「文豪ストレイドッグス 明治 -MAGE-」①
※本作品には『文豪ストレイドッグス』(単行本第14巻、アニメ第4期まで及び劇場版『DEAD APPLE』)の内容に関する重大なネタバレがあります。
「人殺しは折々あれど斯くも無惨な、斯くも不思議な、斯くも手掛なき人殺しは其類少し」──黒岩涙香「無惨」より引用
序ノ壱
爆発が起こるよりも先に、痛みが来た。
光が炸裂する。その時には既に、子供の痛みは去っている。
出現した光球がみるみるうちに膨張し、街の人々や建物を玩具の如く押し退けながら風景を白一色に塗り潰していった。
子供はこの後、自分が一つの街を更地に帰しめたその現象の中央──爆心地に居た事を知る。
──何故?
生涯繰り返す事になるその問いを最初に抱えた時、それはまだ突如見舞われた不条理に対するものでしかなかった。
だが実際には、この爆発より先に、子供は疑問を抱いていた。何故自分がこのような目に遭わねばならなかったのか──抱いていた問いは、そのような一時的なものではなかったのだ。
子供は、自分でもまだその事を知らない。
今はまだ──。
序ノ弐
「お巡りさん、本当に大丈夫なんでしょうね……?」
「ご安心下さい、山田さん。二十人体制の動員です、曲者がどのような奴であったとしても、この守りはそうそう突破出来ませんよ」
そもそもこれ程の警官が動員されている中で、曲者は予告状通りの誘拐を実行しようとは思わないのではないか。谷間田刑事は疑念が拭えないながら、家主である気弱そうな医学生を安心させるべく言う。
医学生はそわそわと落ち着きがなく、分厚い女物の袢纏の両袖を忙しなく擦り合わせながら尚も「しかしですね……」と濁した。
「僕、異能力者なんですよ? どうやったら使いこなせるのかも分からないし、だから狙われたんだとしたら……僕を攫うって言って寄越した相手も、相当強力な異能の使い手って事になりませんか」
──そんな訳があるか。
口で適当に遇いながらも、谷間田は内心ではうんざりしていた。
(異能力者って……実演一つ出来なかった癖に、誰がそんな言葉を信用すると思っているんだ)
ヨコハマ南東部に住む医学生・山田風太郎の元に、何者かからの怪文書が送りつけられたのは二週間前の事だったらしい。真っ青になりながら軍警に保護を求めてきた彼から、その実物は見せられた。
「山田風太郎殿 足下
余ノ如何ナル人物乎ヲ此処ニ敢ヘテ記サザル事、努々御容赦召サレ度ク願イ奉リ候。扨、貴殿ニハ死者ヲバ蘇ラスト云フ其『魔界転生』ヲ以テ而シテ余ガ懐疑ノ詳ラカニセン処ニ助力ヲ願イ度ク、次ナル月ノ満ツル晩、余ハ貴殿ヲ尊宅ヨリ連レ行カムト参上仕ル由、予メ御連絡申シ上ゲ候」
定規で引いたかのように角張った、筆跡の分からない文字だった。
文中に誘拐を仄めかすような文言が見られた為、念の為彼の周囲には身辺警護が付けられる事になった。彼が身柄を狙われる理由について心当たりはないかと本人に尋ねると、山田は自らが異能力「魔界転生」の使い手であると言った。
「僕は何年か前から、時折死んだ人を見る事があったんです。それは、医大に通っているので解剖などはする事がありますが、そうではなくて……両親や親戚、僕がよく知っている死者の姿を、往来で見掛ける事があって。
声を掛けようとすると、彼らは煙みたいに消えてしまうんです。そんな事が何度もあったものだから、僕は気付きました──自分が死者を蘇らせる異能力者なのだという事に」
話が飛躍しすぎではないか、とは、担当した警官も婉曲に尋ねたそうだ。しかし山田は頭を振り、実際に自分は死者の「招喚」に成功したのだと主張した。
「厳密なやり方は分かりません。ただ今まで『死者』たちに会った時、僕は彼らの事を強く想っていた気がする。それをヒントに、僕は亡き母を招喚してみようと試みました。
最初、それは上手く出来ませんでした。けれど、繰り返すうちに──大学から帰る途中の道で、母が現れました。ええ、他に人通りはありませんでしたから、見間違いではありません。僕が『お母さん』と呼び掛けてみると、彼女は振り返って……何かを言ったようでした。けれど、僕にはそれを聞き取る事が出来なかった。次は叔父さんでした。やっぱり最初は上手く出来ず、何ヶ月も経った後で突然……今度はこの家の縁側に現れたんです。それもまたすぐに消えてしまいましたが、彼は確かに母と同様、何かを言ったんです!」
それだけでも本人は感動した、と言っていたが、聴いている方は正直に言って気味が悪かった。ありがちな心霊体験、といえばそれまでのようでもあるし、内務省異能特務課に相談しようにも情報が不十分すぎる。
ただ、それが山田自身の妄想に過ぎないとしたら、何故それを身に覚えのない人物が真に受け、剰え誘拐まで画策するというのか?
