スティリコネス
段周平(推理小説家、随筆家 2082-2170)
エッセイ集『私の祖父』より
「幼い頃の記憶だが、横浜で警官をしていた私の祖父から聞いたことをおぼろげながら覚えている。何でも祖父はその出自のせいで非常な苦労をしたらしい。夜、食事の前になるとよく救国戦争前夜の世相について色々教えてくれた。その中には、教科書には載っていないようなことが大勢あったが……」
2046年
段清煜は、道行く人々を興味もなさげに見ていた。
こうしている人々に一種の冷淡さを覚えたものだが、むしろこれがこの町で生きていく上での最適解なのだと理解するようになった。
いずれにせよ、顔を合わせれば合わせるほどに、住民に私情を交えてはいけない、ということを強く自覚するようになった。
毎日毎日、無駄な仕事や些細な取締ばかりが多い。
ドアンはそれによって本当にさばくべき悪を取り逃がしてはいないかという不安に駆られるのである。
それどころか、世間一般においてどこまでか平和で平和でないかの水準が下がっているのではないかという疑念は一層強かった。 数年前よりも人々は、この混沌に慣れてしまったのではないか。
このご時世、警官とは非常に嫌われる職業である。
彼らは人間の詮索をしている。ましてや外国人の両親から生まれた人間とあっては、抱かれる恐怖心はなみなみなものではなかった。
両親は周囲の大和人とはうまくやっていたが、より広い日本社会を憎悪していたのだ。
ドアンは親の反対を押し切ってこの仕事に就いた。
そして、市民からの偏見は根強い。
移民を出自とする人々が公職や政界に進出すれば進出するほど、どれだけ新たな差別意識が醸成されたことか。そしてそれがなくなる時にはまた新しい差別が生まれるのだ。現代にはまだ存在しない集団、あるいは悪意の対象とされなかった人々を対象に。
その事実に、ドアンは憤った。
人間が人間である限り、どこまで行っても区別は生まれ、そこから悪意のつけこむ隙が生まれる。それは今も昔も変わらない。だが今では、その悪意はもはや抑えきれない。
ドアンもかつては理想に燃えていた頃があった。
平成や昭和の頃の、きちんと社会がうまく回っていた頃を取り戻したかった。しかし、それは困難だということをたった数年でいやほど思い知らされた。特定の誰かが悪いわけではないのだ。
これをただすためには、膨大な量の人間の協力や、運が必要になる。ドアン一人ではどうにもならない問題だとわかってしまった。しかし、だからとって堕落してしまえるほどドアンは邪悪にはなれなかった。自分一人が動き出さなければどうにもならない。
ゆえに、常にこの街のあらゆる闇に眼を光らせねばならない、とドアンは確信していた。
しかし、その闇に眼を向けようにも、もやがあまりにも多すぎる。
両親が日本に移住した後に彼は生まれたのだ。ゆえに、彼は祖国を日本だけだと思っていた。にも拘わらず、周囲の人間は知らない遠い先祖まで、彼の生まれ育った経緯を聞き出そうとする。しかし、それは彼にとっては断絶した、記憶の欠片のようなものなのだ。大切なものではあるが、楔を打たれ、ある程度の距離をもって遠のいている過去なのだ。
父母は、息子をこの国に埋没させまいと育てたつもりなのだろう。しかし息子の方では親の意向に従うつもりはなかった。人は二つ以上の祖国を持ちえないからだ。
親の国がかつてはそうだった。分断された国が戦争で統一され、敗北した者は過去の歴史を誤ちとして認めさせられたのだ。
何をもって自分の祖国とするか。これを他人に語ろうとするだけでも胸がふたがる。しかも、そうせねばならない経験がいくらでもあった。
この街には数年前から、面妖な連中がはびこっていた。遺体の清掃やごみ拾いをする集団だ。彼らは様々な顔立ちの人間が集まり、雑多な寄合所帯であった。それだけならまだいいが、問題なのは彼らが暴力沙汰を起こす噂に絶えないことである。社会からあぶれた連中であることは確かなのだ。そして、そういうはみ出し者を排斥しようとする集団との抗争はもう何回も報道されていた。実銃を持ち出した、などという話すらある。
この頃は選挙が近づき、色々な所で政治に関わる議論が交わされていた。そしてそこに、煽動で人々に波乱をもたらそうとする一派が混じり、都市はいつもよりも殺伐だった。
あの集団は、きっとこの時期になると何かをしでかすに違いない、とドアンは信じた。
ドアンは、自分を彼らと同じ存在であると思いたかった。
にも拘わらず、ドアンの中の誰かに優越していたという意識は、彼らへの蔑視の感情が奥底に見え隠れしていることを隠せなかった。まさにそれによってドアンは特権的身分に陥ってしまったことを恥じずにはいられなかった。
そのような人間が過去にもいたはずだ。一体こんな身の上の人間は、どうしていただろう?
