クライム渓谷の戦い
クロウは英雄的死を望み結果的に異世界の戦場に赴くことになったのだが、クロウは悩んでいた。
結局自らの死を目前にして臆するのではないかと。
逃げ出すのではないかと。
(こんなことを考えている時点で俺は死が怖いのだろうな……と言うよりも命が惜しい)
元の世界でもこの異世界でも、生きている価値がないのに?
生をただ食いつぶしている自分の命がそんなに惜しいの?
そんな言葉がクロウの頭をよぎる。
それでも、死を恐れ生に執着するのはヒトの本能である。
とはいえ、ここで逃げ出す訳にはいかないのだ。
恐怖に怯え無様に逃げ回れば、それこそ本末転倒。
そのためにクロウがしなければならぬこと。
それは、自分の気持ちを昂ぶらせること。
暮井九郎は勇者であると。
勇者クロウはサウスエンドの救世主であると。
「勇者殿」
クロウの後方からセシルの声がする。
「ああ。馬の準備が出来たんですか?」
「いえ。馬は今手配中です。その前に湯の準備が整いました」
「湯?」
急がなければ戦闘が始まってしまうというのにどういうことだろうか。
「勇者殿には準備が整い次第城下町の中央を私と共に通ります。民には勇者という存在を誇示しなければなりませんので――失礼ながらその格好ではと」
確かに。
クロウの案は、勇者の死によって騎士団と王国民を奮起させ士気を上げるというものだ。
その勇者が、ギトついた髪と生やしっぱなしの無精髭で民に顔を出すわけにもいくまい。
「ああ。わかりました」
クロウは他人から見る自分に対しては無頓着であった。
少し考えれば分かることなのに気づかなかった自分に自虐的な笑みが自然と零れた。
「では、私は勇者殿の着る鎧と剣を手配してまいります」
そういうとセシルは踵を返し、その場を後にしようとした。
「あー。服はこのままで行きます。」
クロウは、セシルを呼び止めそう言った。
「……それはどういう」
「王国民には異世界の勇者を見せなければなりません。だから、俺の世界の服じゃないと意味ないんですよ――その代り」
「その代り?」
クロウは出発前にあるものを身に着けて行こうと決めていた。
クロウが自らの心を昂ぶらせるために必要なもの。
「少し大きめの赤い布を用意して下さい」
「赤い布……ですか」
「はい。必要な物です」
「は。わかりました」
クロウは心の中で滾る。
(ヒーローといえば赤いマフラーだろ)
「勇者殿――ひとつだけ」
「はい」
セシルはその時。
神妙な目つきで言った。
「貴方は一時的であれど勇者なのです。知らぬ土地の知らぬ民を救う勇者なのです――ですから私に敬語など使わぬよう」
その瞳と表情には、クロウに対する悲哀の感情と、それを押し殺そうとする強き意志が込められていた。
「……わかった。ありがとう――セシル」
「は」
◆ ◆
妙に広い風呂の片隅で、クロウは肩まで湯に浸かりながら天井を眺める。
おそらくは貴族や騎士達が入る共同風呂なのだろうが、今はクロウの貸切りである。
精巧に掘られた女神像の掌から湯がわき出ている。
(こんな風呂アニメでしか見たことないな)
今までの緊張と疲れがじわりじわりとほぐれていく。
そんな快楽にも似た感覚の中クロウはふと断片的に過去を思い出す。
『先生九郎君が寝てました』『九郎だらだらすんなって』『おい、ちゃんと髭そってこいよ』
『ミス多すぎるぞ』『もう帰ってもいいよ』『つぎからは頼むよ』『はあ』
中学、高校、大学、社会人。
様々な場面が脳内に浮かんでは消えた。
そしてあれは大学をやめる少し前だったか。
クロウが自身の無能さに頭を抱え死にそうな顔でもしていたのか、ある先輩が言った。
『九郎、お前は生きてるだけでいいんだ』
その言葉はおそらく励まし。
生きているだけも勝ちとか、生きていれば良いことがあるとか、そういった類の励ましだったのだろう。
しかしクロウはその優しさを理解した上で、別の意味を考えた。
ただただ生きていることに意味があるのだろうか。
生物である以上生きることは前提なのだ。
生きているだけというのは――人間じゃなくてもいい。
先輩の言葉は徐々にクロウ本人の言葉にすり替わった。
(九郎、お前は生きているだけだ)
……その時クロウは、暮井九郎は死んだ。
すぅ。とクロウは空気を吸い込み、顔を湯にゆっくりとつけた。
「■■■■■■!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!! ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!?」
水中で叫ぶ。
自分でも何を言っているかわからないほどに。
ぶちまけた言葉に意味すら含んでないのかもしれない。
羞恥、私憤、様々な感情を吐き出した。
その後顔を上げ、乱れた呼吸を整える。
「ふー。……死にたい」
その時のクロウの表情は、小説風に例えるとするならばそう――目から光が失われていた。
◆ ◆
クロウが風呂から上がり、いつもの服に着替え、外に出ると出入り口にはセシルが丁寧に畳まれた赤い布を両手に持ちクロウを待っていた。
