第八章)混迷の世界へ 闇を喰らう虚無
▪️北夷大討伐戦⑪
「〈虚無系魔法〉、だと」
ムルムが体を硬直させる。
顔は青ざめ、黒いもやを払おうとする手が止まる。
「ば、馬鹿な! そんなもの、そんなもの、一人で扱い切れるはずがない!」
ムルムが吠える。
〈虚無系魔法〉とは、それほどに強力、凶悪なものなのだ。
魔法には、威力や難易度に基づく“位階”とは別に、明確な“格”が存在する。
単純な威力だけならば、使い手の技量やその地の特性、互いの相性など、様々な要素が絡み合う。
だが、そんな次元とは異なる、どうしても覆すことが難しい、絶対的な格が存在するのだ。
例えば、あらゆる魔法の基本となる精霊の四元素、火・水・土・風。
それらを操るのが属性魔法、または基礎魔法。
またの名を〈単元素魔法〉という。
火の火炎系魔法
水の水氷系魔法
土の大地系魔法
風の烈風系魔法
などだ。
その一段階上位にあるのが、二種以上の属性を混合させて用いる〈複合魔法〉。
火と土の炎熱系魔法
火と風の爆炎系魔法
水と土の自然系魔法
水と風の氷雪系魔法
が該当する。
三種以上混合する魔法もないでは無いが、基本的には、技術体系化されるような魔法ではなく、個人の秘匿技法に当たる。
探知などの生活魔法を除き、最低でも第三位階以上という高難度魔法であり、人間の世界では、〈複合魔法〉の術者は、それだけで冒険者にしろ騎士にしろ、一流と見なされる。
さらにその上位に当たるのが、ムルムが得意とする〈暗黒系魔法〉となる。
火、水、土、風の四属性とは、世界の構成する基礎であり根源。
つまりは、正の存在。
ただし、異なる魔力は互いに反発し合うため、通常は、“四属性の複合魔法”など存在しえない。
その例外の一つが、正から負へと“反転”する術式だ。
すなわち、“闇属性”である。
〈暗黒系魔法〉の特徴は、死への状態異常。
暗闇、猛毒、病魔、混乱、呪い、腐食、そして致死。
単純な攻撃力以外に、致命的な状態異常をもたらす、凶悪な魔法だ。
また、冷たい炎や重い風など、通常とは異なる追加効果をもたらす為、その対処も困難となる。
当然、〈単元素〉や二属性の〈複合魔法〉などよりも遥かに高い格を持ち、小国などでは、その使い手すら存在しないだろう程の高位魔法である。
一般に、魔法の最高位は、この〈暗黒系魔法〉だと言われており、俗に攻撃系の魔法を、“黒魔法”などと呼ぶのは、それが由来である。
だが、真実はそうではない。
魔法には、さらなる高みが存在する。
その一つが、この〈虚無系魔法〉である。
“呪文”ではなく、“技術”と呼ぶのには、理由がある。
これは、修行や鍛錬によって到達できるものとは、異なる次元の術式だからだ。
暗黒系魔法ですら、四属性の複合と反転という脅威の術。
虚無系魔法とは、その闇属性をベースとして、さらに四属性と無属性を複合させた、六属性複合魔法となる。
正も負も飲み込む、絶対的な虚無。
暗黒系魔法のような状態異常などの追加効果はないが必要ない。
全てを飲み込み消滅にするのだ。
実際、人間の世界で虚無系魔法が使用されたことなど、歴史上にも数える程にしか存在しない。
魔法大国とされる南国からして、秘匿級の技術であり、一般にはその存在すら眉唾物の伝説とされるほどだ。
いつしかの四校戦の折に、高位の生徒達によって再現されたが、それにしても、魔法陣や長文詠唱の補助をつけた上で、数人がかりの調整によりその一端が実現されたものだった。
「そんな! そんな馬鹿な!」
我に返ったムルムがもがく。
