風の邂逅
リアンの姿がすっかり見えなくなるのを見計らって、リュゼは氷漬けにされたリヴァルに歩み寄った。
一応、膨大なリュゼの魔力は風属性と相性はいいものの、他の属性の魔法が使えないわけではない。
「火よ、氷を溶かせ」
氷に触れて紡ぐ。触れると驚くほど冷たいのに、リュゼの拙い詠唱でまるで元からなかったかのように溶けて消えていく。
見た目はかなり衝撃的な氷漬けだが、実際のところ、氷はそんなに厚みのあるものではないらしい。それもそうだろう。リアンは空気中の水分を固めて氷にしただけなのだ。雨が降っているわけでもない日に空気中に漂う水分なんて、たかが知れている。
溶かすと、倒れかかってくるリヴァルの体。リュゼはそれをなんとか受け止めて、そっと抱きしめる。その存在を、生を確かめるように。
氷漬けにされていたリヴァルの体は冷たい。だが、死んだというわけでもなさそうだ。微かにではあるが、とくん、と鼓動が聞こえる。
昔話か何かにあった。人間は急速に体温を奪われると、仮死状態になるが、完全に死ぬわけではなく、常温でしばらくいると意識が戻る云々。
おそらく、あの氷みたいに冷たい雰囲気の剣士はリヴァルをその状態にしたのだろう。昔話であるため、信憑性は薄い。それなのに実行する辺り、あの剣士は危なっかしいというか、雰囲気の通り冷たいというか。
リュゼは本当にリヴァルが元に戻るのか心配だった。何にせよ、どこか休める場所に行かなくてはならない。
一番近い都市はケテルだ。だが、ケテルに帰るのは憚られた。何せ、勇者の仲間になったとはいえ、あの都市から魔女差別という文化がなくなったわけではないのだから。何より、こんな状態のリヴァルを連れていったら、お前が一緒にいるせいだとか、因縁をつけられて、元の差別生活に戻され、リヴァルと引き離されるかもしれない。リヴァルはリュゼを唯一差別せず、救いの道まで示してくれた人間だ。離れたくないし、助けになりたい。
故に、リュゼはケテルを選ばなかった。となると、ケテルの次に近い都市となる。森の向こうは魔王軍にすっかり占拠されてしまっている。リヴァルが回復もしていない状態で行くのは危険だ。リュゼも魔力は膨大なものの、未だに自在に操れるわけではない。森の向こうに行くのは危険きわまりない。
それに、このフロンティエール大森林は魔物が棲む森。いつどこで魔物と遭遇するかわからないし、魔物と戦闘になった場合、またあの剣士が出てくるのだ。途中からだが、リヴァルとあの剣士との戦いを見ていて、とんでもないやつだというのは素人目にもわかった。まだまともな魔法使いですらないリュゼなど相手にならない。
となれば手はまず、森から出ることになる。それからケテルに近い都市というと、ケセドと反対隣に位置するコクマになる。
「……強くならなきゃ」
リュゼは呟くと、決然と足をコクマの方へ向けた。
コクマは魔法の栄えている都市。魔法使いとして鍛えるにはうってつけの場所だ。
勇者の仲間である以上、リヴァルの強さに届かなくても、自分なりに強さを身につけておかなくてはならない。そう思ったのだ。例えば、プティマージくらい、一人で倒せるように……
そう思った矢先、リヴァルを背負ったリュゼの前にプティマージが三体現れる。リュゼはリヴァルを背負った状態。明らかに不利だが、唯一幸いなことは、リュゼは武器を使って戦うのではないということ。魔法は詠唱ができれば発動可能なので、手が塞がっていても戦える。リヴァルに話した通り、魔法には印を結ぶものもあるが、そんな高度な技能をリュゼは習得していない。
「風よ、我が敵を引き裂け」
唱えると、風が鎌鼬となり、プティマージたちに襲いかかる。プティマージたちの本体である布をいくらか裂けたようだが、まだ倒すにまでは至らない。