ドアンは、それが知りたくて、ローマの歴史に関する本を読んでいた。
元から歴史に関しては興味があったが、今の時代は、かつてのローマの末期に似てはいないかという直感があったからだ。
特に、スティリコという人間にドアンは親近感を覚えた。蛮族の血を引きながら、ローマ帝国の将軍として同胞に刃を向け、帝国の防衛のために命を捧げた英雄だ。しかし皇帝ホノリウスをはじめ、お偉方たちはスティリコを生粋のローマ人ではないという理由で疎んじ、ついには命を奪うに至ったのである。そんなスティリコの生涯が自分に重なった。
今やスティリコが毎日、日本や世界中で次々と生まれてきている。
ホノリウスもだ。
そんな気難しい身の上とならずにはいられない彼に唯一、親しく口をきいてくれるのは、栗田実広という同僚だった。
この男は元々特殊鉄鋼の社員だったことがあるといい、ことあるごとにその内情を聞かせてくれた。ただ、それがどこまで真実かはわからなかった。あれほど大規模な組織の末端社員が、その全容を知っているはずもない。ある意味、この男の存在も、もうすでに治安を維持する者たちでさえ怪しげな何かに支配され、乗っ取られている事実の証ではないかとドアンは、いぶかっていた。
ある時、栗田にドアンが自分の心境をそこはかとなく語っていると、彼はこう答えた。
「哲雄さんみたいですね」
元々特殊鉄鋼で勤務していた人間の話を盗み聞きしていた。
「哲雄? 誰ですかそりゃ」
怪訝な声で。
「特鋼に渡辺哲雄って人がいるんですよ。以前仕事で一緒になりましてね……今後の日本について考えていたんです。『誰がこの世界を担うんだ?』とよく言ってたんですよ」
「そいつ、仕事はできるんですか?」
「そこそこやってたみたいです。自衛隊に短いながらも所属してましたけど、そこじゃ満足できないってことで特殊鉄鋼の軍事部門に移ったそうで」
哲雄という人間の名前を、すぐにドアンは忘れた。
「どうせ俺たちには関係のないことですよ。どうせまた思い出すこともないでしょうし、言ってみたまでです」
ドアンは、黙っていることにした。
どちらにしても、彼らを一人の人間としては見ていない。何より少しでも大和人としての要素からそれるものが見いだされれば、それは国民ではなくなってしまう。
異なる他者が意図せずして交わることは災害と同じようなことだ。災害に遭った時の人間は、災害に遭った時の反応しかしない。つまり、その時点で人間らしさなどというものは消え去る。その極端さが世間には表れているように見えた。
この街では、違う者同士の交流がかつてはあった。だがそれは次第に、予期せぬ対立を避けるために減っていった。
西とは違い、東ではこの分断は根深いものだ。都市の中に、見えない壁が置かれ、その間に人を往来することはほとんどない。結局、干渉せずに済ますのが一番ということになってしまう。そしてそれに不満を持った者が衝突を起こす。
特にここ数年は暴徒による議員への襲撃事件が多く起きた結果、政治家が武装した護衛を引き連れていることは特に珍しい光景でもなくなってしまった。政治的な意見の近しい者を守るために馳せ参じる人々が、別の一団に暴力をふるうことなど一度や二度ではない、
そしてそれが一層人々を派閥意識へと引き込み、余計に他者への無知や偏見を厚いものとしてしまう。
一度その悪習に染まってしまえば、他人がそれを直すことなど不可能に近い。
最近は選挙が近づくと、縄文主義者という連中が甲高い声で狂気を叫ぶ。
殴り合いにはしょっちゅうなり、以前はしばしば警察沙汰になっていたがここ数年になると血でも流れない限りさして注目されない程度になっていた。
