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第一章

ガガガガガ、と嵐のようなキータイプの音が部屋中に響き渡る。

 部屋の真ん中に置かれた大きなテーブルの片隅で、生徒会役員の神崎(かんざき)(みつる)は画面いっぱいに展開した表計算ソフトを凝視しながら指先で狂詩曲を奏でていた。

 夏真っ盛りの8月。扇風機など消しカス並に役に立たない高温の中、生徒会はいままでと桁違いに活発に活動していた。それというのも、新しく入ってきた一年生の神崎がほとんどの仕事を驚異的なスピードで処理しているからである。

「来年度の生徒会予算は今年度繰越分を含めて5万円、使用目的は今年度と同じ奉仕活動備品購入維持費その他、予算拡張の件については現在校長及び教頭と交渉をしているところです。まあなんとかなるでしょう」

 彼はキーボードを打ち続けながらそんなことを言っていたが、不意にその手を止めると眼鏡のふちを押し上げて感情の無い顔をモニターから離した。

「……ああ、頼んだぞ神崎」

 その脇では、別の2年生の役員が肩身の狭そうな顔をしながらクリップで閉じられた書類に目を通していた。

「了解しました」

 神崎は一瞬の沈黙の後再び視線をモニターへと戻し、狂詩曲を再開させた。

 はあ、と隣の役員は溜息をつく。

 この役員からしてみれば、どう考えても隣でパソコンに向かう神崎のほうが仕事をてきぱきとこなせるのだ。

 お陰で今年度の生徒会長立候補への夢は潰え、おまけに仕事ができるそばから掻っ攫われていくので教師たちに神崎以外の役員は仕事をしていないと思われているのだ。

 さすがに仕事のしすぎだろうと思ってたびたび声をかけてはみるのだが、

「生徒会はそもそも全校生徒の為に合理的かつ迅速な運営を要求される組織です。分担して仕事が早く終わるのならそれでも良いのですが」

 と無表情で答えられるとすごすご引き下がるほかはない。

 救いを求めるように窓のほうへ視線をやると、窓際の席に腰掛けて下敷きを団扇代わりに扇いでいた未だ無名の生徒会長も同じ心境だったようで、ゆっくりと首を振りながら肩を竦められた。

(――妬む気はないけどさぁ……)

 年上の癖に仕事のできない彼は、情けない生徒会長から視線を手元に戻し、心の中で思う。

(あれはいくらなんでもやりすぎだろう)

 多分それは、この生徒会室に居合わせる役員たちの総意だったはずだ。

 ガガガガガッ!

 ちょうどその時、まるで心を読んだかのようなタイミングでキーボードを打つ手が止まった。

 思わず全員で神崎のほうを向くと、彼はやはり無表情のまま

「次年度予算案の作成が完了しました。今日はこの後塾があるので帰らせていただきます」

 とだけ言って返事も聞かずに鞄を肩に引っ掛けて大股で歩き出した。

 ガチャン、と生徒会室の安っぽい木の扉が閉まる。

「……会長、どうします?」

 少ししてから、別の一年の役員が口を開いた。

 会長はたははは、と頭を掻きながら

「今日の仕事は全て終了だ。帰って良いぞ」

 といかにも辛気臭そうに言うと、自らもカッターシャツの前ボタン全開のだらしない格好のまま鞄をひっつかんで席を立った。

 ええ〜!マジですか会長内申下がりますよぉ〜!と文句を垂れる役員一同は完全無視、会長も神崎に続いて生徒会室を出て行く。

 自分より優れているものを妬むのが人間の常ではあるけれど、やっぱりあれはやりすぎだろう。役員たちは一様にそんなことを考えながら、会長に従って暑さで蜃気楼の見えそうな廊下へぞろぞろと出て行った。

 今日も早々と無人になった生徒会室の窓の外では、よけいに暑苦しくなりそうなセミの声が盛大に響いていた。


***


 むおん、と。

 夕方の西日を浴びて、まるでそんな効果音が聞こえてきそうなまでに熱いアスファルトの上を、神崎は歩く。

 吊りあがった刃物のような瞳に、感情のかけらもない無表情な整った顔。

 痩せぎすなのに180近くある身長、細長い眼鏡。

目が隠れるほど長く伸びた前髪を除けば、スーツしか似合わないようなバリバリキャリア組といった感じの風貌だ。

 そしてその全身からは、何もかも理論で押し通してみせる、という気迫すら感じられる。

 他人からみれば、必ず無慈悲で冷酷な人間だと思われるだろう。実際自分でもそうだと思っている。

(しかし――)

 神崎は大股で歩きながら思った。

(それがどうしたというのだ?)

