第三十一話 とある夢魔の追憶
腹の傷を抑えながら森の中を歩く。
呼吸も絶え絶えに、片脚を引きずりながらも歩き続ける。
「はぁ……、はぁ……。ふう……」
小さな洞窟を見つけるとその中に身を潜め、ようやく息を落ち着かせる。
大勢は決した。自分達の守護者は破れ、戦線は完全に崩壊した。自分達の世界も今頃、そこに住む者たちごと全て崩れ落ちた頃合いだろう。
絶望し、その場で自害する者もいる一方で、降伏し隷属を申し出る者もいた。だが、それを責める者はいなかった。そうしなければ生き残れなかったからだ。
自分は……、その気にはなれなかった。散っていた同胞たちに対する申し訳なさもあったが、なにより否応なく命を奪われなければならなかったこの世界の者たちに、散々奪う側であった自分が許されるはずもないと思ったからだ。
「もはや帰る場所もなく、行く当てもない……か」
天を仰ぐ。
当然、洞穴の中だから空が見えるはずもない。それでもありし日の故郷で見た夜空と、そこに浮かんだ星々を思い出す。それ以外に自分を癒す術はなかった。
「随分と見つかるのが早い……」
足音が聞こえる。恐らくは残党狩りだろう。
武器を出す余裕もない。出血を無理やり魔法で抑えているのも限界だ。
「ままならないものですね……。浸る時間すら与えられないとは……」
まあ仕方ない。せめて自分を殺す者の顔くらいはきちんと拝んでおいてやろう。そこにあるのは仲間を殺された憎しみか、または敗残兵に向ける憐れみか。
なんにせよ受けて心地の良いものではないだろう。
だがそれでいい。自分なんぞに向けられる感情は、そのようなものであるべきだ。
「ああ? なんだこれは……?」
しかし、どれも違った。目の前に立った人間の男がしていたのは、これでもかというほどの仏教面で。
そして、彼が面倒臭そうに発した言葉は予想だにしないものだった。
「まったく……、酷い傷だ。よく生きてるな。どれ、診せてみろ」
「は?」
思わず声が出た。そんなことを言われるのはおかしいと思ったからだ。
「貴方、自分が何を言っているか分かってらっしゃるんです? 私、魔族ですよ? 敵だったんですよ? 貴方達の」
「知るか馬鹿。第一、もう戦争は終わってるんだろう? なら診せろ。治療させろ。大人しくしろ」
男の態度は他人を治療するというにはあまりにも傲慢で。
口に咥えていた煙草を地面に落し、足で踏み消すと目の前にしゃがみ、勝手に傷を診始める。
「え、ええ……。一体何なんですか、貴方……」
「医者だよ。見て分かるだろ」
「分かんないです。だってたばこ咥えてましたし、顔怖いし……ぃっ!?」
「顔怖いは余計だ」
拳骨で殴られた。痛い、ものすごく痛い。というか酷い。
仕方がないだろう。無造作な髪や、無精髭を蓄えたその顔はとてもじゃないが医者に見えない。
「横暴だー!! というか医者が殴りますか普通!? 傷を治すのか傷をつけるのかはっきりしてくださいよ!?」
「んじゃ治す。だからジッとしてろよ」
などと言って、勝手に治療を始めた。
なるほど手際はいい。ヤブということはなさそうだった。納得はいかなかったが。
「むむ……。あー、もう……。わかりました。煮るなり焼くなり好きにしてください。どうせ処遇は最後に見つけた人に任せる予定でしたから」
「それでいい」
助けてもらえるだなんて思っていなかったけれど。でも、それは口に出さずに秘めておく。また面倒なことになりかねない。
「そうだ」
腹に包帯を巻き終わる頃、医者がぽつりと口にする。お金の問題なら勘弁してほしかった。そもそも命からがら逃げだしてきたから何も持っていないのだ。異空間にしまい込んだ武器と、後は体くらいしかない。
だが、とりあえず返事くらいはすることにした。
「なんでしょう?」
「名前、まだ聞いていなかったな」
名前。本来ならばすぐ答えるべきなのだろうが。
「必要ですかね?」
「必要だろう。魔族とか女とか、そういう風に呼ぶのもな」
「ふむ。まあ、男にもなれますけど。見てみま……すっ!? また殴った!?」
「ややこしい方に話をもってこうとするからだ。で、名前は?」
正直に言うとあまり言いたくはなかった。別に、殴られたからとかではない。ただ、自分の名前が嫌いだっただけだ。
仲間のためにと思って武器を取った手も、散々血に濡れて。幸あれと名付けられた自分の名前は、敵から恐れられるものになってしまった。その名を好ましく呼んでくれた友の姿も、もうない。残ったのは不名誉な面だけ。
そんなものをどうして自分自身が愛することが出来るのだろう?
しかし、治療してもらった恩というものがある。
「……マルヴァス」
「そうか」
返って来たのはたった一言。他には何もない。恐れられることもない。
単純にこの男が知らないだけかもしれない。それでも少しばかり気になった。
「……それだけです?」
「それだけだが?」
「もっとこう、あるでしょう?」
「なんだ褒められたいのか。随分と余裕あるじゃないか」
「はあ? 何を言ってるんですか? そんなわけっ……」
余裕なんてあるわけなかった。それどころか、無残に殺されてもいいなんて思っていた。
だがこの男と話しているうちに、そんな感情は消えていた。まったくといっていいほど、くだらないやりとりしていたせいだろうか?