休日、ドアンは連中の拠点となっている公民館の周囲を歩いていた。それは、外から見ればあまり危険な雰囲気を感じさせない建物だった。
ドアンは街を歩き、いろいろな人と話すのが日課だった。人々に直接触れ合って彼らの暮らしぶりを肌身で感じねばならないと思った。
この頃になると、むしろ数年前より人が多くなったような気がする。社会にまた別の空気感が漂ってきたような。空地となった場所では時たま演奏会なり演説を開くこともある。このように人の少ない場所であるからこその楽しみもまたあるものだ。だがそれを楽しめるのも、一体いつまでのことだろうか。
最近は、街のどこでも増築や改装することが多く、建物を新たに作ることはほとんどない。昔のように規模の大きい物件を立てるだけの業者も技術も存在しないからだ。
だからこの公民館も、種類の異なる建物を無理やりつぎはぎ合わせたような、ややいびつな見た目をしていた。きっと、そこまで見栄えのしない部分が最近になって建てられたものなのだろう。パチンコ店が今では役場になっていることなど珍しくないくらいなのだから。
そして、そこに出入りする者たちに対してドアンは関心を向けていた。
決して根は悪くない人たちなのだろう。彼らは遺体の清掃を行い、あの施設を出入りしている。行政が解決してくれない問題を請け負ってくれたので、住民にとって彼らはなくてはならない存在だった。だがむろん、それはドアンたちにとってはあまり好ましいことではなかった。彼らの存在はあくまでも非合法だった。そして、裏で汚い仕事をしているという噂は絶えなかった。それは決して偏見などではない。人々にとってやりたくない仕事をしているのだから、必然的に大っぴらにできないこともやるようになるわけだ。
そして例の拠点に、どこまで近づこうか迷っていた時のことだ。
浅黒い男が、目を細め、ドアンにゆっくりと近づきながら訛りの強い日本語で言った。
「お金をお願いします。食っていくのがやっとで」
ドアンは、それが演技だと薄々感づいたが、それがあまりに真に迫っていたので同情を起こさずにはいられなかった。そこで、なけなしの数千円の紙幣を差し出した。
「薬が買えます……。ありがとうございます……」
相手は弱々しい声で言った。
こっそり電柱の背後からうかがってみると、浅黒い顔は、もう元気な姿をしていたのである。ドアンは、案の定とわかってはいてもやはり面食らった。
ドアンがどこまで近づくべきか迷っていると、向こうの方から問うてきた。
「我々に何かご用件ですか?」
「いえ。散歩をしていたまでです」
「けれど、私たちに何か興味のある顔だ。先ほどもあの建物の周囲を歩き回っていたでしょう」
ドアンは、無関心を装って疑われるくらいなら、あえて本心に近い返事をしようと決めた。
「ええ。裏がどうなっているか確かめたかったものですから」
それから職務のことを隠したうえで、軽く自己紹介をした。ドアンが大和人相手に名前を口にするのを躊躇しなくなったのは、ここ二年くらいのことだ。
「岩部と言います。どうですか、お茶でも」
ドアンは中に案内された。
両手で頭を抱えながら、何かをつぶやいていた。周囲のことなど少しも眼中にないようだ。
しかし、彼らはそれが普通のことであるかのように、目もくれない。
「あのお方ですよ。私たちのお頭は」
若い男が耳打ちした。ドアンがこのことについて深ぼりすべきかどうか迷っていると、若者は神妙な面持ち。
「そういう人なんです。あまり、気を悪くなさらないでください」
「……どなたですか?」
