僕の、お気に入り
「――ちょっと待て」
そう言わなくても僕が許可するまでずっとそこで待っているのだけれど。僕のために手足となって動く組織の長である男。
僕が十代のときに留学先で見つけ、拾ってきた。だからそこそこ長い付き合いになる。いくつになるのか知らないが、もうおっさんじゃないだろうか。仕事は確実にこなすので、年がどうであろうとかまわないし、見た目がぜんぜん変わらないのでよくわからない。
今日の報告書を受け取ってながめたら、妙な記述があって僕はめずらしく焦った。なに、どういうこと。
「……エルネストが、犬を飼い始めたってあるんだけど……?」
「ええ、イネスっていう名前をつけたようです。一歳の雌のキャセルとのことで」
「なんだって、また。どうやって」
かぶせ気味に聞いてしまった。男は少しおもしろそうな表情で、「ソノコが、飼ってみたらどうかと助言したみたいです。レアが犬好きなので」と述べた。ちょっと待て。
「ええっと。それってさ……」
「惚れたみたいですね、レアに」
……よりによって、うちの工作員にか! ――エルネスト。君はとても優秀な人材だけれど、想定通り女性関連問題にはめっきり弱いようだね。優秀ではあるが外面が良いだけの女に引っかかるなんて。
レアは、僕の手足の中ではまれなことに出自がしっかりしている成員だ。そのままの人生を歩んで行けていたなら十分幸せになっただろう。が、あるとき僕が勧誘して、僕の肢体の一部となった。切り落とすつもりはないし、挿げ替えるつもりもない。
ため息がとめどなく出る。あいつにはそろそろ『適当』な嫁を見繕おうと思っていたのに。レアは、ふさわしくない。話がややこしくなった。
「で……どうなの」
「どう、とは?」
「犬。だいじょうぶそう? ……エルネストは」
男はふっと笑った。
「ええ、心配ないっすよ。『犬じゃなくて家族』とか言ってる」
そうか、と僕は報告書を火を入れ始めたばかりの暖炉にくべた。それを合図に男は消える。今年の冬は長くなりそうな気がした。
エルネストは、僕にあてがわれた最初の『友人』のうちの一人だ。初めて会ったのは、たぶん二歳くらいのとき。三歳年上のあっちは幼稚園に通っていた。僕はもちろん民間の施設に行くことなんかできないし、小さいころの数年はものすごく大きなもので、幼稚園という巨大組織に所属する自分よりもすごく年長の子どもという、とにかくすごいという感想を覚えている。
文字を読むこともできていたし、お絵描きも得意なのだという。すごい。僕はときどき、動物の絵を描いてもらった。動物園に行ったことがなかったから。
成長するにつれ、エルネストが少々どんくさくて、大いに真っ直ぐで、愛すべき人物だと気づいた。僕自身は彼のようにはなれなくて、だからまぶしくも感じた。彼がそのまま彼のようであるように、道を整えてやろうと思ったのはわりと早い段階だったと思う。彼は僕のお気に入りになった。なので、彼の心に深い傷を残してしまった出来事については、僕なりに反省して後悔もしているんだ。
僕が四歳。エルネストは七歳。小学校へ通うようになっていたエルネストは、以前ほど僕の元を訪れなくなっていた。仕方がないことだけれど。それでも僕は、自分の立場が周囲と違うことに気づき、大きくなってもエルネストと同じように学校に通うことも許されないと知って、とても孤独を感じていた。だから、学校帰りに僕を訪ねてくる彼によくやつあたりをしていたものだ。忘れたい黒歴史だよ。
あるとき、エルネストは許してくれると知っていたから、駄々をこねた。王宮の外へ出たい、動物園へ行ってみたい、エルネストと行きたい、と。
それもこれも、エルネストが学校の写生会で動物園に行ったなんて僕に言うから。僕は写真と彼の絵を通してしか象を見たことがないのに、本物を見てきたなんて言うから。めったにわがままなんて言わない子どもだったから、周囲はびっくりしてお膳立てしてくれた。しかも、エルネストが学校で行ったみたいにしたいって言ったから、貸し切りとかにしないでさ。一般人にまぎれて行くことになったの。かわいい盛りの愛らしい王子のおねだりに、父さんを始めいろいろな人たちがまなじりを下げて場を用意してくれたんだよ。
