わたしのいとしい『人魚姫』
むかしむかし、あるところにそれはうつくしい人魚のお姫さまがおりました。
陸の国の王子さまに恋をしたお姫さまはそのうつくしい声とうみをわたる尾ひれをひきかえに王子さまのお側に寄るためのにんげんの脚を手に入れました。
お姫さまは針をさすように痛む脚をひきずり、懸命に愛らしく彼への愛をつたえ、王子さまもかよわい彼女をいつくしみました。
けれど、お姫さまと王子さまは───
そんな伝承がまことしやかに伝わる国に、ある一人の王子様がおられました。
彼は幼い時分から美しい物に目が無く、宝石も衣装も側近の人間に至っても何よりも美しい存在を身に侍らせている事を何よりの喜びとしていました。
また、そんな彼自身も大層美しい容姿をしており、それに加えてその声も他の誰と比べようもない程澄みわたった唯一無二の美しさを持っておりました。
そんな彼は、請われればいつでも得意の踊りと歌声で皆を楽しませ、大層愛されて育てられました。
それが災いしたのか、成人を済ませてからの彼は美しい容貌はそのままに、自分好みの輝く物を集めては飽きればたとえ恋人であってもすぐに捨ててしまうわがままな青年に育ってしまいました。
幼い頃の天使の微笑みは失われ、その事に周囲も国民も落胆していましたが、誰も彼の心を正す事が出来ずに居ました。
そんなある日、自分の心を震わす美しいものはないかと暇を潰していた王子様は、波打ち際に打ち上げられた、魚の尾ひれを持つ美しい少女に出会いました。
その姿を見て、彼は咄嗟に王国で語り継がれる伝承を思い出し、『健気で、従順で、口を聞けない美しい女』を側に置けばどんなに楽しいかと思いを巡らせました。
そしてすぐに彼女を城に連れ帰り、特製の水槽の中に放り込みました。
じきに意識を取り戻した人魚はやはり美しく、そして想像通り声を発することはありませんでした。
そして、ふと気付くと、王子様のことを何を考えているか良くわからない目でじっと見つめているのでした。
当初はそのような美しい人魚が人間には出来ない動きで自由に水を泳ぐ様は王子様の心を慰めましたが、次第に彼の悪癖が顔を見せ、物言わぬ少女に興味を失ってしまいました。
水槽に立ち寄らなくなった王子様が、その事すら忘れ、以前と同じく恋人を作っては飽き、捨て、また作っては捨てていたある日の晩の事。
既に寝所にこもっていた王子様は、部屋にはびこる異音をきっかけに意識が浮上するのを感じました。
ぴちゃ、ぴちゃ、と水音のような物が部屋の中からするのです。
いったい何が居るんだ。
ぞっと背筋が凍った王子様ですが、目を凝らしても暗闇に慣れない視界では何も捉える事が出来ません。逆上して襲い掛かられる危険を思えば、助けを求めての叫び声もあげることが出来ませんでした。
そのため、せめて飛び掛かられた時に反撃が出来る様に枕元の護身用の短剣を胸に引き寄せ、どくどくと鳴る鼓動を感じながら室内の音に耳を澄ませました。
ぴちゃ、ぴちゃと聞こえる音はどうやら足音のようで、けれどその足取りはふらふらと頼りないもののように感じられます。
不審に思いながらも、足音はどんどん王子様に近付き、その正体が姿を現しました。
月明かりでようやく見えた相手の顔を見て、ここに居るはずのないその姿に王子様は短剣を振り翳すのも忘れて呆気に取られてしまいました。
その隙に相手は王子様の胸元の短剣を奪い取り、彼に馬乗りになり、彼の喉元ぎりぎりに刃を突き立てました。
それは、美しい女の容姿をしていました。
王子様が水槽に置き去った人魚と瓜二つで、けれど水浸しではありながらも地面を踏み締める二本の脚が生えていました。
「ごきげんよう、王子様。起こしてしまってごめんなさい。どうしても早くあなたに会いたくて。あぁ、やっぱり。月明かりに照らされるあなたはとても綺麗ね。この世のどの宝石よりも美しいわ。でも太陽の下のあなたも早く見てみたい、きっと輝く金の髪が透けて見えてこの世のものとは思えない天上の美しさなのでしょう。ところで、私の事お分かりですか?」