「実は僕もよく知らなくて……でも、知らなくて大丈夫です。いい人には変わらないので!」
ドアンは、まず警戒した。
岩部は、よく掃除された部屋の中にドアンを案内した。
そこには肌の色も、顔だちも違う者が大勢いた。そしてその中に柿崎は凛として立っていた。彼より年配の人間も何人かいたが、それでも柿崎の得体の知れないオーラからすれば覇気が欠けていた。
柿崎のもとで、彼らは一つなのだろうとドアンは察した。
自分が招かれざる客であることを自覚せねばならない。
床と天井に、壁を取り払った跡があった。何かあった時に、この大広間に人を集めて何か活動をするつもりなのだろう。
何かの思想や信条をうかがわせるものは何もなかった。きっと外側の人間がやって来た時に何もあやしい所はないと言い張るためだ。
岩部は、急須から茶を湯飲みにくみ、先に飲んだ。それから、ドアンのためにくんであげた。
「……ありがとうございます」
それから、もう一人入ってきた。
マスクをした男が、怪訝な顔を浮かべた。
「見ない顔だ」
「この人は、怪しくありませんよ」
「上の人間だろう」
ドアンは、いよいよもって返答に窮してしまった。
そして、そこにもう一人現れた。
「初めまして。池田と申します」
先ほど顔を合わせたにもかかわらず、柿崎は初対面であるかのように挨拶をした。
ドアンは、それに合わせて挨拶した。明らかに、この男はただならぬ気配を漂わせていた。もし、下手に普通の反応をすれば何をされるかわからない。
「最近ここに暮らしたばかりですから。あまり知らないことが多いのです」 ドアンはとにかく、自分の正体を知られないように、適当なことをいうことにした。
「それはどれくらい前のことですか?」
「三年ほど前です」
ドアンは、嘘ではないが、本当のことでもないことを言った。もとからこの町に住んでいたわけではないのは事実なのだ。
柿崎は、ドアンが知らない言葉でマスクに何かを言った。するとマスクは居住まいを正して、
「ごみ拾いを行う」
彼らは静かにうなずいた。まるで家族のような息の合わせ方だ。きっと、ここにしか居場所のない人たちなのだ。
ここに、ネーションが成立する余地はない。
大和人ですらそういう気風に良くも悪くも移るのだ。いよいよもって日本人の定義その物が難しくなっていた。
ドアンは、彼らに不快感を抱いた。そしてそんな自分自身に嫌悪感を抱いた。こういう人たちのために奉仕しようと思ってこの道を進んだはずなのだ。それなのに、彼らに疎外感を感じてしまう。それを自分自身の問題とすべきなのか、社会全体の問題とすべきなのか、ドアンは判断に窮してしまった。
もはやここでは、現地民と移民の違いなどさほど問題とならない。その両者が区別しがたいほどに溶け合っているからだ。
この柿崎が本名なのかはきっと仲間たちも知らない。そもそも大和人であるのかどうかさえはっきりしない。ここでは、人間の過去について聞くことは禁忌なのだ。
『聞いてはいけない』というのが問題なのだ。きちんとした身なりの、日頃から付き合っているだけの間柄ならまだいい。しかし彼らはどれも『訳アリ』ばかりだ。
岩部は言った。
「どうです。僕たちは悪い人たちではないでしょう?」
ぶつぶつ言っているだけの人間は
「分かってくださいな。世の中では私たちをごろつきだと思っているようだが、それは違うと言いたいのです」
柿崎は自信満々に言った。
「あてにならない行政に代わって私たちはこの街を仕切っている。何しろ見てください、この傷を!」
そこに傷などない。しかし、否と言わせないだけの威圧感が柿崎にはある。