「その……異能力の事を、あなたは知人には話していますか?」
この分では誰彼構わず話しまくっているだろう、と思っていると、案の定その通りだった。谷間田の予想は、これによって大きく「知人による悪戯」に傾いた。
本当にそんな異能力があれば、彼の存在はもっと広く人口に膾炙しているに決まっている。武装探偵社もポートマフィアも、彼の調査を進めている事だろう。それが実際、気にも留められていないのだ。
「間もなく日付が変わります」
庭の方で警戒を行っている警官が、ちらりと振り返って言ってきた。
「気を抜くな、まだまだ夜はこれからだぞ」
谷間田は言いながら、自分が欠伸を零さぬよう気を付ける。山田はいよいよ落ち着かなく辺りに視線を彷徨わせ、両手を擦りながら貧乏揺すりを始める。夜明けまで眠らないつもりなのか、と苛立ちが募る。
──これで何も起こらなかったら、軍警こそいいお笑い種だ。
そう思った時、庭で警官の悲鳴が上がった。
「うわああっ!」
「どうした!?」
眠気が一瞬で雲散霧消した。谷間田は立ち上がり、「やっぱり来た」などと言いながら卒倒しかける山田に「そこを動かないで!」と叫ぶや否や、靴紐を結ぶのもそこそこに庭に跳び下りた。そして、
「………?」
そこに待っていた光景に、無意識に足が竦んでしまった。
異様だった。警官の一人が、血溜まりの中に突っ伏している。その背に、何やら文字のようなものが浮かび上がっていた。
悲鳴が上がってから、僅かに数秒。誰かが手ずから行った所業ではない。
「谷間田さん! あれ……あれをご覧下さい!」
先程自分に声を掛けてきた警官が、声を半ば裏返して叫んだ。
その指差す先、皆の視線の向かう先を見た谷間田は、金縛りに遭ったかのようにその場に動けなくなった。
塀の上に、最も高い所まで登った満月を背に何者かが立っていた。フード付きの黒外套の下、痩せた長身には綻びた包帯がぐるぐる巻きにされ、その上から谷間田には読めない舶来語と思しき文字列が滅多矢鱈に書き込まれている。そして、服からといい包帯からといい、もしくはその肉からといい、錆びた金属の鎖がじゃらじゃらと垂れ下がっていた。最早人間だったのかすら定かではない。
「異能力──『血の文字』」
フードを被った顔が持ち上げられ、そこから死人めいた灰色の肌と爛々と光る目が覗いた。蛇睨みに遭った蛙の如く硬直する前衛の警官数人に、赤い矢のようなものが放たれた。
一瞬、時が止まったように思われた。視界から彩度が失われ、一切がスローモーションになったように歪み、運動の軌跡が見える。
気付いた時には、赤い〝何か〟が狙った警官たちが庭土の上に倒れていた。
その俯した体の下から、酒を注いだような速さで血液が広がっていく。スーツの背中に、のたくったような読めない文字が浮き出た。
谷間田があっと思った時には、月に雲が掛かっていた。
一瞬闇が降りた瞬間、塀の上に佇む人影は忽然と消えている。
何処に行った、と見回そうとすると、今度は納屋の陰、月光の及ばない暗がりから声が響く。
「異能力──『巌窟王』」
「発砲を許可する! 総員撃てーっ!」
我に返った谷間田は叫び、自身も拳銃を抜いた。声のする方向に向かい、無数の弾丸が飛ぶ。それと擦れ違うように、暗がりから大量の光が押し寄せる。それは、膨大な金貨や金塊の山だった。
面食らったように発砲を止める前列の警官たちを、黄金の山が呑み込んだ。数瞬遅れて、彼らの撃った弾がからからと何かに当たり、弾かれた音がする。
やったか、と谷間田が思うや否や、
「異能力──『鉄仮面』」
背後──縁側から声。低く、狭い場所で反響するような声だ、と思いながら振り返ると、そこに先程の影法師と同じような姿があった。しかし、その顔は無骨な兜めいた仮面に覆われ、額に当たる位置に焼けたような痕が幾つか見られた。
腕利きの警官たちが暗がりの中、勘だけで頭部を正確に狙い撃った弾が、全て止められている。
しかし……それでは暗がりには、先程二人の人物が居たという事か?
