第九章)最後の魔王 淫魔の女王
▪️魔王軍の襲来⑩
阿修羅の号令により、再び鬼の軍勢が動き出す。
「守護系魔法・南風の息吹」
リリィロッシュが高らかに宣言するのは、風の加護。
普段、無詠唱で行使する速力増加の魔法を正式に唱えたものだ。
「ガァァァっ!」
「まったくもって遅いですね。走れ、冷厳凍土の王者! 氷雪系魔法・魔狼の疾走!」
唸る大鬼の斧を大きくかわし、狼を模した氷の魔弾を叩き込む。
三体の大鬼が、氷狼に喉を食らいつかれ、瞬く間に氷の塊となって砕け散る。
「ぢぃぃっ、小賢しいわ!」
「甘いです。吹き上がれ大地の脈動! 炎熱系魔法・紅き御柱!」
氷狼の牙を逃れた別の大鬼が、太い棍棒を投擲しようと構えているところへ、溶岩の柱を生やし、周囲ごと燃やし尽くす。
「喰らえぃ。火炎系魔法・豪火球」
「流転せよ! 烈風系魔法・嵐旋風壁!!」
人喰い鬼が放つ火球をリリィロッシュの周囲に展開した竜巻が取込み、そのまま人喰い鬼へと投げ返す。
先程まで苦戦していた相手を、こうも一方的にあしらうことが出来るのには、無論理由がある。
単純に魔法のレベルを上げたのだ。
一対数百という戦力差を考慮し、長期戦を見越して第二位階の魔法をメインに使っていた先程までとは違い、今は第四位階はおろか、第五位階の魔法をばらまくように使っている。
出力で押し勝つ。
それがリリィロッシュの選択だった。
「殺ったぁっ!」
一際小柄な人喰い鬼が、リリィロッシュの頭上で叫ぶ。
先程放った竜巻の陰に隠れ、他の大鬼に放り投げられたのだ。
頭上からの奇襲。
その手には大刀が握られ、今にも振り下ろさんと構えている。
「駆けろ! 〈黒桜昇狼〉!」
リリィロッシュがただの魔法使いだったならこれで終わりだったろう。
だが、彼女の本分は技巧派の大剣使いなのだ。
魔杖・黒桜昇狼を振り抜く。
普段は杖として使っているが、その実は、風の加護を受けた黒桜から削りだした木刀である。
刃などない、ただの木であるはずのそれは、魔力を通すことで発生する真空の刃とリリィロッシュの神速の太刀筋が合わさることで、どれほどの名刀にも勝る太刀と化すのだ。
リリィロッシュの駆けろの声に反応し、柄尻の狼頭が目を覚ます。
瞳の宝玉が怪しい光を放ったかと思うと、刀身を中心に凄まじい風が宿る。
リリィロッシュは、吹き荒れる暴風をそのままに、頭上の人喰い鬼へとそれを叩き込み、粉微塵へと変えた。
「予想以上の使い手だな」
それまで様子を伺っていた阿修羅が言葉を発する。
「だが、残念だ」
「きゃっ」
四つある腕の一つを軽く振るっただけだ。
風圧に軽く魔力を乗せただけ。
技でも、まして魔法でもない。
それでもその一撃でリリィロッシュは、吹き飛ばされた。
「凄まじいほどの技のキレ。だが、高威力の魔法の連発は不味かったな。結局我らを倒しきれずに、この程度の攻撃をさばくだけの魔力も残っていない。人間としては驚嘆すべきものだが、これで終わりだな」
阿修羅が近づく。
賛辞を送るとともに、最早これまでと幕引きにかかる。
だが、
「あら? 私が人間だなんていつ言いました?」
リリィロッシュの姿が揺らめく。
耳はツンと尖り、その背からはコウモリのような羽根が生え、腰からは触手のような尾が現れる。
そして、まるで湯気か霞のように周囲が揺らめいたかと思うと、纏っていた衣服までもが変質し始める。
内に纏う軽鎧を隠すように羽織っていた漆黒のマントが、かつての親友から譲り受けた軽鎧が、厚皮を鞣した漆黒のブーツが溶ける。