「見たところ君はここに来るべき人ではありませんね」
「何しろ、ここに来たばかりですから」
柿崎は穏やかな、しかし決してそう気を許しすぎないいかめしさをもって告げた。
「いや、単に見物目的であるのならそれでよいのですが。しかし先ほどからあなた、目が笑っていない」
ドアンは緊張した。
「まるで私たちを詮索しているような、そういう目つきだ」
「いえ。違います。理解したいだけなのです。みなさんがどういう風にお過ごしか。そしてお手伝いできることがあれば……」
事務的な口調が混じってしまった。
ドアンは今の発言を悔いたが、遅かった。
「つまりあなたは――」
突如、ぶつぶつつぶやいてただけの男がドアンに向けて銃を構えていた。
ドアンの心臓が高鳴った。
柿崎は手を振った。男は再び銃を下ろし、また何もなかったかのようにうずくまって静かにぶつぶつつぶやき始めた。
柿崎は笑った。
「私の早とちりでした。どうやら蚊が飛んでいたわけではないようでしたね」
柿崎は、まるで虫の音がしていて、それに耳を側立てていた、とでもいうかのようにふるまっていた。
ドアンは、笑顔を保つのがやっとだった。それ以外の反応をすれば間違いなく殺されていただろう。
もてなしてくれたのは善意などではない。相手の様子をうかがうためにそうしたに過ぎない。
「もう一杯、どうですか……」
柿崎は言った。ほかの人間もみな、相好よくしているように振舞っていた。だがそのすべてが、内在する冷酷さや凶暴さを隠すための飾りに過ぎない。
もし次に会えば、命はない。
ドアンは、もう二度と彼らに近づかないと心に決めた。
不愉快ではあるが、彼らがこの街にとってなくてはならない仕事をしているのは事実なのだ。そしてそういう非合法な組織に対して上からお墨付きを与えるような風潮がおそらく今後の社会では主流となっていくのだろう。これが、彼のカリスマなのだろう。多くの男を従え、
ドアンは、彼らと同じ立場であったにも関わらず、実際には彼らの上にいることにどうしようもない違和感と不快感を覚えた。
今更彼らの見方を気取っても、もはや嫌われるだけだ。
柿崎はドアンに対して笑顔を浮かべた。もはや、騙したことなど忘れているかのようだ。いや、相手に少しでも責めようとする気を起こさせないためだ。純真無垢な態度を装っておけば、誰であれそう責めようとする気にはなれない。柿崎はまさに人間の良心につけこんでいた。
数時間後、議員がいた。
ホノリウスだった。
護衛が控えていた。片手に持っているのはおそらくスタンガンだろう。
「我々の聖なる血を汚している!!」
彼らの誇りはただ一つ、血統だった。
ドアンは、自分と同じような身の上の人間が、素性を隠し、同胞であるはずの人間を誹謗している光景をいくらでも目にしていた。
二つの、あるいはそれ以上の集団が予期せずして邂逅した場合、そこには必ず何らかの作用がある。確かに、和解も不和もあるだろうが、それはただそこにあるだけで、何もないよりはむしろ望ましくないだろう。対応するのに時間と心の余裕を取られるからだ。
それで救われる人もいれば、そうでない人もいる。だがそうなってしまった以上、人々の中にいかなる善と悪があるのだ。
そうやって正義とも不義ともつかない積み重ねができた時。ましてや自分自身がその積み重ねである時、心の中に何を思い浮かべればいいのだろう。どうすれば、彼らに対して自分の存在を納得させられるのだろうか。今叫んでいる人間に憎しみを覚える意味が、一体どこにあるのだろう。結局存在しない
