ローズマリー
今朝は不思議な夢を見て目が覚めた。夢の内容はよく覚えていない。心が温かくなる夢を見た朝はいつも私は何故か泣いていた。
「結芽、どうしたの?」
母が心配そうに私の顔を覗いた。
「ううん、なんでもないよ」
心配をかけまいと私は笑顔でそう答えた。冬休みはもうすぐ終わる。休み期間が終わったら私は学校の寮へと戻らなければならない。
それまでは楽しく過ごす、そう決めたのだ。
「おばあちゃん、おはよう」
「おはよう。結芽は早起きだね」
着替えてから食卓に降り、祖母にそう声をかけると優しい顔でそう言った。祖父は畑の方に行っているらしい。
「朝ごはんできてるわよ」
ご飯を食べながらふと、この後の予定に考えをめぐらせる。今日は特別な日だ。母と買い物に行って、それから、一緒にお菓子を作る。
この日のために私はお菓子作りの本を読んで勉強してきた。
父のために可愛いケーキを作るんだ。
「結芽、落ち着いて食べなさい」
意気込んでいると母の笑い声が聞こえてきた。私も笑い返した。
去年の今日とは真逆の雰囲気が家の中を流れている。
支度を終えてから私とお母さんは家を出た。まずは、日用品を買ってからケーキの材料を買いに行く。
ウキウキしながら私はお店を目指して行った。
家に着くと早速スポンジ作りに取り掛かった。粉を丁寧に振るってから混ぜていく。
今日作るのはお父さんの好きなチョコレートケーキ。奮発して美味しそうなイチゴも用意した。
母は夕飯の用意をしながらチラチラとこちらを覗いている。普段、料理をしない私が奮闘する姿が少し面白いみたいだ。
焼き上がり完了の音とともにオーブンを開けるとふわりと甘い香りが漂ってきた。恐る恐る取り出すと、表面が少し焦げたスポンジが私のことを出迎えた。
「お母さん、」
私は思わず、助けを求めた。せっかく頑張ったのに、失敗したことが恥ずかしくなってしまった。
「大丈夫よ。表面を少し切ってから使いましょう。初めてにしてはよくできているわ」
母はそう言って優しく私の頭を撫でた。
「たくさん練習したらもっと上手に焼けるようになるわよ」
そう言いながら焦げた部分を切り取った。
デコレーションも母に手伝ってもらって作ったケーキは満足のいくものができた。
「結芽、上手くできたわね」
「美味そうなケーキだな」
祖父母はそう言って私のことをほめてくれた。
「お父さんは、褒めてくれるかな?」
目が覚めると、私はベッドの上で涙を流していた。
「今の夢、」
懐かしい夢を見ていた。確か、中学生の時の初めての冬休みの夢。初めてケーキを作って、
「お腹空いた」
盛大に私のお腹が鳴った。休み前の飲み会で飲みすぎてそれからそのまま寝てしまった。
前に買った栄養補給ゼリーを飲みながらスマホに目をやるとまる1日寝ていたことがわかった。友人たちからは、心配のメッセージが何件も入っていた。その1つ1つに返信をしつつ、ぼんやりとした頭で昔のことを考える。
パティシエを目指して、挫折して、結局中小企業の事務職に就職。
可もなく不可もなく、仕事に面白みを感じることも無く淡々と過ごす日々。いつからか、楽しく過ごすことを忘れてしまった。
「、、、ケーキ、食べたい」
不意に思ってしまった。ついでに、母の料理が無性に恋しくなった。
「もしもし、お母さん?」
久しぶりに聞いた母の声には嬉しさが滲んでいた。
「結芽、おかえりなさい」
祖父母は変わらず出迎えてくれ、母も嬉しそうにしていた。軽く近況を報告しつつ、私は準備に取り掛かった。
実家に帰る途中で購入した材料を測りつつ、おもむろにオーブンを見る。
「オーブンってこんなに小さかったっけ?」
「何言ってるの?昔からこの大きさよ」
母は笑いながらそう言った。思いもよらないところで自分の成長を実感してしまい、なんだか恥ずかしくなった。
あの日のように丁寧に材料を混ぜて生地を焼く。久しぶりの感覚になんだかドキドキした。
