「文豪ストレイドッグス 明治 -MAGE-」⑧
⑤ フィッツジェラルド
『……そうですか』
通話口の向こうで、ルーシー・Mの肩を落とす姿が目に見えるようだった。フランシスは「悪いね」と謝りつつ、推論を口にする。
「『神の目』に捉えられた人物を識別する為には、IDが必要だ。黒岩涙香は恐らく、既にこの国での戸籍を失っているのではないかな?」
『自ら抹消したという事ですか? それなら、彼は政府のデータベースにまで……』
「いや、もう一つ可能性があるよ」
フランシスは、眼下の街を見下ろしながら言った。
「彼が既に死んだものとして扱われている場合だ」
かつての「組合」が空中分解した後、ルーシーは探偵社一階の喫茶室に逗留しているという事だった。彼女はもう自分には関わらないものと思っていたが、否応なく入って来る探偵社の動きについては彼女も敏感であり、現在毎日のようにヨコハマを襲う異変についても思い悩んでいるらしい。
それ程までに探偵社に情が移ったというのか──いや、或いはあの”道標”たる虎の少年に、か。
まあいい、自分にも新たな目標が出来た事だ。他人の事は他人の事として、彼女の生き方を尊重しよう。
そのルーシーから、自分が株式会社マナセット・セキュリティを買収して特許を得た人物識別システム「神の目」を使わせて欲しいと依頼があった。先日探偵社とマフィアが「共喰い」事件に巻き込まれた際にも、魔人フョードルを探すべくこの件で太宰から接触があったが、どうも皆、自分に見返りの貢ぎ物をしてこのシステムばかりを使いたがる。
今回のルーシーは自分に何をくれるのか、と言いながらも、フランシスは実際にそこまでの事を期待していなかった。現在の彼女に、そこまでの財産も能力もない事は分かりきっている。
『この一件について何もしない、という条件は……駄目ですか?』
ルーシーは、苦渋の決断だ、というようにそう言った。
「どういう事かね?」
『あなたは、探偵社との再戦を望んでいる。けれど、黒岩涙香と無惨同盟がヨコハマを──いいえ、国内を掌握すれば、あなたの目的は叶わなくなると共に内務省買収の足掛かりも失う事になりますよ。それに涙香は、異能力者を集中的に攻撃対象にしています』
「続けてくれ」
『フランシス様のお手を煩わせる事にもなります。……探偵社は、きっとこの程度の事件に負けたりしない。あたしはそう思います。今回の一件はあなたにとって、全てなかった事になる。フランシス様が、事件の当事者にならない限りはです』
「不確実性が勝るね。確かに俺も、探偵社は負けないと思う。そうでなくては、一度は俺を打ち倒した事に納得が行かないからな。しかし、実際に襲撃対象を決めるのはルイケル本人だ」
『涙香です……』
ルーシーは引き気味な感じで訂正を入れてきたが、すぐに咳払いをして元の調子に戻った。
『あなたとルイーザさんに、事態の収束までアンの部屋をお貸しするという事でどうでしょうか?』
「……考えたな。君がそこまで本気だとは思わなかった」
やはり、あの少年の為か。しかしフランシスにとってもまた、彼が白紙の文学書を探すべく必要な”道標”である事に変わりはない。正直に言って対価が見合わない取り引きではあるし、ヨコハマの人々がどうなろうと自分には関係のない事ではあるが、ここは彼女に付き合うのも一興だろう。
果たして交渉は成立し、フランシスは「神の目」で涙香なる異能力者の捜索を行う事となった。
が、その結果は芳しいものではなかった。
「戸籍上死んでいる人間が、我々の故郷からカムバックしたのであれば……海外で昔に事故か何かに巻き込まれて遺体が発見され、別人のそれが誤って彼と診断されてしまったのか、もしくは……」
『もしくは……?』
「何者かが、彼の生存記録を握り潰したか、だ。黒岩涙香が本当に日本人なのかすら定かではないが、もしも異国の個人情報を自由意思でどうこう出来るような者たちが居るとすれば、自ずと犯人は絞られてくるだろう」
フランシスは言ってから、「とはいえ」と釘を刺した。
「俺がここまで言った事は全て想像に過ぎないよ。ルーシー君、あまり先入観を持たせるような事は、彼らには言わない方がいい」
『承知していますわ、フランシス様……』
「けれどね」
やや緊張気味に声が固くなったルーシーに、フランシスは不敵な笑みを浮かべながら言った。
「この程度の先入観で、真実を見誤るような彼らではないさ。きっとな」