火炎系魔法を爆炎系魔法を、氷雪系魔法を、足元に向かって打ち込むが、黒いもやは、その全てを受け止める。
「ムルム。それじゃない、そうだろ?」
先程も投げかけた言葉だ。
即効性、威力。
様々な要素がある中で、選択する魔法は数あるはずだ。
だが、ムルムが使うべき魔法は、それではない。
そんなもので、虚無の格は崩されない。
「ふふふ……くはははは。まさに『魔王』だな。いいだろう。俺の最高の魔法で、必ずこいつを撃ち破ってやる」
その言葉に僅かに自嘲の笑みを見せ、そう言ったムルムは、既に落ち着きを取り戻している。
魔法使いにとって、伝説の〈虚無系魔法〉を相手にするなど、絶望でしかない。
だからこそ、最高位の格を持つ魔法を打開するには、自らの全身全霊を込めた一撃で、その格を打ち破らなければならないのだ。
ムルムのことを逃がすつもりは無い。
もはや、命を奪うと決めた相手だ。
だからこそ、その人生の中で積み重ねた自身そのものと言える一撃で、勝負を付ける。
「さあ、ムルム。お前自身の格を見せてみろ!」
「ほざけ、“魔帝”!」
そして、ムルムから一切の怒気を感じなくなり、代わりに静かで強大な魔力が立ち上る。
「蒼より出る炎龍と」
ムルムから、異常な程の魔力の高まりを感じる。
「紅より出る氷狼と」
その表情からは、決死の覚悟も必死の焦りも見られない。
「翠より出る鋼虎と」
あるのはただ、
「黄より出る風鳳を従え」
己の研鑽の果てを顕現させる魔法使いの矜恃のみ。
「我ここに宣言する。闇の主として、魂魄を刈り取る大いなる安息の力を振るわん! 暗黒系魔法・闇の光っ!」
それは極限まで凝縮された闇の光線。
ただただ、闇を放つ。
単純にして強力な魔法だ。
「ぬおぉぉぉっ!」
両手を足元に向け、黒のもやに向かって光線を放つ。
ムルムにとって、勝機はこのもやに、僅かでも揺らぎを生み出し、脱出することだけだ。
ムルムも気づいているだろうが、既にこちらも死に体だ。
やはりまだこの今の体に〈虚無系魔法〉は、荷が重かったらしい。
体内の魔力の流れはズタズタに引き裂かれ、こうして立っているだけでも本当は辛い。
もし、ムルムがこのもやから脱出することが出来たなら、こちらの負けだ。
闇の光線に押され、黒いもやが僅かに揺らめく。
だが、捕らえたムルムの足元はそのままに、形を変え、光線を包み込もうと這い上がる。
だが、光線も負けじとその出力を上げ、もやを吹き飛ばそうとする。
時間にして一分にも満たない僅かな時。
決着の時は訪れる。
「ぐっ、ぐぎっ、が……がぁぁぁぁっ!」
闇の魔力が霧散し、ムルムの腕が弾ける。
そもそもが、状態異常の効果を産むほどに“負”の力を持つ闇の魔法なのだ。
自分の限界を超えれば、魔法に食われることとなる。
ムルムは、敗れたのだ。
「終わりだね。ムルム」
ムルムの前に立つ。
恐るべき使い手だった。
無論、ムルムは嫌いだ。
だが、死力を尽くした彼に、もはや憎しみは持てない。
フラウなどの例外を除き、僕が今まで相対してきた魔法使いの中で、最も深き研鑽を積んだ、最も恐るべき好敵手。
ならば、僕にできるのは、安息の死を送ることだけだ。
「さよならだ」
闇のもやが、ムルムの体を包み始める。
闇夜を喰らう虚無。
あらゆる物質を飲み込み、虚無へと還元する。
苦痛も恐怖も産むことは無い。
ただ、安らかに消滅するだけだ。
「くそが。俺の“荒廃”が喰らい尽くせない虚無とはな。……“魔帝”。次は、俺が勝つ」
ムルムは、そう言い残し、この世界から消滅した。