「信じられん……何人の異能力者が来ているんだ!?」
誰かがそう呟いた。
銃声が届いたらしく、表を見張っていた警官たちが駆けつけて来る。
「谷間田警部補! 曲者が現れましたか!」
「迂闊に近づくな! 射程ぎりぎりから、よく狙って撃つんだ!」
下手に混戦状態になれば、仲間が誤射される危険もある。谷間田は、縁側まで進んだ敵が、いつ身を翻して屋内に居る山田を狙うのかと戦々恐々していた。彼が自主的に逃げていればいいが、と思ってから、そうなると却って自分たちだけでは守りにくくなるかと考え直す。
その時点で谷間田は、ごく自然に自分たちが全滅する可能性について考え始めていたのだった。
「異能力──『噫無情』」
鉄仮面が解除された。そこから現れたのは、最初に塀の上に現れたのと同様、窶れた灰色の顔。その足元から影が膨れ上がって広がり、そこから湧き出した、本人に似た無数の影法師が幽霊の如く警官たちにまとわりつく。
戦慄した。この異能力者は、たった一人で性質の異なる異能を無数に使用する事が出来るというのか。
「最早、我々の手には負えん……!」
谷間田は、まだ五体満足で立っている部下の一人を呼んだ。
「異能特務課に連絡を取れ! 参事官補佐に繋いで、現状を報告するんだ!」
「内務省に? 応援を呼ぶのなら──」
「いいから早くしろ! あの人なら、安吾さんならそれで察してくれる」
「は、はいっ!」
一喝すると、部下は背筋を伸ばして忙しなく駆け去って行った。
本物の異能力者を相手にしたら、如何に軍警とはいえこちらは素人同然だ。それでも、数ではこちらが上である事は間違いない。時間を稼ぎ、駆けつける彼らに繋ぐ事くらいは出来るのではないか。
次の瞬間、影法師が動いていた。現れた亡者たちが味方の警官を拘束し、嘆きの声を上げ続ける合間を縫い、谷間田に迫って来る。殆ど、神速と言っても過言ではない速さだった。
ざらつく包帯を巻いた、骨張った手で喉を掴まれ、心臓が止まるかと思った。
「問おう……『魔界転生』なる能力の持ち主は、この家の中か?」
「き、貴様……まさか、本当に……?」
「我が問いに答えよ。『魔界転生』を持つ異能力者は、山田風太郎はこの中か」
「あ、ああ……それが分かって、貴様もここに来たんだろう? だけど、ここから先には……!?」
谷間田の声が、途中で中断した。
襲撃者の手に力が込められ、気道が握り潰される。息が出来ない。
「ならば、死ね」
「谷間田さん!」通話を終えた警官が、横から敵を狙った。「今助けます!」
「馬鹿野郎……声掛けたら、気付かれちまうだろうが」
言ったつもりだったが、声は喉で押し留められ、微かな空気の漏出音だけが口から滑り出た。しかし、部下が叫んだのも分からないではない。角度が悪ければ、銃弾は敵を貫通して谷間田にも当たってしまうか、最悪の場合はこちらを直接射殺する可能性もあった。
部下の拳銃が火を噴いた。弾は絶妙な射角で敵に飛ぶ。鉄仮面が具現化される時間はない。
仕留めたかのように思われたが、そうは行かなかった。
影法師は、谷間田諸共地面に倒れ込むように前方に身を傾倒させてきた。こちらの背中が地面に激突する寸前、不可視の撥条でもそこにあるかの如く跳ね起きた敵の後頭部を、銃弾は掠めて抜けていく。
「小賢しい真似を……」