正確には、その姿を保てなくなり、まさに変質する。
揺らめき、肌をつたい、そして軽やかに流れ落ちる。
首筋から胸元を覆うようにしたハイネックドレス。
腰周りや大胆に開けたスリットは、ほとんど素肌と変わらぬほどに薄い闇の絹に覆われている。
一瞬の後、そこに現れたのは、煽情的な吐息を吐き、穢れを知らぬ幼女の瞳で淫らに喘ぐ娼婦の視線を流す、妖女。
魔族だろうが人間であろうが、男ならば百人いて百人が想像するだろうほどに“それ”らしい、淫魔の姿があった。
「ほう、淫魔の手合いだったか。まさか人間に化けて奴らに組みしているとはな。穢れ魔族の男好きも極まったものだが、……だから、どうした? 貴様の魔力切れまで幻術の偽りというわけではあるまい?」
その通りではある。
いかに正体を晒そうと実力の程が底上げさらる訳では無い。
正確には、幻術に使用していた分の魔力に余裕ができるのだが、そんなものは、リリィロッシュにとって呼吸程度の労力にも等しいものだと言えた。
「ええ、確かに。私の力はここが限界。最高位魔族の淫魔としては、落ちこぼれなのよ」
悪びれもせずにそう言う。
通常、強い魔族というのは、魔力溜りから発生した〈原種〉に限られる。
親を持つ〈派生種〉の魔族は、中程度の実力、具体的にはAランク中位程度までの力しか持ちえない。
ただ、何にでも例外というものがある。
そのひとつが、淫魔という種族だ。
彼女達は、上位者はSランクにも手が届く最高位種族。
数代前の魔王の時代には、側近として召し抱えられたこともある程なのだ。
だが、今はまだ、リリィロッシュはその域に達する事ができていない。
「今はまだ、ね」
そう言うと、なけなしの魔力を練り上げる。
魔法とは、世界に満ちる魔力を吸って吐き出す行為のことである。
精神エネルギーと生命エネルギーとの差分を外界から取り入れ、術式を固定して放つのだ。
そして、魔法を続けて使用すると、精神エネルギーが擦り切れ、魔法を使うことが出来なくなる。
それを一般に魔力が枯渇すると表現する。
今まさに、リリィロッシュは枯渇寸前ではなく、枯渇する所まで魔力を吐き出した。
「やぁぁぁっ!」
生み出した特大の魔力球。
魔法ですらない純粋な暴力の塊だが、阿修羅は、つまらなそうにそれをたたき落とす。
「足掻くな。晩節の足掻きは生き様を汚す。これで最期、諦めろ」
そう言ってその手に氷の槍を作り出す。
「足掻くな? いえ、足掻かせていただきます。これでも私、淫魔としては、落ちこぼれなのよ」
突き出された氷の槍が、褐色の肌を貫かんと触れたその瞬間、槍が消滅する。
「なっ……!」
後ろへ飛び退くのは仕掛けた阿修羅。
そして、先程まで氷の槍を持っていたその腕は、肘から先が無くなっている。
「ばかな! 何が起こった!?」
慌てふためく阿修羅たが、その様子をリリィロッシュが上方から見下ろす。
「ふふ、何が起きたんでしょう?」
リリィロッシュは、怪しげに微笑みを浮かべ、黒桜昇狼に腰掛けて宙に浮いていたのだ。
阿修羅が取り乱すのも無理はない。
自らの腕を消し飛ばされたことももちろんそうだが、そんなことよりも不可解なことがある。
つい今しがたまで魔力を使い果たし、まさに死に体の状態であったはずの相手が、魔力を使い宙に浮いているのだ。
「ふふ、何が起きたんでしょう?」
黒桜昇狼に腰掛け、優雅に宙を漂うリリィロッシュからは、つい数秒前までの、魔力が枯渇した様子は見られない。