「結芽、こっちも手伝って」
台所も記憶よりも小さくなっている気がした。そのことにドキドキしつつ、母の指示通りに調理を進めていく。実に数年ぶりだ。
ピーっと、当時よりもかすれた音が聞こえた。私が勢いよく振り向くと母はくすくす笑っていた。私は少し顔を赤くして、ゆっくりとオーブンを開けた。ふんわりと広がる甘い匂い。オーブンから取り出したスポンジはとても綺麗に焼きあがっていた。そのことに対して少しの嬉しさと残念さが芽生えた。
成長、の一言で片付けるのが何となく嫌だった。
「今度は上手く焼けたわね」
様子を覗いていた母がそう言った。
デコレーションも1人で終え、当時よりも上手くできていたが、なんとなく当時のような輝きを見つけることは出来なかった。
「美味しそうなケーキだね」
祖父母もしみじみとそう言った。
「お父さん、喜んでくれるかな」
ふいに、そんな言葉がこぼれた。綺麗に焼けたのに、上手く出来なかったあの頃よりも不安になった。
「喜んでくれるわよ。結芽が作ったんだもの」
母も父の大好物を作っていた。母の料理はいつも変わらず輝いて見える。
「あなた、今日はあなたの好きなものを沢山用意しましたよ。結芽もケーキを焼いてくれたの」
仏壇に料理を並べてから母はそう言った。その顔は嬉しそうな悲しそうなそんな顔をしていた。
「結芽も挨拶しておいで」
祖母に背中を押され、私も仏壇の前に座った。手を合わせて、心の中で父に挨拶をした。
母の料理は相変わらず美味しかったし、私のケーキもなかなかの出来だった。1番感想を聞きたい父が居ないのは寂しいけど、その分祖父母が褒めてくれた。成長して褒められる機会が減ってしまったけど、こうして褒められるとこそばゆいけど嬉しい気持ちになった。
「ん、」
夜、ふと目を覚ますとカーテンが揺れていた。月明かりが一際眩しく光っている。
「お父さん?」
ふと、そう思った。見えないけれどそこにいる、そう感じた。
ふいに頭に温もりを感じた。優しく見えない影に髪を撫でられる。安心する温もりに私は身を任せていた。
「結芽、どうしたの?」
母の声で私は目を覚ました。なかなか起きてこないため心配して見に来たらしい。
私はまた、泣いていた。
「お父さんが、」
私は年甲斐もなく泣きながら昨夜の出来事を話した。母は驚いた顔をしつつも、話を聞いてくれた。
「そう、結芽にはあの人がわかったのね」
写真でしか見た事のない父親。その温もりを私は初めてしれたような気がする。
「お母さん、私、もう大丈夫だよ」
初めて心の底からそう言えた気がした。
「そう、」
母はそれだけ言って泣きながら私を抱きしめた。
それから、私は時々お菓子を作るようになった。父の仏壇にお菓子を備えてもあの日のように頭を撫でることは無くなってしまった。
それでも、良かった。だって、
ふいに、大きな音がした。私は宙を舞い、大きな衝撃と共に投げ出された。
「今日は、特別な、日」
目を開けるとそこは暖かな光に包まれた場所だった。私は、私を呆然と見つめていた。
「結芽、かい?」
落ち着いた男性の声が聞こえる。
私はゆっくりと顔を上げた。
「初めまして、だよね」
「はじめ、まして」
男性は私の頭を優しく撫でた。
そのぬくもりを、私は昔から知っていた。懐かしくて、嬉しくて、悲しい感情が溢れている。
それと同時に今までの記憶が私の中を駆け巡る。
「大丈夫だよ。まだ、間に合う」
男性はそう言って、私の背中を押し、地面へと突き落とした。
「お母さんに、よろしくね。またしばらくしたら会えるよ」
最後に見えたその顔は写真の父に似ていて、とても悲しそうな目をしていた。
機械的な音が部屋にひびく。体中が痛み、声を出すことすら出来ない。白い部屋の中で私は1人、目を覚ました。
頭には優しい父の温もりだけが残り、それも次第に消え去っていった。