あたしに干渉出来ないのなら、どうやってあたしを助けに来るというのか。
そもそも、どうして今すぐあたしを助けてくれないのか。4月まで待たせる理由が分からない。
「……聞け。お前を助けてくれるのは、《この世界に存在している俺》だ」
「えっ……」
「だから4月まで信じて待て。《この世界の俺》が、必ずお前を救ってみせる」
「《この世界》って……どういうことなの?じゃああなたはいったい……」
その瞬間、視界がぐにゃりと歪む。
何これ、頭が痛い……!
「……時間だ。時が戻る。今俺と話したことは、全てお前の記憶から消えてしまう」
……!?消えるって。
あたし、どうなるの?この後どうなってしまうの?
だめ。目の前の彼の姿がどんどん歪んで、あたしはそれを止めたくて、手を伸ばす。
「ま、待って!あたし、まだあなたに聞きたいことが……!」
「今度こそ生きろよ、……………《サヨ》」
「………………」
夢を、見ていたのだろうか。
それがどんな夢かも思い出せない。
「あたし……確か、死のうとして」
そう。死のうとして、廃アパートの屋上にやってきたところだった。
ここなら滅多に人も通らないし、誰か他の人を巻き込むこともないと思って。
本当に、ついさっきまで死ぬつもりだった。今だって死にたいと思ってる。
一歩前に進むだけであたしは死ねる。そういう場所にいる。
だけど、何となくその一歩が踏み出せなくて。
「……帰ろう」
あたしは、屋上に背を向けた──────……
シン・ヨロズブ、開幕。