それに戸惑っていると、男が不敵な笑みを浮かべた。
「何を笑っているんです……?」
「さて、な」
「ずるいですね」
「何がだ、何が」
「名前。自分だけ聞いて、自分だけ笑ってる」
「聞けばいいじゃないか」
「教えてくれるんですか?」
「必要ならな」
「必要です」
「ふっ……」
「何でまた笑ったんです!?」
調子が狂う。この男と話していると、何もかもが阿保らしくなる。
自分に対する嫌悪感も、全て頭の隅に蹴飛ばされていくかのようだ。
「いや、オレの名を知る必要があるということは、少なくとも生きる気力はあるという事だからな。ないなら聞かないだろう?」
「わかりませんよ? 聞いた後死ぬかも」
「死ぬような顔はもうしとらん」
「こんのっ……。はぁ……、いいからさっさと教えてくださいよ。はーやーくー」
何もかも見透かされてしまっているようで、それに無性に腹が立ち、少々大人げない態度を取ってしまう。
また拳骨を喰らったら、今度は返してやろう。傷が癒えた後に、先程喰らった分とまとめて。
「子供か。いいか、ちゃんと聞いておけよ。オレの名前は――」
─────────
「……さん!! ……マルヴァスさん!! 起きてくださいまし!!」
目を開けると、目の前にクローディアの泣きそうな顔が見える。
どうやら眠っていたらしい、大木の根元から立ち上がる。
「ん、ああ……。大丈夫だ」
「良かった、一時はどうなることかと……。急に倒れなさるんですもの……」
「薬を作るために徹夜続きだったのが良くなかったな……。数日は問題なく耐えられるんだが、さすがに二週間丸々睡眠無しはきつかったか……」
「にしゅっ……!?」
近くで見守っていたレドが目を丸くしていた。まあ、当然の反応だろう。
「むしろ今の短い時間で回復できるの、さすが夢魔って感じだ……。普通なら死ぬよ」
自分が倒れている間、見張りをこなしてくれていたであろうリノラが戻って来る。抜かれていた剣を鞘に納めた。
「大丈夫なんですの……?」
出そうになった欠伸を噛み殺していると、クローディアが心配そうに声をかけてくる。
「そうだな、少なくとも完全ではない。もう少ししたら、どうせ時間も出来るだろうから、その時に休ませてもらえると助かる」
「それっていったい……?」
「まあ、行けば分かるさ。ああ、それと……」
少しばかり、ばつが悪くなって目を逸らす。
すると、逸らした先に居たカーバンクルがひょい、と肩に乗ってきた。鼻で頬を急かすように突かれると、その先の言葉を口にする。
「すまない、迷惑をかけた。少し昔の夢を見ていてな」
「それはかまいませんけれど……」
「どんな夢を見ていたんです?」
レドが尋ねてきた。単純に興味本位だろう。
拒む理由も特にないので正直に答える。苦笑しつつにはなったが。
「師と出会った時のだな。夢見が悪いとはこのことだ、まったく」
「お師匠さんとの夢なのに? 一体どんなヒトだったのさ」
リノラが怪訝そうな顔をしていた。
どんな、と聞かれれば自然と彼の欠点ばかりが思い浮かんでしまって。
「最悪だぞ。陰険で、不愛想で、とんでもなくだらしない。おまけに医者のくせに酒もガバガバ飲むし、煙草も大量に吸う」
「相当の言われようだねぇ……。酒の部分はボクも否定できないけど」
「まあ、良いところも無かったわけではないさ。態度が悪い割に、面倒見自体は良かったんだ。子供達には良く好かれていたな。一緒に各地を旅をして、色んなことを学ばせてもらっていたよ。医者としての師であり、親代わりの様なものであり、そして――」
昔を懐かしむように、口を動かしていく。
だからこそなのだろう。胸の内にずっとため込んでいたものが、自然と口から出てしまったのは。
「――オレが一番最初に、救えなかったヒトでもある」
「それは……」
「すいません、気軽に聞いてしまって……」
クローディアとレドが表情を曇らせる。それにはっとして自らの口を塞ぐ。余りにも遅かったが。
少しばかり咳ばらいをしてから、手の内で笑みを作る。
「……ま、随分前の話だ。どうせその時助かっていても、今頃生きてはいないさ」
その言葉は果たして誰を慰めるためのものだったのか。
仲間たちに背を向けて、先へと進み出す。
「それより、そろそろ行くぞ。暗くなるより先に、野営できる場所に辿り着かなければならんしな」
「あ、ちょっと!! まったくもう……、そもそも貴方が急に倒れるから……。いえ、こういう時は口を慎むべきですわね。倒れたくて倒れたわけじゃないのですし……」
そんなクローディアの言葉に、失礼ながらも吹き出しそうになった。
竜の……、本来であれば強大な存在の癖して、あまりにもヒトに寄り添う姿勢の彼女に、取り繕うために作った笑みが本物へと変わってしまう。
「すまない。次からこのようなことがないように気を付ける」
腰に下げた鞄から、棒付きのキャンディーを取り出して口に咥える。師の真似をしようとして、思い切り煙草の煙を吸い込んで咳き込み、笑われたあの時の事を思い出しながら。
「さて、少しでも貴方のようになれていればよいのだが」
師が生きた年月よりも、多くの時を過ごしてきた。だというのに、まだちっとも彼に追い付けた気がしない。それにほんの少しばかりの悔しさと、大きな誇りを感じながら歩いていく。
今はまだそれで良い、と思う。
腕も精神も、まだま未熟で、しかしだからこそ先を目指すための熱がある。
例え背中は見えなくとも、私は貴方をまだ追いかけていたいのだ。