月桃
「うわっ、やっぱり暑いな」
僕はそう漏らして、ベランダからの景色を目に焼き付けた。
日に当たりキラキラしている白い砂浜、光を反射する青い海、そして、どこまでも高く伸びた青い空が僕を見下ろしていた。
南国の少しこもったような暑さを吹っ飛ばすようなこの景色が僕は好きだった。
少し前に梅雨明け宣言が出され、一足先に夏へと季節を変えたこの地は穏やかでありつつも少しだけ張りつめた空気をしていた。
『今日の最下位は、』
ふいに、テレビから占いが流れた。毎日何となく見ているものではあるが、今日に限って最下位は少しだけショックだった。いや、ここ最近、小さなミスや失敗で落ち込むことがある。
だからこそ、気分を変えるためにこの地にやってきたのだ。
「よし、今日も行くか」
僕は少しだけ気合を入れて、ホテルの部屋を出た。
夏休みよりも少しだけ早い時期だというのに、外は人でにぎわっていた。
旅行を楽しむ観光客、スーツ姿のサラリーマン、部活動の恰好をした部活生。すれ違う人々が違う格好、違う目的をもって同じ方向に歩き、道をたがえていく姿は趣深いような気がする。
僕がここにいるのは仕事でも観光でもない。学生でもないので、学校にも行かない。
目的は1つ、リフレッシュと人に会うためだ。
「でも、さすがに暑すぎだろ」
湿気を含んだ熱気が身体を包むというのは気分が良いものではない。
そこで、ふと大事なことを思い出した。人と会うのに何も手土産を用意していない。
まずい、これは社会人としてさすがにダメだ。なにか、手ごろなものはないだろうか。
「そうだ」
その場所には既に探していた人はいた。
そして、驚いた顔で僕を歓迎してくれた。
「急に来るからびっくりした」
木陰に招き入れて彼女はそう言った。
よく日に焼けた肌に赤い頬、赤みがかった髪に彫りのくっきりした顔立ちを見ると、彼女が地元民であるということがよくわかる。
「ごめん、2日前にこっちに来たんだ」
僕は彼女に会うためにここに来た。とはいえ、恋人同士というわけではないし、約束をしていたわけでもない。僕が会いたくて勝手に来ているだけにすぎない。
それでも彼女はこうして僕のことを歓迎してくれる。その懐の深さと優しさはなんだか心地よかった。
「それで、今日はどうしたの?」
少し幼い顔で彼女はそう言った。
「落ち込むことがあって、リフレッシュに来た」
「そっか」
彼女はそう言ってぼんやりと前に視線を向けた。目の前には青々と茂る畑と海が広がっていた。
生暖かい風が木々や髪を揺らす。
「落ち込んだか」
次に言葉を口にした彼女は切ないような悲しそうな、憂いを帯びた表情をしていた。それは、見た目よりもずいぶんと大人びていてアンバランスで、それなのに不思議な魅力を醸し出していて、僕は目をそらすことができなかった。
「そ、そうだ。これ、一緒に飲まない?」
ふと、目が合った瞬間僕はそう言った。
せっかく購入した手土産を渡さないのはさすがにダメだ。
「これは、コーラではないな。瓶でもない」
不思議そうに彼女は手元を見つめてそう言った。
「これはラムネだよ」
「なるほど。これがラムネか。見たこと無かったけどこれもシュワシュワするのか?」
「するよ、こうやって開けるんだ」
ビー玉を押し込んで開けてみせると彼女も真似をして開けた。
「うわっ、これ、振ったのか?」
押し込んだ拍子に液体があふれ出てしまったようだ。手に少しだけかかり驚いている。
「手がムチャムチャする。あ、でも、甘くておいしいな」
手の不快感はおいしさにより、忘れることができたのだろう。そのことに少し安堵しつつ僕も一口飲んだ。
パチパチと弾ける炭酸と甘みが心地よく、懐かしい気分になる。
「まあ、1番おいしいのは魚の目ん玉だな」
何の気なしに彼女はそう言った。
「魚の目玉ね。さすがにそれだけをここに持ってくるのはな。市場に魚はあっても目玉だけなんて売ってないだろ?あ、でもタコとかなら、」
「タコは嫌い。絶対に持ってこないでよ」
「好き嫌いしてたら大きくなれないし大人になってから後悔するぞ?」
「はあ?私はアンタよりもずっと年上だし?」
「はいはい。そういうことにしとくよ」
「信じてないな?」
こんな些細な言い争いでさえ、彼女との時間は心地よかった。
「あ、」
12時を差す鐘が流れた。途端に彼女は黙り込み、静かに目を閉じた。僕もそれに倣って目を閉じる。しばらくして目を開けると、彼女はまた、悲しそうな顔をしていた。
「なんで、悲しい顔をしてるの?」
僕は、疑問に思いそう訊いた。
彼女は首をゆっくりと振った。そして、
「悲しいことがあったからだよ」
そう言って悲しそうに笑った。
そして、言葉をつづけた。
「今日はね、特別な日、なんだよ」
「特別な日?」
「うん、そうだよ。でも、悲しいこともたくさんあった。いろんなものを失ったし、いろんなものを守りたかった。でも、できなかった」
彼女の小さな声は震えていた。
「辛いなら、忘れたらいいのに」
僕は呟いた。
「ううん、忘れられないし、忘れちゃいけないんだよ。覚えている人が少なくなっても、私は、この地は忘れちゃいけないんだよ」
決意を込めた瞳で彼女はそう言い切った。普段の彼女とは比べ物にならない位、その姿はカッコよかった。
「今日のお礼をしようね」
彼女はそう言って、小さな瓶を僕に渡した。とてもいい香りがする。
「サンニン、月桃の香油さ。心が落ち着くから、疲れたら使ったらいいよ。じゃあね」
大きな風が吹き。僕は思わず目を閉じた。目を開けるとそこに彼女はもういなくなってた。
「へえ、不思議な話ですね」
ホテルのバーでマスターはそう言った。
「本当に不思議な子なんですよ」
「もしかしたら、それは、いいえ。やめておきましょう」
マスターは言いかけてやめた。
「でも、今日は本当に特別な日、なんですよ」
マスターも悲しそうなそれでいて真剣な顔でそう言った。