それどころか、明らかに先程までよりも魔力に満ちているのだ。
「くぅ、叩き落とせ! 単眼鬼!」
阿修羅の悲鳴にも似た叫びに、六体の巨人が動き出す。
人の胴体ほどもの太さを持つ巨槍を振るう。
黒桜昇狼を操り軽やかにそれをかわすが、間髪入れずにほかの巨人が攻撃を繰り出す。
動きが鈍いように見える単眼鬼だが、立派に高位魔族なのである。
その巨槍に炎や氷の魔力を宿し、体勢を崩したリリィロッシュに必殺の一撃を繰り出す。
「とろけなさい」
しかし、リリィロッシュのその一言で、単眼鬼の動きが止まる。
「なぁっ!?」
呆気に取られる阿修羅をよそに、リリィロッシュもまた嘆息を吐く。
「はぁ、さすがに生まれたての能力ではこの程度ですか。……まぁいいでしょう。花弁よ舞い踊れ。火炎系魔法・彼岸花の舞踏」
紅く、大きく、鮮やかに開かれる幾多の花弁。
炎の大輪が咲き誇る。
六つの彼岸花が辺りを朱に染め、花柄たる単眼鬼は、もはや細い炭と化し、屈強であった肉体はもはや見る影もない。
「ばかな……」
阿修羅も、唖然として炎の華に魅入っている。
それはありえない、あってはならない光景だった。
確かに高位の術者ではあっただろうし、高位魔族でもあった。
だが、どう見てもAランク程度の力量だった上に、完全に魔力も枯渇し、瀕死の体だったはずだ。
それが、突然の魔力の回復に加え、明らかに元よりも力が増しているのだ。
Aランクでも高位の単眼鬼を瞬殺する魔力。
それは、最高位のSランクに到達した証拠にほかならない。
確かに、永い修行を積めば力は上がる。
戦士であれば技量も筋力。
魔法使いであれば、知識と魔力。
だが、これは違う。
例え枯渇した魔力が回復したとしても、それは元に戻るだけ。
元よりも強力な力を得ることなど、出来るはずもない。
「何をした、貴様ぁぁっ!」
阿修羅が魔力弾を放つ。
目の前の異常を認めることなど出来ない。
そう言わんばかりの力任せの魔法だった。
ニタリ。
およそ気高くも妖艶なリリィロッシュに似つかわしくない笑みで口元をゆがめる。
助かった。
その安堵が見せた笑みだった。
「ふぅ、荒ぶる貴方の魔力。美味しかったわ」
破壊力だけで術式も何も無い無造作な魔弾。
リリィロッシュは、それを指先だけで絡め取り、まるで上等な水菓子を舐めとるようにして口に入れたのだ。
阿修羅は、顔を青ざめる。
理解した。
理解してしまった。
目の前の女が何をしたのかを。
「貴様、……喰ったのか。俺の魔力を喰ったのか」
「ええ。いただきましたよ?私の固有能力・致死の芳香で」
そう告げたのだ。
リリィロッシュの種族。
淫魔。
親から生まれる〈派生種〉の魔族であり、本来、高位魔族と言えど、その力はAランク上位に留まる。
しかし、数代前の魔王の時代。
最強の淫魔が生まれたことがある。
その力は、当時の四天王に並び、魔王の寵愛を一身に受けたという。
「致死の芳香、だと?」
「ええ。淫魔とは、他者の精を受けて自らの魔力に変える種族。そしていまの私は、一度身に受けた魔力を支配下に置く芳香を纏っています。精神のみならず、魔力そのものに対する絶対命令権。それが私の固有能力」
それがどれほどに異常なものか。
そもそも、魔力と他者の魔力とは、水と油の関係にある。
余程波長の合うもの同士ならばともかく、基本的に異なる魔力が混ざることは無い。
守護系魔法が他者に効きにくいのと同じである。
それを完全に支配下に置き、我がものとする異常。
