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過去と未来と我が人生

作者: 淡野 浅葱

 私がチェロという楽器を知ったのは、中学にあがった時だった。あのとき私の人生は確かに変わった。端的に言えば、一目惚れをしたのだ。


 アップライトとは言え、当時、私の家にはピアノがあった。何代か前の西洋かぶれのおじいさんが遺したのだと言う。そのせいもあってか、私は幼い頃から音楽が好きだった。一時期などは本気でピアニストを目指してもいた。周りからもそれを勧められた。


 けれど、チェロ。あの素晴らしき楽器に出会って、私はそれに見惚れた。今でも忘れはしない。当時の私の背丈ほどもある黒いケースに収まった美しいボディ、鈍く光る四本の弦、横に突き出した黒い四つの突起、エフ型に空いた吸い込まれそうな穴。弓もまた格別だった。白くキラキラと輝く何百本もの馬の毛、それを束ねて張ってゆく先輩の手つき……。その全てが、私を虜にした。


「これ、なんて言う楽器ですか」


「チェロだよ。バイオリンチェロって言うんだ」


 早口に目を輝かせて尋ねた私を、沢村先輩は嬉しそうに笑いながら優しく見つめた。短く、さらりとした黒い髪に蛍光灯が反射して、天使の輪が出来ていた。


「弾いてみるかい?」


 見るからに好青年と言った風の彼の言葉に、一も二もなく頷いた。椅子に座って構え方を教えられ、初めてあの低い音を出した瞬間、私の青春は、音楽に捧げられる事が決定したのだ。深い、腹の底に響く低音のドはそれだけ美しかった。


 それから幾数年。高校、大学に至るまで続けたチェロだが、私は社会人になると同時に諦めた。続けて行く事を、ではない。音楽によって身を立てる事を、である。私はこう考えた。私には才能がない。才能がなければ、続けても身を立てる事は出来まい。趣味としてだけ続けよう、と。


 何年も、何年も、当たり前に日々が過ぎた。ピアノ好きな優しい妻と、冒険好きの娘、心優しい息子にも恵まれた。彼らを説得してチェロを買い、休日にはよく弾いた。子供も音楽が好きで、しかしそれだけだった。やはり音楽を生業にはしなかった。


 いつしか、彼らは私たちから離れて行った。しっかりやれ、と笑って送り出した。子供のいなくなった家に残された妻とよく笑い、話し、時たま演奏し、変わらない平凡な暮らしをしていた。


 それで十分だと思っていた。


「ごめんください」


「はいはい、今行きますよ」


 今年の春、隣の家がにわかに騒がしくなった。引っ越し業者のトラックが出入りするのを妻と眺めていたら、いつの間にか終わった。その日のうちに新しい隣人が菓子折りを持ってやってくる。珍しい事ではない。長く生きていれば、いつもではなくとも経験する事だ。妻のあとについて、客人の顔を見に出る。


「この度隣へ引っ越してきました、宇田川と申します。息子がバイオリンを弾くのでご迷惑をかけるかもしれませんが、よろしくお願いします」


バイオリンを弾く、と告げる瞬間に眉間が狭まった。いわゆる「教育ママ」というやつだろうと判断する。子供が勉強以外の事にうつつを抜かしているのが気に食わないのだろう、娘のクラスにもこんな母親がいた。


「まあまあ、わざわざありがとうございます」


 妻はにこにこと菓子を受け取った。私は黙って頭を下げた。


 ほどなくして、隣の家からよくバイオリンの音が聞こえるようになった。あまり力の強くない、柔らかい弾き方は小学生を思わせたが、その技術レベルは決して中高生にも劣らないように思える。


「なあ、聡子」


「なんです」


「隣の子は、いくつぐらいだろうなあ」


 答えを求めて訊いたわけではないが、彼女は笑って知っていますよ、と言う。


「この間聞いたのよ。小学校二年生になる男の子ですって。音楽は何でも好きなそうだから、あなたや私が弾いていたら来てくれるかもしれないわね」


 その答えを聞いて、妻も少し寂しいのだと気づく。一年ほど前に家を出た下の子もあまり帰ってこないし、上の子はしばらく海外に行きっぱなしで帰ってくる予定はない。


「……聡子」


「なんですか?」


「最近はやっている映画の、ほら、何と言ったかな……氷姫みたいなアメリカの映画。あれの主題歌の、ピアノとチェロのヴァージョンがあったんだ。もっとも、チェロは多重録音のようだから、少し編曲はしなければならないが」