 どんなに嫌われようと恨まれようと構わない。重要なのは他人を犠牲にしてでも権力と財力を掴み取ることだ。

 ――それが彼の持論だった。

 他人に気を遣いながら社会の底を這うような生き方をするくらいなら、人々を踏み台にしてのし上がったほうが絶対に良いはずだ。それなのに愚かな人間たちはそのことを分かっていない。ろくに勉強もしない、ろくに努力もしない。そんな怠け者たちに社会を渡り歩く資格など無い。そう思っていた。

 横断歩道の信号が、赤に変わる。

 一斉に走り出した帰宅途中の車が、目の前を次々と通り過ぎる。

(――3年生入試期間における今後の生徒会の対応……)

 彼は立ち止まったその僅かな時間を利用して頭部のコンピュータを働かせることを怠らなかった。

 来年度の生徒会予算。数学の方程式。歴史の年代暗記。立ち止まっている時間の間に、膨大な量の情報が処理されていく。

 と、その時、彼はパソコンのフラッシュメモリを机の上に置き忘れてきたことに気がついた。

(……迂闊。しかし明日までに処理せずとも何ら問題はなし。スケジュールの変更は極力避ける)

 やはり疲れているのだろうか。

 神崎がぴくりとも表情を変えずに後悔していると、目の前の車の列が急に途切れた。

 信号が青に変わる。

(しかしこれ以上睡眠時間を延ばすわけにもいかん)

 頭の中で睡眠時間を伸ばす案を否定しつつ、再び大股で歩き出す。

 この歩き方も、極力移動の際の時間のロスを軽減するための策の一つである。

 彼はそれほどまでに時間と戦いながら生きている人間なのだ。

(この後6時から国語・数学の塾、9時に帰宅した後は飯を食って廃部予定の部活動のリストに目を通し宿題と家庭学習、10時から入浴その他、11時に就寝、朝5時半に起床)

まるで人を脅すような目つきをして今後のスケジュールを反芻しながら歩く神崎の脇を、女子高校生の一段がきゃいきゃい言いながら走り去ってゆく。

 危うく突き飛ばされそうになった神崎は、呑気な奴らだと軽蔑の眼差しでその後姿を眺めた。

 彼は怒るのではなくただ馬鹿にしただけだった。いずれ高校や大学を出て社会の一部として組み込まれたとき、実力の差がもろに出て努力しなかった奴らは蹴落とされる。

ただそれだけの話。

 神崎は視線を前へと引き戻し、再び思考モードに入った。

(……――何だ?)

 その時だ。

 右の視界の端になにかひっかかるものを捉えたのは。

 刀のように鋭い瞳をゆっくりと動かし、右のほうを振り向く。

 するとそこには、

(……!)

 あからさまに信号を無視するダンプカーのバンパーが迫っていた。

 見計らったとしか思えないようなタイミングで、赤信号を完全無視した猛スピードのダンプは、真っ直ぐ一寸の狂いも無く神崎へと向かっていた。

「……ぐわっ!」

 何年ぶりかの驚きの声を漏らしたときには、彼の体は猛スピードで突っ込んできたダンプカーに突き飛ばされて宙を舞っていた。

 頭脳だけでさまざまなものと戦ってきた彼は、全くと言って良いほど運動神経が無い。

 当然受け身などと言う姿勢がとれるはずも無かった。

 生まれてはじめて、車に轢かれた。

 相手は不運にもダンプカー。

 しかも恐らく80キロは軽く出ている。

 体は1メートル半――いや、2メートルほども飛び上がっていた。

 空中でそこまで考えた神崎は、死ぬんじゃなかろうか、と遅ればせながら考え、意識を手放した。

 彼の体は豪快にくるくると回転し、頭からまっさかさまに落下してアスファルトに打ち付けられ――

「だぁああああああ!」

 なかった。

 自分の頭が地面に激突する音の代わりに聞こえてきたのは、図太い女の悲鳴だった。

「む……む?」

 神崎は意識の奥底でその声を聞き取った。

それがきっかけとなって意識を取り戻し、辺りを見回してみる。

なんとかうまい具合に助かったらしい。

幸い落下点は歩道だった。もしこれが車道だったらもし助かったとしても曲がってきた車の死角となって轢かれていただろう。

左目の端には、今しがた神崎を死の淵へと追いやったダンプカーが止まりもせず悠然と走り去っていくのが見えた。

あっと思ったときには既に遅く、ダンプは車の列に紛れてしまい、ナンバーを確認することはできなかった。

仕方なく、神崎は混乱する感情を無理矢理押さえつけてさっき聞いた悲鳴の原因を探ってみることにする。

「女……の声……だったよな?」

 震える声で低く呟く。

「……いやそれより、まずは警察だ」

 しかしさすが頭だけが武器の男だけあって判断は冷静だった。

 彼は頭を振り、痛む腰をさすりながら立ち上がろうとして――

 妙に下の地面が柔らかいことに気づく。

「……!」

 神崎は直感でただならぬ出来事であることに気が付き、恐る恐る自分が座り込んでいたところを見た。

 本当は黒い地面でなければならないそこを、見た。

 そして、

「……大丈夫か」

 思わず呟く。

 彼が座っていたのはアスファルトの上などではなかった。

 神崎が落ちてきた衝撃を全身に喰らい、大の字になってうつ伏せに伸びている、華奢な女子高生だったのだ。

「……」

「……」

 両者ともに固まったまま流れる、一秒。十秒。一分。

 よほどしばらくしてから、伸びていた女子高生がぴくりと動いた。

 頭がもぞもぞと揺れ、その顔が露になる。

「――大丈夫なわけ」

 肩くらいまでの長さのある艶やかな栗色の髪と。

 大きくてつぶらな瞳と。

 完璧なまでに整った顔立ちだった。

 しかしその瞳には激しい憎しみの感情がこもっていて、神崎のほうを上目遣いできっと見据えてくる。

「ない、でしょうがあああああ!」

 あ、意外と綺麗かもしれない。

背筋に走る激しい悪寒を感じると共にそう思った瞬間、神崎は拳の一撃に伏し、その日の分刻みで立てられたスケジュールは全て達せぬままになった。


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