憤怒に身を任せ
目を覚ますと、それは見渡す限り木々で覆われた森の中だった。
ここがどこかはすぐにわかった。セフィロートには森など一つしか存在しない。セフィロート十都市をマルクト、イェソド、ホド、ネツァク、ティファレト、そして彼の故郷であるゲブラーと、他四都市ケテル、コクマ、ビナー、ケセドの間を隔てる随一の規模を誇る森、フロンティエール大森林だ。
昏倒している間に、森に打ち捨てられたらしい。大森林の名を冠するだけあって、ここがどこであるかは全く判別がつかない。おそらくゲブラーの近くではあるのだろうが……どこが出口かは全く見えないし方角もわからない、そんな場所だった。
少年は自分の損傷を確認する。師と交錯したあの一瞬は何をされたか全くわからなかったが、今も頭に残る鈍痛からすると、おそらくこめかみでも打たれて昏倒させられたのだろう。殺さなかったのは、単なる気紛れか、脅威と見なされなかったか。──どちらにせよ、侮られていることは確かだ。
その事実に勇者と呼ばれた少年──リヴァルは屈辱的な思いで満ちて、歯軋りをする。口からつ、と血が垂れるほどに、悔しかった。
「──」
そのときふと、声が聞こえた。言葉は聞き取れなかったが、確かな声。
「──怪我をしているよ」
「ああ、傷が」
「歯噛みしてる。血が出てるよ」
「治してあげる」
優しい、柔らかな声。けれどどこから聞こえているのかは皆目検討がつかない。リヴァルは耳を澄ましながら、辺りを見回す。
すると、ざわめいているのは、木々の方だった。
「ああ、目を覚ました。よかった」
そんな安堵の声を放ったのは、木からずず、と出てきた手足が枝の絡み合ったもので形成されている、異形のもの。
ゲブラーで学んだ知識から照らし合わせると、彼の者たちは「木の民」と呼ばれる魔物の一種。
魔物。
引き出されたその言葉に、リヴァルの何かがふつりと切れた。
「樹木よ、この者に癒し、を……」
治癒魔法の詠唱が唱えられるが、魔法が行使される前に、その木の民は、業火に晒され、リヴァルの二つの剣によって、切り刻まれていた。
焼き払い、切り刻み、──どれくらいの時間が経ったか知れない。
リヴァルの周囲は煤まみれの平野と化していた。木の民たちの悲鳴も何も、リヴァルの耳には全く届いておらず、相手が人間だったなら、大量虐殺の汚名を着せられても致し方ないであろうくらいの犠牲は出していた。しかし、リヴァルは死した木の民たちを「犠牲」とは考えなかった。
何故なら彼らは魔物だから。
魔物は人類の敵だから。
人類の敵は滅ぼさなければならない。それが勇者たるダートの使い手に与えられた使命だ──そんな盲信を言い訳に、リヴァルはたくさんの「木の民」を屠った。
焼き尽くされたことにより、ここいら一帯の木々は全て死滅した。木は燃料として使われることからもわかる通り、火に弱い。属性的に劣性である木の民、その上抵抗する術のない彼らに、リヴァルの圧倒的なダートの炎を打ち消す術などなかった。
リヴァルはこれほどの虐殺をしておきながら、未だ正気には戻っていなかった。まだ、師匠の裏切り、故郷の滅亡、敗北の苦汁から立ち直ってはいなかったのだ。ゲブラーで学んだ「木の民は回復魔法以外使えない、無害な種族」という知識さえ、抜け落ちるほどに。
そんなリヴァルの、端から見たら無意味にしか思えない殺戮に、この森の守護者が黙っているわけがなかった。
しかし、それは、その出会い、否、再会は、両者にとって災厄でしかなかった。
人の足音と、炎の熱気が薄らぎ、冷気に切り替わり始めたところでリヴァルがはっとする。新たな敵か、と身構えた。だが、違和感を覚える。
何が違和感かというと──冷気。やけに体に馴染んだ、覚えのある空気だ、とぼんやり考えていると、近づいてきた人物の声がした。
「酷い……この森をこんなにしたのは、誰?」
纏う冷気に見合った、涼やかな声だった。リヴァルを警戒してか、更地になった外側を守るよう、氷の壁が作られる。
特段、詠唱があったわけではない。セフィロートの魔法は詠唱なしには発動しない。ということはこれは、魔法とは異なる、リヴァルの炎と同じ、叡知の力、ダート。
リヴァルはダートで氷を生み出す者など、一人しか知らなかった。このセカイに今は、リヴァルも含め、たった二人しかダートがいない。
張られた氷壁の中に、リヴァルと二人、取り残されるように現れたのは、
「な、お前……リアン!」
「えっ……? リヴァル?」
能面のように固定されていた相手の表情に衝撃が走る。それもそうだろう。リアンと呼ばれた白髪に湖水色の瞳を湛えた彼は一日前までリヴァル共々フラムを剣の師と仰いでいた同門の徒なのだから。
何故かリアンはゲブラー滅亡の前に行方を眩まして、あの現場には立ち合わなかったようだが。
それが何故、魔物の森に?