影法師は呟くと、姿勢を低くし、二発目を放とうとした部下の懐に滑り込んで手刀を振るう。鳩尾を痛撃された彼の口から血が噴き出し、目が涙に輝き、やがてどさりと倒れて動かなくなった。
凄まじい反射神経と身体能力だった。最初に警官たちが敵を複数だと認識した事には相手の移動の速さも理由にあったのだが、これは異能力とはまた異なる、物理的な運動らしい。この影法師は、純粋に戦闘向きに特化された存在だ。それは専門的な訓練を受けた事によるものか、或いは──。
(こいつが戦ってきた時間が、俺たちとは比べ物にならない程長いのか)
谷間田がそう思うや否や、影法師が振り向いた。
亡者たちに拘束され、絶え間なく苦痛を与えられる警官たちの密集している箇所に向かって、両手を突き出して唱える。
「異能力──『暗黒星』」
影法師の掌に、黒点が出現した。それは球状に渦を巻き、黒々と明るく──というのもおかしな表現だが、実際そうとしか表白しようがなかったのだ──光りながら膨張する。
「遍くを呑み尽くせ……そして、私に整合をもたらせ」
──放たれれば、場の全員が消し去られる。
直感的に、谷間田はそう悟った。逃げろ、と指示を出そうとするが、自由を奪われた警官たちにそれに従う事は不可能だ。それに自分の喉も、先程絞め上げられた事で半分潰れたように塞がり、十分な声量は出てくれない。
万事休すと思われた時だった。
「『人間失格』」
突如、闇の中から伸びた指先が、影法師の作り出していた黒い球体に触れた。球体は一瞬眩しく光り輝き、やがて弾けるように消える。
谷間田は、いつの間にか影法師の横に現れていた男に目を見開いた。
「武装探偵社……」
「やれやれ、安吾に言われて来てみれば」
天然なのかパーマなのか縮れた髪に、砂色のコート。その袖から覗く腕には、影法師と同様包帯がきつく巻かれている。武装探偵社員──太宰治は、異能力を無効化した指先で、影法師の突き出した指先を軽く握っていた。
「……貴様も異能力者か」影法師が低く唸る。
「はい、おしまい。私がこうしている限り、君がどんな能力を持っていたとしても使えないよ」
太宰は、相手が複数の異能力を使うイレギュラーな能力者だという事を既に知らされているようだった。飄々とした口調で、あくまで軽く摘まんでいるようでありながら、その指先に尋常でない力が込められている事は影法師が咄嗟に動けなくなっている事からもはっきりと分かった。
「……やむを得まい」
「分かれば宜しい。それじゃあ──」
一時的に完全に沈黙させる為か、太宰の左手が拳を作った。それが脇腹に叩き込まれようとした時、
「山田風太郎の確保は、また次の機会になりそうだな」
言いつつ、影法師が身を捻った。右足を振り抜き、自分の指先を掴んだ太宰の腕にそれを叩きつけようとする。
「おっ」彼の手が、影法師から離れた。
相手は拳を太宰の顔面に突き出し、彼が素早く首を逸らした隙にすっと引く。影法師はそれ以上の攻撃を行おうとはせず、例の瞬間移動と見紛う速度で跳躍して隣の塀に移動した。
「いずれ貴様らとも改めて見える事になろう。私の疑心が整合される時、あらゆる異質なものは無惨同盟の秩序によって調和される」
謎めいた言葉を残し、襲撃者は姿を消す。
その途端、谷間田の上にどっと疲労が伸し掛かってきた。
「あーあ、逃げられちゃったか」
太宰はやる気のなさそうなトーンで言った後、「さて」と声色を変える。
「無惨同盟……やはり、今の包帯無駄遣い男は奴だったか」