「あら、それじゃあ今度弾いてみましょうか」


 みなまで言わずともこちらの意志を汲み取ってくれる妻に、私は内心舌を巻きながら楽譜を買ってくるために立ち上がった。


「ついて行きますよ」


「ああ」


 しばらくすると、妻と練習するたびに庭の垣根のあたりに子供の気配がするようになった。何度目かで妻も気づいて、私たちは顔を見合わせて笑った。


「あなた、どうします? 可愛らしいお客様を、お呼びする?」


「そうだな。混ざってもらっても良いし、聞いてもらった方が張り合いがある」


 妻はそっと、古いアップライトから離れて、垣根に近寄った。


「もしもし、可愛い音楽の好きなお坊ちゃん。良かったらおいでなさいな。私たちの音楽会に、どうかいらして」


 本の好きな妻はふとした時に詩人になった。


「……まあ、それはそれは」


 少し遠いから、私には垣根の向こうの少年の声が聞こえない。


「それじゃあ、待っているわ」


 妻は微笑みをたたえて戻ってきた。


「お母様が買い物に行ってらっしゃるんですって。それで、帰ってくるまでに宿題を終わらせれば遊んで良い約束になっているから、急いで終わらせてくるそうですよ」


「ほう」


 私は懐かしく子供たちの幼い頃を思い出した。同時に、自分の幼少期も。宿題を終わらせれば自由の身、そうしなければ遊べない、というのはいつの時代も変わらないらしい。


「それでは、それまでの間もう少し弾いていようか」


「そうですね。何曲か他のもさらってみましょうか」


 新しい曲も、古い曲も混在する楽譜の束を何枚もめくっているうちに、玄関のインターホンが鳴った。


「はーい」


 おそらく隣の少年であろう幼い無邪気な声と、ヒステリックな奥さんの声に妻が応対する。後ろから覗き込むと、


「うちの息子は○○中学を受験するんです。音楽ばかりやっていては困ります」


「優秀なお子さんですねえ。けど、勉強ばかりしているよりは適度に音楽とかやった方が良いと思いますよ。現にピアニストの方々なんて頭が良いじゃありませんか」


「他人のあなた方に何が分かるんですか!」


「あらまあ、ごめんなさい。けどねえ、お子さんのバイオリンは本当に素敵なんですよ。時々で良いからうちにくるのを許してもらえません?」


 私はため息をついた。彼女らの前に出てゆくつもりはない。私は口べただから、きっと火にガソリンを注いでしまうだろう。窓を開けて空気の入れ替えをしているうちに、聡子が子供を連れて戻ってきた。


「あなた、終わりましたよ」


「ああ」


「一日一時間なら良いですって。まったく、昨今の教育ママは困りますねえ」


「私たちの時代にも居たんじゃないか? 私たちがそうでなかっただけで」


「そういうものかしら……」


 宇田川家の子供はおどおどと私と妻の顔を見比べている。


「あ、あの……」


「ああ、自己紹介がまだだったわね。私は梶聡子。こっちは旦那の梶雄一。よろしくね」


 私はやはり、黙って小さく頭を下げた。


「あ……僕は、宇田川充です。充足の充でミツルって言います」


「ミツル君。よろしくね」


「よろしく」


「よろしくお願いします」


 彼はバイオリンを持ってきていた。


「さ、まずはどうする? 私たちの演奏を聴きたい? それとも一緒に弾く?」


「私は充君の演奏を聴きたいな」


「えっと……さっき弾いてた、映画のやつ聞きたいです」


 少年は私と妻の表情を見比べたあと、小さく意見を述べた。どうにも、引っ込み思案な子のようだ。


「まあ、あれね。私大好きよ。じゃあ弾いてみるわね」


 聡子がピアノに腰掛けたのを確認すると、私はチェロの弦をはじいて音を確認した。合っている。


「ミツル君、そこの椅子に座ってて。楽器は床におろしちゃっても、テーブルの上でも構わないわ」


 彼が楽器を床におろしたのを確認して、私は妻と目を合わせた。すっと息を吸い、弾き始める。ゴリゴリと弦を鳴らすチェロと跳ねるように音が叩き付けられるピアノの前奏が終わり、もとの曲では歌に入る。少年は目を輝かせて聴き入っていた。


「……ふう」


「最後まで聞いてくれてありがとう、ミツル君。どうだった?」


「すごい! めっちゃすごい! ちょーかっこいい!」


 妻の問いに、彼は飛び跳ねながら答える。年相応に幼い行動が微笑ましい。


「ありがとう、嬉しいわ」


「すげえ! おれも一緒に弾きたい!」


「もとの楽譜がピアノとチェロだったからこれは無理だな。違う曲ならあるが」


「練習する! どんなやつですか?」


 さきほどのおどおどした様子はどこへやら。呆れたが、おそらくこちらが普段の姿なのだろう。ぴょんぴょん飛び回る彼に、私は尋ねる。


「ところで、充君はどのくらいのものが弾けるのかね。それがわからないと楽譜も選びようがない」


「充でいいですよ。んー、どのくらい……? ちょっといくつか弾いてみます」


 彼が音を調整している間に、妻がお茶を淹れてくれた。


「忘れてたわ、あんまりにも楽しかったから。うふふ、大したものじゃないけど、お菓子もどうぞ」


「ありがとうございます! お菓子はあとで食べます!」


 あごでバイオリンを挟み、真剣な目で弓を構える。そして、彼は何曲か披露してくれた。多くはバイオリン二重奏だったが、自己流に弾いたのか、ポピュラーな曲も数曲混ざっていた。