「勇者殿? もうよろしいので?」
変なところで疑問符がついているが、それはセシルが風呂から上がる前のクロウとその後を見比べた結果、あまりにも見た目の差があったからであろう。
もともとクロウの髪質は良い。何日も洗っていないギトついた髪はさらりとし、無精ひげは少し危なっかしいが備え付けのナイフで剃り落とした。
「ああ、すっきりしたよ。ありがとう」
「いえ。ではこれを」
そう言ってセシルはクロウに全長1、5メートルほどの赤い布を差し出した。
クロウはそれを片手で受け取りぐるりと首に回し余った裾を肩へ送る。
「それじゃあ、いこうか」
もう覚悟はできた。未練はない。くだらなかった過去を終わらせよう。
さあ、戦地へ。
さあ、死地へ。
赤いマフラーをなびかせ、クロウはセシルの後に続く。
この国の平和のため、人柱になりに行こう。
◆ ◆
「セシル」
クロウはセシルの駆る馬に乗り、後方のサウスエンドの街並みを見ながら言う。
「はい。なんでしょう」
「町の人たちは何とも言えない顔だったな」
城下町を抜けるだけだったが、勇者が戦場へ向かうという噂は広まっており、一目見ようと中央の道沿いには多くの人が集まっていた。
「みな不安なのです。不意打ちとはいえ国の騎士達はことごとく死に、魔王軍はいつせめて来るともわからない。それにノストランド軍の方もどう動くか……」
「ノストランド? それは初耳だな」
「そういえば話していませんでしたね」
セシルはクロウに話す。
ノストランドとサウスエンドが西の地を求め争っていたこと。
西の地デスバレーで魔物の大軍勢が沸きだし、魔王国とよばれるようになったこと。
そのせいでサウスエンドに多大な被害があったこと。
ノストランドに休戦を求めるが拒否されたこと。
しかしもちろんその説明はクロウにとって無意味なことであるが。
セシルの説明があらかた終わり、クロウが「へえ」とだけ返すとその後は沈黙が流れる。
馬が土を蹴り駆ける音だけが響いた。
平原を越え、広い荒野にさしかかったところで遠目で山が見えた。
セシルは馬を駆りながらクロウに言う。
「あれがクライム渓谷です。谷を抜ければそろそろ先遣隊と合流できます」
沈黙するクロウ。
「勇者殿?」
セシルが呼んだところでようやくクロウは「ああ、ありがとう」とだけ返した。
表情は変えていない。ただクロウの内心は山が近づき徐々に大きくなるにつれ、穏やかではなくなってきていた。
(あれ、何をしに行くんだっけ? ああ、死に行くんだっけ――は? 何故、どうしてこうなった勝手に変な世界に連れてこられて骨に殴られて裁判にかけられて死刑宣告されて死刑台に送られてなくても結局死ぬとかどういうことだよ格好よく死にたかったから? 意味がわからない何故そんな結論に至ったんだよ俺は馬鹿じゃないのか? 大体勇者が死ぬことで指揮が上がるって本気で言ったのか逆に勇者でも歯が立たないからって指揮が下がるんじゃあないのかそんなことも予測できなかったのか俺は馬鹿じゃねえのかこの国になら命を捧げるのに値する? たった半日で何がわかるんだくそがやめろよ何言っているんだ俺はそうでも思わないとやってられないからだろう? わかってるそれでもそう思ってしまうのは――怖いから……こわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこいわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい――――――――死にたくない)
クロウの感情は完全に恐怖に支配された。
見えない敵。見えない戦場。見えない未来の自分。そして、わからない死後の世界。
想像が想像を膨らませクロウが思う恐怖そのものが頭をよぎる。
こんな状況から一刻も逃げ出したい。そうクロウが思ったところで馬の足は止まらない。
進む景色、小さかった山も徐々に大きくなり、クライム渓谷の入り口はまるで化け物が大口を開けてクロウを待ち構えているようにも見える。
その入口の前で馬が止まる。
「ここを抜ければ我軍と合流できます」
セシルはそういうとチラリとクロウの顔色をうかがう。
その振り向く動作を見、クロウは少し顔を下げ表情を隠す。
そして自分でもこんな声が出るのかと驚くくらいの低い声で「わかった」とだけ返した。
セシルの顔も見れない。だがおそらく表情は曇っているのだろう。
無言のままセシルは馬を再度駆る。
しかし、渓谷の入り口には入らず崖を登りだした。
「上から行くのか?」
「いえ、魔王国側は完全に絶壁になっているため、抜けるには先ほどの通路を通るしかありません」
では、なぜ登るのか。つづけてセシルは言う。
「まずは我隊を指揮している指揮官に会いに行こうと思います。彼に話を通してから……戦場に……向かいます」
セシルは見ていたのだ。クロウの表情を、うつむいていてもはっきりと見て取れる青ざめた表情を。
だからこそ言葉に詰まる。
そしてまた沈黙が支配する。