既存の法則など塗り替える異能。
正しく固有能力のなせる技である。
そして、それはもうひとつの事柄を指し示す。
「固有能力を持つのは、最高位魔族でも本のひと握り。“王”階級の魔族だけだ。いかに淫魔といえど、そんなものが使えるはずが……」
「ええ。淫魔ならば、ね。でも淫魔は、ある条件の元、自らの殻を破ることが出来るの。例えば、魔力を枯渇させた状態で無理やり他者の魔力を飲みこむ、とかね」
「なっ!?」
そもそも、魔法とは膨らませた風船から空気を抜くことに似る。
外界から取り入れた空気を吐き出すのだ。
だが、魔力が枯渇すると風船は固まり、空気を取りえれられなくなる。
そこへ無理やり空気をねじ込むとどうなるか。
通常は風船は割れ、命に関わる致命傷となる。
だが、淫魔は、そこから先があるのだ。
成功率こそ低いが、殻を割り、新たな風船を得ることがある。
分の悪い賭けではあった。
だが、手札は揃っていたのだ。
枯渇した魔力。
そして、同種ばかりの敵。
強引にねじ込む魔力としては、都合がいい。
さらに、相手は自分のことを舐めてかかり、複雑な術式を使わなかった。
飲み込むに適した、単純な魔力だった。
そして、一番重要な点。
召喚された彼らは、メイダルゼーンの使い魔ではなかった。
主の魔力から作られた使い魔であれば、同じ“王”級であるメイダルゼーンの魔力を従えるなど、困難だった。
だが、彼らはメイダルゼーンを主としながらも、独立した個体として召喚されていたのだ。
ならば、奪える、従えれる。
上位魔族といえど、産まれたばかりの魔族など、固有能力の障害にはなりえなかったのだ。
「今の私は、淫魔ではなく、夢魔王女。かつて魔王の横にあった最強の魔族なの」
リリィロッシュが言い放つ。
進化。
リリィロッシュの変化は、まさしくそれだった。
枯渇した魔力の殻を破り、新たな生を受ける。
かつての“魔族の落ちこぼれ”が、最強の魔族となったのだ。
「くく。ふはははは。まいった。まいったよ。まさか“王”の力を得るとは。これで魔力は互角。しかもこちらの魔力は封じられているときた」
阿修羅が自嘲の笑いをうかべる。
その通りだ。
リリィロッシュの進化は、単なるパワーアップではない。
その本質は、淫魔の能力の延長であり、相手の全ての屈服である。
さすがにSランクの力を持つ阿修羅を相手に、魔力を乗せた言葉だけでの支配は出来ないが、放たれた魔法程度ならばその無力化は容易い。
「だが、我が剣の乱舞まで受けきれると思うな、女ぁっ!」
もはや結果はわかっていただろう。
その表情には、諦めにも似た虚勢があった。
四つ腕から繰り出される魔剣の連撃。
それは本来ならば、逃げることも受け切ることも出来ない、絶望そのもののはずだ。
だが、今の阿修羅は、腕をひとつ失った手負い。
その乱舞には乱れと隙がある。
そして何より、
「産まれたばかりの子供の剣が、魔剣士に届くと思うな!」
落ちこぼれの魔族として、数百年の時を剣の研鑽に費やしてきたのだ。
一瞬の間に繰り出される三連撃。
それを僅かに一刀で打ち払う。
黒桜昇狼にリリィロッシュの魔力が宿る。
致死の芳香の支配によって支配された阿修羅の魔力は、あっという間に霧散し、黒桜昇狼に吸収される。
「消えなさい」
黒桜昇狼に宿った魔力が開放される。
すくい上げるように天へと突き出された剣閃と共に、膨大な魔力が吹き荒れる。
巨大な魔力の奔流により、阿修羅の姿は塵となって掻き消された。




