34話 スース・ドメスティック 2
彼女の特異魔法とは、今の彼女の産まれてから今に至るまでに影響し続けた、呪いにも似たものである。
特異魔法のせいで幼少期の知能の発達が遅れた。それだけでも常人にない苦労だ。
それに加え、両足を失い、他者に怯えて育ち、今に至るまで想像を絶する苦労があったのだろう。
少なくとも私が同じ立場であったのならば、彼女のように強く生きていられなかった。
「私の特異能力は、簡単に言うと”聴力の超強化”みたいなものです。一定範囲内の、砂粒の落ちた音まで拾います。今でこそ範囲の調整ができますが、調整していなければ直径二キロメートルの全ての音を拾います」
だから、異様に私や街の情報を知っていた。
他の孤児の呼ぶ声にすぐ反応したし、毎回私が居眠りしてからこの仕事机に近づいてきた。
特異魔法を使えばそのくらいできる。
ここまでしか知らなかったなら、感想もそれまでだっただろう。
「でも実際に聞いているわけではなく、ただ感知しているだけなんです。遠ければ遠い程音が小さく感じることもありません。一定範囲内の音全てを、耳元で起こったかのように、常時聞こえるのです」
つまり、彼女は今も聞こえている。
若い男女の痴話喧嘩も、野良犬がネズミを追う足音も、枯れ葉が地面に着地した音も、八百屋の客を呼び込む音も、牢獄内でこぼされた愚痴も、眠れない娘に母が聞かせている子守歌も、ほつれた服を直すため布に針を刺す音も、蝶の羽音も、魚の腹にナイフを通した音も、床が体重で軋む音も、服をたたむ音も、子猫がじゃれあう声も、擦れる硬貨の音も、書類に筆を走らせる音も、水を飲み鳴る喉の音も、食器が落ちて割れる音も、老人の腹を空かせて鳴る腹の音も、何気なく通行人が雑草を抜いた音も、赤子が寝がえりをした音も、子供たちが交わすひそひそ話も、虫に刺された背中を掻く音も、くしゃみをして鼻をすする音も、私の心臓が脈打つ音も、
全てだ。
およそ直径二キロメートルで発生した音の全てを彼女は捉えている。
簡単に気を狂わせることのできる情報の濁流に、彼女は赤子の頃から溺れていた。
「普通の子供なら言葉を覚える歳でも、私は泣くことしかできませんでした」
当然だ、言葉は聞いて覚えるものだ。
「何とか耐えられるようになっても、秘密だろうと知ってしまうせいで友達なんてできるわけありません」
その光景は想像が難しくない。
「こんな能力なら、無い方が良かった」
生まれ持つ特異魔法の中には、常時発動して止められないものもある。
周りに害のある事も少なくなく、場合によっては生まれなかったことにして、殺処分にしてしまうこともあるらしい。
そう言った現実、社会的問題というべきものがある事は知っていた。
救える手があるならと、何度も頭を悩ませた。
しかし、私にはどうしようもないという結論以外は出なかった。
「今でも怖くて、このことは誰にも言えません。以前お世話になったスルトさんにすら言えていません。貴方の発する声も音も全て聞いているだなんて、言われたら気味が悪いじゃないですか」
「それは……」
「ライゼルさんにも言っていないじゃないですか。でもばれる時が来るかもって思ったら、それでも捨てられないくらいに有能だって見せなきゃと思って」
彼女が悪戯好きなのは知っていたが、それを会ったばかりの私に毎日のようにするのは確かに疑問だった。
悪戯という建前で隠したい秘密を隠し、それで強引に仕事をしていたのである。
「信用、されたかっただけなんですが、私不器用で……」
スースは俯いた。
表情に感情を出さなかった彼女が、だ。
既に取り繕う余裕を無くした彼女の、不器用な誠意の見せ方が、全てを話す事だった。
「お願いです……捨て、ないでください。兄さんを安心させたいんです」
その言葉を聞いて、私も覚悟を決めた。
「私は今後一切、何を知られたとしても貴方を捨てないと誓います」
「……ありがとうございます」
「でも、貴方が簡単に人を信用できないことも知っていますので」
「……?」
スースが面を上げた時、私は背を向けてタンスに向かっていった。
「私の、誰にも知られていない、本当に知られたくない一番の秘密を貴方に教えます」
取り出したのは鍵が付いた小さな木箱である。
仕事机の中の畳まれた紙から、鍵を取り出す。
「子供の頃、十歳ごろだったと思います。私は度を超えて母の事が好きでした。性的な眼でも見ていました」
「え、ちょっと何を?」
スースが明らかに動揺している。
軽蔑されるのも覚悟の上とはいえ、何だか変な汗が出てきた。
「そしてこれが、その過ちが形になったものです」
木箱の鍵を開け、中から小さな布をつまみ出す。
「これって…………」
「…………母から盗んだ下着です」
……これが私の考えた、最善手である。
「あの、つまり! 私が言いたいのは! これ以上にばれるのが怖い秘密が無いので、貴方がそばにいようと何も怖く無いってことなんです!」
「そのために、こんな暴露を?」
「軽蔑されても仕方がないとは思いますが、それでも、貴方を信頼していると伝えたかったんです」
「信頼ですか?」
「貴方は本当に人が嫌がることはしないでしょう? この秘密は私が本当に墓場まで持っていくつもりだったので、本当に、他言無用でおねがいします。本当に」
変な汗が止まらない。
間違ったことをしてしまっただろうか、いや正しい訳ないなこれ。
ラウニの話を聞いた時にこれしかないと思いついた作戦だが、それぐらいしなければ心を開けないと思ったのだが。
……より人を怖がらせてしまうだけだったか?
どうしようボアさんに合わせる顔が無い。
「……ふふ」
ぐるぐると回る後悔の渦を止めたのは、スースから洩れた笑い声だった。
「ふふ、あははっ! 貴方みたいな人初めてです!」
スースは笑っていた。
笑いながら、泣いていた。
今までの仮面を張り付けたような真顔ではなく、愉快さを隠さずに出した笑顔だった。
どれだけその真顔の下で気を張っていたのだろうか。
今、私に見せる笑顔は、年相応の少女の笑顔だった。
最初に会った時に思った通りだ。
笑顔になれば、真顔なんかより断然美人だ。
* * *
「私、ライゼルさんなら信頼できるって思いました」
「それは、なによりです。恥をかいた甲斐がありました」
泣き止んで会話が出来るようになったころ、そんな話をした。
「今なら一考していただけると思いますが、正式にここで働く気にはなれませんか? 特異魔法抜きにしてもあなたの能力はとても無償で使っていい物ではありません」
「じゃあ、お願いします。私もしたい事ができましたので」
「いいですね! 聞かせていただいても?」
スース・スクローファは、可憐な笑顔を浮かべて言った。
「―――孤児院の庭に、『偉大なる教皇ライゼル・ジーメントル像』を立てたいです」
正直理解に苦労したが、笑顔を返してこう言った。
「やめて」
スース「確認ですけど、ライゼルさんって独身ですよね?」
ライゼル「えっ」