謝罪を口にしながらも、悪びれる様子もなく笑顔を浮かべ饒舌に語る少女に王子様はますます困惑しました。
これはあの人魚なのか、それならどうして脚が生えているのか、そもそも喋る事が出来ないのではなかったのか。
混乱し思考を巡らせる王子様を見て、少女は王子様の喉元の短剣を先程よりも少し深く突き立てました。
血がすうっとこぼれ落ち、鋭い痛みが彼を現実に引き戻しました。
正気に戻ると同時に、この状況に対する怒りが、彼の中に湧き立ちました。
愛され慈しまれ育てられた王子様は、このような理不尽な傷つけ方をされた事がなかったのです。
王子様は自分から退くよう少女に対して怒鳴りつけようとしました。
けれど、一向に動く気配がありません。
苛立った王子様は更に大きな声で怒鳴り立てました。
けれど、少女は剣幕に怯える様子もあまりの怒声に耳を抑える様子もありませんでした。
それどころか、彼が怒鳴れば怒鳴るほど、笑みを深めていく始末でした。
そこで彼はやっとさらなる違和感に気付きました。
自分はこんなに声を荒げているのに、その声が自分の耳に届いている気すらしないのです。
自分の様子に幸せそうに笑い声を立てる少女の声は聞こえるのですから、耳が悪いわけでもありません。
なら、おかしいのは━
少女は、愛しい青年の美しい声がもう誰にも届く事無く、必死な彼がはくはくと言葉にならず喉を動かす様子を見て、幸せそうに笑いました。
王子が声を失い、心をお病みになった。
その一報が国中を駆け巡った時、多くの国民が美しい王子の不幸に悲嘆に暮れました。
そして、天上の声を失い失意に暮れる彼の様子を見て、誰もがこの国に伝わる伝承を想起し、女を捨てた王子様に対する人魚姫の呪いだと恐れ、あんなに愛していた王子様を遠ざけるようになりました。
それどころか、王族すらも、伝承に対する引け目があるからか王子様に近寄るのを避け、強国の王に愛妾として売り飛ばす算段を立てる始末。
王子様は心を病み、一人部屋にこもるようになりました。
王子様が部屋にこもりがちになると時を同じくして、一人の少女が王宮に顔を出すようになりました。
王子様の補佐官と名乗る少女は、王宮の中で唯一王子様の為に立ち回り、その美しい容貌とズル賢さで王子様の名声を立て直し、誰もが見捨てた彼に手を差し伸べ続けました。
次第に、王子様は王宮の中で唯一少女に心を開き、水槽の中の魚のように毎日彼女の帰りを待ちわび、口を聞けないながらも健気に美しく献身的に彼女を支えました。
そして、王子様は少女に永遠の愛を誓いました。
久し振りに空気を震わせた彼の声はやはり天上の調べのように美しく、思い描いた通り、風になびき陽に透ける彼の金の髪はこの世のものとは思えない程美しい物でした。
思い描いた通りの最高の結末に、少女は二本の脚をしっかり伸ばし、愛しい人魚姫に口づけをしたのでした。
むかしむかし、あるところにそれはうつくしい人間の王子さまがおりました。
けれど、王子さまはうつくしい心と声をうしなってしまいます。
陸の国の王子さまに恋をした人魚のお姫さまは、海の魔女と取引をして、王子さまのお側に寄るためのにんげんの脚を手に入れました。
お姫さまはこどくな王子さまを抱きしめ、懸命に強く彼を愛し、王子さまはうつくしい声と天使の心を取り戻すのでした。
だから、お姫さまと王子さまは───
人魚ちゃんは魔女と①天上の声と名高い王子様の声と引き換えに脚を与える②王子様の真実の愛を手に入れた場合は面白い見世物料として代償はチャラでOK③効力は人魚ちゃんが薬を飲んだ瞬間始まる というトリッキーな契約をしています。人魚ちゃんは王子様が産まれてすぐぐらいから目をつけていて、外堀を埋めるのが特技です。