びっくりしたし、怖かった。人間以外の動物っていったら、王宮に住み着いてる猫とか、鳥くらいしか見たことはなかった。他国から父さんに貢物としてきたでっかい鳥は知っているけど、温室で飼われていて遠くからしか見たことがなかったし。僕はエルネストと手をつないで園内を見て回った。彼はお兄さんぶって、いろいろ解説してくれた。
園のはずれのあたりに、ふれあい広場みたいなところがあってさ。あれ、まだあるのかな。近所の人たちが、散歩で隣を通り過ぎたり見物できたりする構造になっていた。ヤギがいたんだ。餌をあげることができたんだけど、僕は怖くてやらなくていいって言った。ほかの人があげるのを見ていたら、突然エルネストとつないでない方の右手を引っ張られたんだ。
僕が右手に持っていた、動物園のチラシを食べていたんだよ! ヤギが! びっくりして、あろうことか泣いちゃってさ、僕。ギャン泣きっていうの? 四歳だよ、自分より大きく見える動物が自分の手から、餌じゃないものをむしゃむしゃしてるとか、怖いに決まってるじゃん。
今思うと手を離せばいいのにさ、僕もエルネストもそんなこと考えられなかった。食べられているチラシを取り返そうといっしょうけんめい引っぱった。ちょっとだけ離れて様子を見ていた侍従がやってきて、「手を放してください!」って言ってたんだけど、二人で恐慌状態。けっきょく、まあ最後まで食べられちゃって。僕、本気で悲しくなっちゃって。
泣いて泣いて手がつけられない状況で。周りは「あーあ、しかたがないねえ、ぼく。またもらっておいでよー」とか声かけてくれて。こっちは本気で泣いてるのにさ。みんな微笑ましい感じで。で、そのとき。
わんっ、て一声が聞こえた。次の瞬間には僕たちの前に、でっかい犬がいた。たぶん、外側の散歩道を歩いていた犬なんだと思う。僕の頭くらいの高さの柵を飛び越えてやってきたみたいで。硬直した。僕もエルネストも。そいつは泣いている僕が気になるみたいで、僕に照準を合わせていた。侍従が「こら!」って言って追い払おうとしたけれど、めちゃくちゃしっぽを振って飛びかかろうとして、実際そうした。僕は、エルネストにぎゅって抱きしめられていた。ひっしに、七歳の彼はひっしに、僕をかばっていた。
だから、飛びかかられたのはエルネスト。めっちゃなめられてたし、のしかかられてたし、遠くで「すみませーん、ごめんなさーい! うちの子がー!」と飼い主らしい女性の声が聞こえた。僕は涙なんてひっこんでいた。
侍従が犬を引きはがしてくれた。たぶんそんなに長いことくっつかれていたわけじゃないけど、エルネストはすごく震えていて、僕を離さなかった。たぶん僕どころか彼の体よりも大きい犬だったし、怖くないわけがない。
「でんか、だいじょぶですか、でんか」
そう言いながら、泣きそうになっていた。いや、ちょっと泣いていた。僕が「だいじょうぶ」と言うと、ぐずぐず言いながらわっと泣いた。僕はびっくりして、安心して、いっしょにわっと泣いた。
「なつかしいなあ、もう二十年も前の話なのか」
動物園は、それ以来行っていない。なんとなく。エルネストはすっかり犬嫌いに、というか、犬恐怖症になってしまった。僕のわがままにつきあわせてしまったせいで、彼に余計な弱点を作ってしまった。反省。犬を飼うことを勧めたのはソノコなのだという。僕の『友人』はなかなかいい仕事をするな。エルネストのことを知っている人間なら、思いつきもしない荒療治だ。それを決心させたのは、レアの存在。恋は偉大だ。さてどうしようか。
「君の幸せを願っているよ。エルネスト」
小さな身を挺して僕を守ってくれたあのときから。僕の、お気に入りの君。