「……今持ってるレパートリーはこんな感じ。家の楽譜には他にももう少しありますけど」


「いや、十分だよ」


 彼の音は素晴らしかった。柔らかく、それでいて芯の通った、まだ幼いとは思えない格好良さがあった。


「格好いいわぁ」


「本当に」


 妻の声に同意する。この子と弾きたいと思った。


「プロになれると思うわ、きっと」


 その言葉を聞いて、充の顔が少し曇った。


「……できればそうしたいけど、受験するから。それに、母さんは音大に行くのを許してくれないと思う」


「あら、どうして?」


「母さんは音楽が嫌いなんだ。父さんが、バイオリン奏者なんだけど、最近は海外にいてほとんど家に帰ってこない。おれ知ってるけど、海外のすげえピアニストに惚れ込んじゃったんだよ。あいつの音はすげえって、こないだも言ってたし。んで、その人も父さんのこと、あいつのバイオリンはいい、できればこっちにずっと居てほしいって言ってるしさ」


 少しほほを膨らませて、充はバイオリンをテーブルの上に置いた。


「母さん、奥さん孝行な旦那が良かったんなら父さんを選ばなきゃ良かったんだよ。おれは音楽好きだしさ、音楽の勉強するのも好きだしさ、出来ればプロになりたいけど、あの母さんじゃあ許してもらえないと思う」


 私と妻は言葉を失った。小学校二年の子供がもう夢を諦めているのが、あまりに衝撃的だった。


 私は、この子には諦めてほしくないと思った。


「……充」


「え?」


「私もね、昔プロのチェリストになろうとしていた。けれど、私はいかんせん始めるのが遅かったし、多分、音楽全てではなくて、ピアノとチェロ、それから弦楽器が好きだったんだ。音楽史のテストは得意じゃなかったし、好きでもなかった」


 そう、あの頃音大に進む事を諦めたのもそのためだった。音楽を聴く事や演奏する事は好きだったが、音楽史や他のそれに関わる事を学ぶのはあまり得意ではなかった。だから、興味のある経済分野を選んだのだ。


「君は違う。音楽を勉強する事も好きなんだろう? だったら、まだ諦めちゃだめだ。お母さんを説得するのは、大きくなってからもできる。だから、今から諦めるなんて悲しい事をしちゃだめだ」


 言いながら不思議な気がした。私は音楽好きの家のために音楽を続ける事に反対されなかったのに趣味にし、この子は家のために反対され、諦めようとしている。


「……おじさん」


「なんだ」


「おじさんは、おれのバイオリンいいと思う?」


 迷わずうなずく。


「やめたら、もったいない?」


「もったいないわ。とてもいいものを持っているんですもの」


 妻が口を挟む。その通りだ、と思った。充は、少し考えて、バイオリンを手に取った。


「わかった。まだ、諦めないでおく」


「そうか」


「ってか、いいって言ってくれてる人がいるのにやめるの、もったいないしなんかいやだ」


 私は笑った。子供らしい無邪気な言葉が、嬉しかった。


「それじゃあ、一緒に弾ける楽譜を探そうか」


「あ、うん!」


「ピアノ三重奏ですねえ」


「何があるの?」


「私の楽譜も持ってくるわ」


 ぱたぱたと駆けて行った妻を見送り、何枚かの楽譜を選別する。これは簡単、これは難しい、といいながら楽しそうに笑う充を見ながら、私は予感めいた何かを感じた。

 どうも、淡野浅葱です。


 「諦め」をお題に書きました。こんな重いネタをぶち込んできた一年生にも目を剥きましたが、それにノリノリで賛成する他の一年生及び二、三年生にも驚きました。君ら、どんだけ暗いネタ書きたいの。


 さて、中身について。完全に最初の方がチェロへの萌え語りと化していますが、本当にチェロは美しいです。格好いいです。何がって全部格好いいです。それを演奏している先輩とかも格好いい。


 作中で夫婦が演奏しているのは某アメリカの作品で、氷の城に閉じこもるお姉さんを無神経な妹が引きずり出しに行く感じの映画の主題歌です。曲名に、チェロとピアノを加えて動画サイトで探してみてください。充君の言葉を借りますと「ちょーかっこいい!」演奏の動画があります。


 楽しんでいただけたら幸いです。


 では、またお会いできる日まで。

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