知恵の実大図書館
コクマにはケテルのような荘厳な門などない。森を出るといつの間にか煉瓦造りの街並みに出ている。
ケテルから出たことのないリュゼからすると、コクマの明るい彩りでありながら、素朴な造りの建物たちは新鮮であった。親しみやすいとも感じた。
すたすたと街中を堂々と歩く青年と、慣れない様子でリヴァルを背負ったまませかせかと歩くリュゼ。全身ローブに包まれているという似たような格好にも拘らず、二人は対照的に見えた。
どこか居心地の悪そうなリュゼの様子に気づいたのか、青年が口を開く。
「もっと堂々としていていいんですよ。この都市には貴女を責める人はいないんですから」
そう言われても、やはり、慣れないものは慣れない。そんなリュゼの様子に青年はくすりと笑う。
「そう固くならずに。この都市コクマはむしろ強い魔法使いを歓迎する都市なのですから」
「……魔法使いを?」
「もちろん、男女の区別なく、です」
青年の言葉に興味を抱いたらしいリュゼは口にこそ出さないものの、顔を上げて青年に先を促す。
青年は笑みを絶やさず続けた。
「この都市のコクマという名前は『知恵』という意味を持つそうです。魔法は人々の知恵によって生み出されたもの。故にこの都市コクマは魔法発祥の地、魔法使いの聖地として存在するのです。石を投げれば魔法使いに当たるというくらい、魔法使いに溢れているんですよ。まあ、投げたら怒られますけどね」
多少のユーモアを交えて語られたそれは、リュゼがこの都市に興味を抱くには充分だった。
森を抜けるのに必死で周りを見る余裕などなかったリュゼだが、歩く足を緩めて辺りを見回してみる。
すると、そこでは子どもが身体能力強化魔法を使って競争していたり、乗り物が風魔法で浮いて宙を滑空していたり、水魔法を使って遊んでいたり、と魔法に満ちた光景が広がっていた。魔法を使っていない人の方が少ない。
「すごい……日常に魔法があるみたい」
「みたい、ではなく、あるんですよ、日常に。何せそこかしこに魔法使い育成のための図書館があるんですからね」
「図書館……」
図書館はケテルにもあった。だが、確かに噂ではコクマの図書館の数は尋常じゃないと聞く。ケテルより小さい面積の中に図書館が十はあると聞いた。
しかも、ただの図書館だけでなく、魔法書を所蔵している図書館や、魔法書専門の図書館もあるという。
「これから向かうのはセフィロート随一と言われる図書館、『グランビブリオテックポミエ』です」
「え、と、グラン……?」
「グランビブリオテックポミエです。原語はご存知ですか?」
「確か、太古にセフィロートで使われていた言葉」
「そうです。グランビブリオテックポミエは原語を使った呼称ですね。現代の言葉では『知恵の実大図書館』といったところでしょうか」
原語とはセフィロートの旧い言葉で、現在では会話などに用いる言葉は違うが、今でも名残としてあらゆる呼称に残されている。セフィロートの住民の大抵の名前は原語から来ている。リュゼはケテルでは忌み嫌われている存在であったため、原語で「狡猾」という意味の名前を授かっている。
そういえば、と名前で思い出した。
「貴方の名前は?」
青年の名前を出会ってからこっち、聞いていなかった。尋ねると青年も、ああ、名乗っていなかったね、とローブのフードを取りながら言う。
灰色の長髪に緑の目。顔立ちの整った青年である。
「私はヴァンと言います」
ヴァンとは原語では「風」を意味する言葉だ。風属性の魔力を大量に保有する彼には似合いの名前だろう。
と、リュゼが眺めているうちに、ヴァンが首を傾げた。リュゼはあ、と声を漏らす。名乗られたらこちらも名乗るのが礼儀だ。そういえば名乗っていなかった、と思い至る。
だが、リュゼは名乗りづらかった。ヴァンは予想通り、凄腕の魔法使いだ。原語の話を持ち出したということは、今では幻と言われる原語魔法についての知識もあるにちがいない。ということは原語にそれなりに精通していることになる。となると「リュゼ」が原語で「狡猾」という意味であるということも当然知っているにちがいない。
狡猾、なんて名前を披露するのは憚られた。いくらなんでもひどい名前だろう。
「別に笑いませんよ」
……と言ってくれるが、やはりリュゼは少し名前に劣等感を感じていた。
「……リュゼ」
「ふむ」
ヴァンは緑の瞳をぱちくりとさせるだけで、何も言及してこなかった。
ぽん、とリュゼのフードの上から撫でられる。感じたことのない感覚に、リュゼは目を白黒させた。
「名前は大切にしてください。魔法使いにとってはどんな意味であれ、重要な宝ですからね」
涙が出そうだった。魔法のいろはを知るわけではなかったが、名前に対する劣等がするりとほどけた。
「というわけで、一つ覚えていただきたいのですが、魔法使いにとって、名前は重要なものです。例えば、大きな魔法に織り交ぜると、難しい魔法でも成功率が上がります」