プティマージたちが自分の番とばかりに詠唱を始める。
「ツチヨ、ワレラヲマモルカベトナレ」
「ヒヨ、ワレラニアダナスモノヲケシサレ」
「キヨ、ワレラニメグミノイヤシヲ」
リュゼは瞠目する。特に最後の詠唱に。
プティマージだと思っていた三体のうち一体は回復魔法を使うプティトレットマンだったのだ。
トレットマンがいるとなると厄介だ。下手な魔法だと、すぐに回復されてしまう。それにプティ族の特性である威力は弱いが詠唱は短いというのが厄介である。詠唱分だけすぐ回復されてしまう。プティではあるが、トレットマンが一つのパーティ内にいるだけで随分と違うものなのだ。
しかも、プティマージと同様、トレットマンは魔法耐性が強い。魔法使いのリュゼとは相性が悪い。
こういう編成の場合、トレットマンを先に潰すのが定石なのだ。ただ、トレットマンは魔法耐性がかなり強い代わりに、物理耐性が弱い。しかし、リュゼには物理攻撃手段がない。生粋の魔法使いなのだ。けれど、まだ魔力を持て余していて、効率のいい魔法を使えない。魔法耐性が高くても、圧倒的な魔力で押せばいいのだが。まだリュゼは魔力の操り方がままならない。
「風よ、破壊をもたらす嵐と……」
嵐を起こす魔法を唱えかけるが、それではまだ森に被害が及んでしまう。リヴァルが昏倒しているこの状況であの剣士と鉢合わせるのはまずい。
まだ魔力制御が上手くいかない自分をリュゼはちょっと恨んだ。が、恨んでいる場合ではなかった。
思考を逸らしたその隙を敵が見逃すはずがない。
「ヒヨ、アラブルホノオヲ」
土壁を突き破って、炎の渦がリュゼに向かってくる。咄嗟に風魔法で対応しようとしたが、駄目だ。風では火を煽る効果しかない。
ただ、避けようにも、リュゼはただでさえ俊敏ではないというのに、今はリヴァルを抱えている。避けることもままならなかった。
リヴァルに心中で謝りつつ、リュゼは来るべき衝撃に備え、目を瞑った。
一瞬の静寂。
「風よ」
誰かがそう唱えた気がした。まあ、空耳だろうと思っていた。
しかし、いつまで経っても攻撃の当たる衝撃が来ない。それどころか、プティマージたちの断末魔が聞こえて、リュゼはようやく異変に気づき、目を開けた。
すると、炎の渦は対抗するように現れた竜巻に押され、プティマージたちに向かい威力を倍加された状態で襲いかかる。風竜巻の威力が相当だったらしく、プティマージたちの本体であるローブは塵も残さず吹き飛んだ。
逆巻く風であの渦に対抗するとは……リュゼにはなかった発想である。が、何よりもリュゼが驚いたのは、その詠唱だった。
先程の「風よ」という言葉以外に詠唱らしい言葉は聞こえなかった。何か印を使ったのかもしれないが、その割には魔法の発動までの時間が短かったように思う。ここは「風よ」という言葉だけで風魔法を発動させたと考える方が妥当だ。
リュゼは声のした斜め前方に目を向ける。そこに立っていたのは、ローブを目深に被る人物。体躯は男性にしては華奢だが、女性にしてはしっかりしているのではないだろうか。ローブに体型が隠れてほとんどわからないが。そんな人物が立っていた。
リュゼには当然わかった。その人物の保有する魔力の量と質が。
だが、目を見張るべきはその技量。立ち位置から考えて、先程の竜巻はその人物が詠唱して発生させたものだろう。だが、詠唱は「風よ」だけだった。
通常、セフィロートにおける魔法の詠唱は、その属性物──風属性なら風、水属性なら水に呼び掛け、命令するものだ。その形式が最もやりやすいと何千年も前に定められ、推奨されている。言葉が多ければ多いほど、魔法はしっかり組み上がる。