フロンティエール大森林は、様々な生物の生まれた場所、特に魔物が生まれ、住まう場所だというのはセフィロートの常識だ。そんな魔物は今や人類の敵。そんなやつらの巣窟に、何故リヴァルと同じくセカイを救う使命を負ったはずのリアンがいるのか、リヴァルは全く理解できなかった。しかも、さも森を守っているかのように出てきて。
「……お前一体、何してるんだよ?」
沸々と自分の中に怒りが沸き立つのがわかった。
リアンはリヴァルの怒りを孕んだ声に当惑するばかりだ。
「なに、って……この森の人に助けてもらったから、その恩返しに森を守ろうと」
助けてもらった? 恩返し? 森を守る?
リアンだって、ここがどういうところか、リヴァルと一緒に学んだのだ。知っているはずだ。ここは敵地だと。
それを、守る?
守る、だと?
「逃げた、くせに……」
リアンの肩がびくんと震える。そんなことはお構い無しにリヴァルは睨み付けた。
「本当に守るべき、人間の都市を見捨てて、あろうことか、敵である魔物の森を守るだって? 笑わせるな! 俺と同じ、ダート持ちのくせに……」
すらりとリヴァルは双剣をリアンに向けた。リアンは驚きに目を見張る。リヴァルに敵意を……限りなく殺意に近いものを向けられていることに、驚いているようだった。
何も知らないようなそんな瞳が憎たらしくて、リヴァルは憤怒のままに叫んだ。
「よく聞け! お前がいなくなった次の日になぁ、ゲブラーは魔物の襲撃に遭った! 俺だけじゃ、手も足も出なくて、セカイを救うダートのはずなのに俺は、何もできずに、ゲブラーは滅亡してしまったんだよぉぉぉっ!!」
「そんな……っ」
普段は穏やかな湖水色の瞳を彩るのは、驚愕か、絶望か。──そんなの、リヴァルはどちらでもよかった。
リアンは困惑しながらも、瞬時に作り上げた氷の太刀でリヴァルの剣を受け止める。鍔迫り合いのがちがちという音が氷壁で閉ざされた空間にやたら響く。
リヴァルは泣き喚きながら、剣を振るった。
もし、あのときリアンが一緒にいたなら、少しはどうにかできたかもしれない。剣に滑らす炎に傷つかないリアンを見、苛立ちながらもそんな希望を抱く。リアンは冷気だけでなく、熱気を操ることもできる。冷気で炎を鎮めることはもちろん、炎から熱気を奪い、火傷などの負傷者を減らすことだってできた。
リアンなら、リアンなら、俺にできなかったことが、たくさんできただろうにっ──そんな、叶わなかった希望を、リヴァルは剣で叩きつけた。
リアンとて無能でも無情でもない。リヴァルの言わんとするところは察していただろうし、その場に自分がいなかったことを悔いているだろう。そんな感情がありありと剣を交えているとわかる。
だが、
「今更悔いたところでっ、ゲブラーは戻らないんだよっ!!」
破裂しそうなほどの激情を乗せた剣がリアンの太刀に牙を剥く。リアンの氷の刀身にびきびきと罅が入る。けれど、リアンは動じることなく、すぐ太刀に冷気を込め、罅を補修する。
そんな冷静さにリヴァルの苛立ちは増すばかりだ。
「でも、僕はここを離れるわけにはいかない。君が、この森を害するというのなら、尚更」
リヴァルの叫びを聞くだけだったリアンがようやく口を開いて放ったのが、そんな言葉だった。
悲しげな光を目に宿して、リアンは続ける。
「この森の魔物は、もう僕の友達だから。この森を守ると誓ったから。だから、森を焼こうとする人が、譬君であったとしても、放っておくわけには、いかないんだ」
そう簡単には砕けない、そんな意志を感じる声。それがリアンの太刀に乗せられ、ぎりぎりとリヴァルの太刀を押していく。
だが、リヴァルの怒りは増幅され、ダートの炎へと変換され、竜の顎のようにリアンに襲いかかる。
「このっ、裏切り者がぁぁぁぁぁっ!!」
師匠に裏切られ、同門の友人にまで裏切られるのか、そんな怒りで満たされる。それに呼応し、炎の竜は最大の威力をもってリアンに牙を剥く。
が。
炎の竜は次の瞬間には、文字通り凍りついていた。
リアンの冷気が炎を上回り、凍てつかせたのだ。
あまりにも圧倒的なダートの密度、出力。
「ごめんね、リヴァル」
あまりの力の差に唖然とするリヴァルの隙を、リアンが見逃すこともなく、
リヴァルはがら空きの鳩尾を峰打ちされ、地面に倒れ伏した。
紅蓮に燃え立つ髪が元の柔らかな色に戻り、リアンはほうと息を吐いて、リヴァルを背負った。
ひとまず、森の脅威は去った、とみなしたリアンがリヴァルを背に負い、向かったのは、森を挟んでゲブラーの反対側にある田舎都市でリアンの故郷であるケセドだった。