例えば、とヴァンが人差し指を立てる。
「ヴァン・アン・タン・クー・タンペット」
すると、びゅおっという物凄い風が起き、周囲を巻き上げる。何事、と思う間もなく、周囲の者たちは吹き飛ばされていた。
次いで、ヴァンは唱える。
「ヴァン・アン・タン・クー・カルム」
すると、嵐とならんとした風は瞬く間に鎮まり、ゆったりと飛ばされた住民たちは元の位置に戻っていく。
リュゼはきょとんとするしかなかった。これは、もしかしなくても。
「……原語魔法……」
「あ、気づかれましたか」
気づくも何も、彼の今の詠唱は全て原語で行われていたのだから、その語句を知っていれば予想するのは容易だ。
原語魔法とは、原語が使われていた時代に開拓された魔法である。強大な威力を持つものの、一撃一撃に使う魔力の使用量が多く、燃費が悪いとされ、現在の詠唱形式が築かれてから、廃れていった魔法とされる。今では原語魔法を使えるほどの魔力を持つ者が少なくなり、神にしか使えない魔法として認識されている。
つまり、ヴァンは神にしか使えない魔法をいとも簡単に使ったというわけで、その異常性は語るべくもない。
只者ではないと思ってはいたが、まさか原語魔法まで使いこなすとは。
「まあ、こんな感じで、名前は役に立ちますよ」
「いや、原語魔法使いませんからね!?」
のほほんと言い切るヴァンにリュゼは思わず突っ込んだ。これはまずいことになるかもしれない。かなり優秀な魔法使いと思って弟子入りを志願したが、軽い気持ちでいると、風魔法で吹き飛ばされかねない。
只者ではないどころか、原語魔法まで使いこなす化け物級の魔法使いである。やはり、師に仰いだのは先を急ぎすぎただろうか。だが、後悔は先に立たないのだ。
などとリュゼが考えているうちに、ヴァンが立ち止まった。目の前にある建物を見上げる。
大きな建物はケテルで見慣れていた。だが、ケテルのものとはまた違った荘厳さがその建物にはあった。
建物は白い壁でできており、くすんだ金色の「Grand bibliotheque pommier」という文字が貼られている。おそらく原語文字だろう。
「ここがグランビブリオテックポミエです」
その大きさに圧倒されるリュゼの横でヴァンが説明する。
「セフィロート随一の面積、蔵書量を誇る大図書館で、魔法書もたくさんあり、更には魔法訓練場もあるという、魔法の特訓に持ってこいの場所ですね」
「訓練場もあるんですか」
「ええ。まあ、訓練場には魔法使いしか立ち入れませんが」
ふと思った。未だ意識を取り戻さぬリヴァルはどうなるのだろう、と。リヴァルはダートの使い手であって、魔法使いではないのだが。
「もちろん、お連れさんなら一緒に入れますよ。休憩所もありますし」
なんと。ヴァンはリュゼの不安を見越していたらしい。そこまで考慮してこの場所を選んだのだろう。なかなか侮れないお師匠さまである。
中に入ると、人がそこそこにいて、リュゼは驚いた。魔法使い志願者が多いのだろう。閲覧席は埋まっており、地面に席がないからと宙に浮いて本を読む者までいる。電灯の邪魔になりそうな位置の者は、自前の電灯で下を照らしてやったり、光魔法で照らしたり、と様々で、これぞ魔法空間という仕様になっていた。
本棚は高さがある。いや、高さがある程度ではない。天を突くのではないかというほどにそびえ立っていた。これは風魔法で浮いて見ることが前提になっているとしか考えられない。
本棚の脇には装置があり、簡易的に風魔法を発動させられるようになっているが、どう考えてもこれは風魔法を使う前提で考えられた作りだ。風魔法はリュゼの本分であるから問題ないが。
「この閲覧席、蔵書室は火と水の使用が厳禁とされています。たまに、土魔法使い、木魔法使いが建物の修理に来ているので」
確かにそれだと火も水も危ない。木は燃えるし、土もどろどろになったら事件だ。
「訓練場は特殊な作りになっているので、どんな属性の魔法でも使用できます。閲覧席が埋まっているようなので、訓練場に行きましょうか」
そう紡ぐと、ヴァンは、よっと、と呟きながら、本棚の木枠をとんとんと蹴って上に上っていく。リュゼの見る限り、魔法の発動は見られない。つまり、ただの身体能力のみで上っている。またしてもヴァンの異常性を目の当たりにすることとなった。よくよく考えると、森でのプティアルクとの戦いでも、最初は矢を強化して応戦していたから、体力もかなりあるのかもしれない。とんでもない魔法使いに出会ったものだ。
ほどなくして、一冊の魔法書を手にしたヴァンが飛び降りてくる。風よ、とだけ唱えてふわりと着地する彼に、もはや驚きは感じない。
ヴァンの手にした本には「魔法の基礎」という文字があった。どうやら基本から教えてくれるらしい。
ヴァンに導かれて、リュゼは訓練場へ向かった。