ただ、何千年も昔にあった原語魔法や、それ以外の詠唱方法がないわけではない。今斜め前方に立つ人物のように、属性を唱えるだけで魔法を発動させることもできる。今まさしく成されたように。
しかし、それはかなり高度な技術なのだ。魔法は魔力という力に言葉という制限をかけることで成り立つ。制限が細かければ細かいほど、より精密かつ繊細な魔法が発動できるのだ。それをたった一語、属性の名を呼ぶだけで魔法という形を成すには、まず、自分の魔力を相当飼い慣らさなければならない。
魔力は一応、意志によっても発動する。トラウマを恐れて、リュゼがその大量の魔力を発動させたように。その意志を確実な形にしたのが言葉というものだ。言葉は謂わば、魔力を魔法にする型のようなものである。
その型の形がはっきりしていればいるほど、目標の形に近づくのは当然だが、魔力を飼い慣らす──つまり、自分の手足のように操れるようになることによって、魔力は詠唱を多くの言葉で連ねなくても魔法という形になる。型抜きはなしで自分で成形するのだ。
魔法使いの間で、その究極とされるのが、先に見た「風よ」のような属性の名を呼ぶだけという詠唱だ。セカイで最も短い詠唱である。
魔法は自然の力を借りるものであるから、属性物には必ず呼び掛けなければならない。だから、詠唱もなく発動させることはできないが、その詠唱を極限まで短くすることはできる。ただし、そのためには魔力を飼い慣らし、高度な技能、思考能力が必要とされる。
目の前のローブの人物が果たしたことは、セフィロートにおいては離れ業に相当するのだ。
「すごい……」
リュゼの口から思わず感嘆の声が零れた。その声に反応してか、魔法使いが振り向く。
「怪我はないですか?」
声から察するに、男性のようだ。だが、男性にしては高めの声ではある。
リュゼは「あ、はい」というどこか間の抜けた返事しかできなかった。それだけその男性の魔法の技量に圧倒的されていたのだろう。男性は咄嗟に高威力の魔法を放ったにしては息も乱れておらず、涼しい顔をしている。……といっても、その人物はかなりフードを目深に被っていて、鼻の頭がぎりぎり見えるかどうかといった感じだ。よくそれで前が見えるものだと思う。
「お仲間は森の魔物にでもやられたんですか」
男性は顔をリュゼが背負うリヴァルの方に向けて訊ねる。そこでリュゼは渋面にならざるを得なかった。
リヴァルと戦っていた氷の剣士は化け物みたいな強さだった。人間のようだが、魔物と称しても過言ではあるまい、とリュゼは渋面ながらにぎくしゃくと頷いた。
「森は魔物が多いですから、早く出た方がいいですよ。ここいらは魔法が盛んな都市コクマが近いだけあって、プティマージやプティトレットマンがよく出るようですし。この森を荒らしたら、守護者である土の民が黙っていません」
そう、先程の氷の剣士で失念していたが、この森を守る存在は他にもいる。この森の土から生まれ、この森を守る使命を担う魔物の一族、土の民だ。土の民は人間とは全く違う容姿をしていて、人の形をしているが、全身が土塊でできており、その体は人間より遥かに大きい。有名どころで行くと、魔王ノワール四天王の一角であるアミドソルは人間の倍くらいの体躯を持ち、素手だけで何人もの人間を千切っては投げ、千切っては投げ、とした逸話がある。
そういうものを呼び寄せなくて済んだことに一時的にほっとするも、リュゼはコクマに行くまでの道のりを考え、青年を見上げた。
「……よければ、コクマまで護衛をしてほしい」
それは護衛だけでなく、同じ風属性の魔法使いとして何かを掴むきっかけとなると思った。
青年は穏やかに微笑んだ。
「もちろん、いいですよ」
風がふわりとそよいだ。