ドアンは、長い歴史の中で自分の存在を消し去りたくなかった。この国の平凡な一人として埋もれたくはなかった。大和人に同化すれば、そのまま楽に生きられるだろうが、それでは結局今、それができずにいる人々に対して何も向き合えていない。柿崎はそれをやっている。大勢の人間には受けないやり方だとしても。
職務において、そのような私情を交えることなど許されない。だがドアンにも、自分の真心を貫き通して、他人を変えて生きていきたいくらいの矜持はあった。しかし、そうすればするほどに、理解されず、孤独になってしまうのだ。他の人間もだ。動機が何であれ。
数時間後、眉間を撃ちぬかれた男の遺体がコンクリートの上に転がっていた。血痕が数メートルにわたって断続的に散り、周囲に立ち入り禁止のテープが張られていた。
柿崎は、司直に引き渡された。だみ声、早口で悪態をついていたので、何語だったかはよく聞き取れなかった。柿崎の取り巻きが、説得を試みようとしていた。
彼とその仲間たちが騒ぐ光景を見て、ドアンはわなわな肩を震わせていた。これによって、喜ぶ人がいるとはとても信じたくない。
現場は数日間、殺伐とした空気にとり囲まれていた。
ここは単なる悲劇の場所に過ぎない。それ以外の意味を与えてはならない。さもないと、どちらかの『シンパ』がこぞって集まりだし、聖地のように祭り上げかねない。
ドアンは、単なる一警官として、通行人の行く手を阻んでいた。まだ、血痕が地面に残っていた。極力それに視線をそらしながら、彼は見物人に集中していた。栗田にもいつも通りの様子をしながら。
ドアンは、私情を押し殺して応対することに尽くしていた。
かつては、人が死んでいる場所に近づくことはこの国では恐ろしいと見られていたそうだが、ドアンはむしろそれが興味深いものだったり、あるいはことほぐべきものとして思われている時代に育った。それがドアンにとってはなかなかこたえることだった。彼らに、凶行の現場を見せまいと、
「立ち入り禁止です」
そう言ってゆく手を阻むのだが、写真を撮ろうとする者は現れる。
だが、ドアン自身もこれを客観的に捉えられる立場の人間ではない。それが余計に、彼に胸をむかむかさせた。
柿崎や岩部と接していたことは、誰にも知られてはならない。このことは、誰にも話せないし何にも書き記せない。
そしてそんな押し殺さねばならない内面などつゆ知らない者たちが遠くで、屍の無残さについて談笑していた。
(どうして笑っていられるんだ……人が死んでいるのに……!)
柿崎はおそらく、殺人犯として処理されるだろう。彼がこれまでに犯したこまごまとした罪は、この時世ではいちいち追及している暇があるまい。
だが、彼がいなくなった所であの団体はまだ存続し続ける。柿崎とはまた別の、得体のしれない存在が現れるだけでしかない。
気づくと、自分が大和人としての意識の中に吸い込まれていることを自覚した。これが民族というものか。
自分が上の層の一部として取り込まれ、その中に横溢する差別意識をいやでも享受せねばならないことへのむかつきが甚だしかった。
彼らに傾斜すればもう一方から必ず批判を受ける。ここに中立でいられる余地はない。
この国に跋扈するスティリコの一人として、ドアンは冷静に自分の境遇に甘んじるほかはなかった。
「…救国戦争前後の混乱で、当時の詳しい事情について調べるのは容易ではない。そもそもこのような騒乱があったことすら、数年前までは地元の住民に聞いても、ほとんど誰もいないありさまだったのである。私は、当時の新聞を念入りにあさり、また、この町で当時遺体清掃に自発的に参与していた者の子孫への取材することで、ようやく事実だと知ることができた。」




