第7話 懺悔
続きです。
北澤さんはお母さんが行方不明になった経緯を話してくれた。当時北澤さんは18歳で、高校卒業後は実家から電車で通える地元の大学に進学した。一人っ子の北澤さんの大学合格に、ご両親はとても喜んだ。大学に入ってから、バイトや友達との飲み会に明け暮れていた北澤さんはあまり家に帰らなくなっていったそう。思えばこれが良くなかった、と北澤さんは言う。
そんな北澤さんを、お母さんはとても心配していた。その頃お父さんは仕事の都合で1人で海外に在住していたため、息子の状況は何も聞かされていなかった。後の話では、海外にいるお父さんに心配をかけたくないという、お母さんなりの配慮だった。
大学も夏休みになり、お盆で地元に帰る友達が多かった北澤さんは、久々に家でゆっくりしようと帰ると、玄関の鍵が開いていた。しっかり者のお母さんが鍵をかけ忘れるなんて珍しいな、なんて思いながら家に入ると「おかえり」と言ってくれる母の声がしない。違和感を感じた北澤さんがリビングに足を踏み入れると、そこには異様な光景が広がっていた。
散らかった洗濯物、何かを零したような痕、冷凍庫のように寒い室内、鼻につく何かが腐ったような匂い、壁の至るところに何枚も貼られた付箋。よく見るとそこに書かれた文字は読めるものではなかった。
何かがおかしい――そう思い、全部の部屋をくまなく調べたが、お母さんの姿はなかった。そこでかつて母が日記を書いていたことを思い出し、リビングの引き出しを漁る。何かの手がかりがここにあるかもしれない。北澤さんは藁にすがる思いで、母の日記を遡る。
7月9日
今日も蓮翔は帰ってこなかった。家より友達が大切な時期かもしれないけど、たまには家でご飯も食べねて欲しいな。私はいつになれば、子離れできるのかしらね。
7月19日
最近物忘れが酷いわ。私ももう年なのかもね。今日はレジの店員さんと話したの、いつもの人、そういえば名前は何だったかしら。
7月22日
昨日一昨日日記を書かなかったのね。なぜかしら。思い出せない。新聞もおかしいの、何を書いているかさっぱり。ダメね、きっと夏バテのせいだわ。
7月28日
なんでわたしったら、かいも ぶくろそのままにしてたの?おかしい、あしたびょういん
8月2日
弱ねんせいあるつはいまーって。ぱぱとれんとには、しんパいかけたくない。
そこで日記は途絶えてた。
「若年性アルツハイマー…って認知症のことですか?」
私はそう北澤さんに尋ねた。
「認知症とは違くてね…若い人でもなりうる脳の障害らしいんだ。病気の進行も人によって違うらしくてね。」
そう説明すると続きを話し始めた。日記を読んだ北澤さんは気が狂ったように母親を呼びながら、町内を走り回った。スーパーの買い物袋を手にぶら下げる主婦、家に帰る小学生達の怪訝な目を無視して、必死で探した。もしかしたらお母さんが帰っているかもしれないと、淡い期待を抱き、一旦家にも帰ったが、お母さんは見つからなかった。辺りが真っ暗になり、街灯の下だけがやけに白く滲む頃、北澤さんは冷たい汗で冷えた体をお構いなしに、泣きながら近くの警察署に駆け込んだ。着いた時には過呼吸を起こし、若い警察官に宥められながら、事情を説明するとすぐに行方不明届を受理し、情報提供を呼びかけると約束してくれた。そのまま家に帰らせられ、その日は暗く静かな家の玄関で、泣きながら夜を明かした。
次の日も、その次の日も北澤さんは時折外に出てお母さんを探しながら、家を片付けた。いつお母さんが帰ってきても安心して生活できるように。行方不明者届が受理されてから4日後、いつも通り片付けをしているとインターホンが鳴った。お母さんかもしれないと急いで扉を開けると、昨日の警察官が立っていた。警察官は一言、お母様が見つかりました、と。北澤さんはその警察官の表情から、次の言葉を言われる前に耳を塞ぎたくなった。
「ここから約3駅離れた隣町の踏切に侵入したところを列車に轢かれ、救助された頃にはもう――」
北澤さんはそう聞いた途端、膝から崩れ落ち咽び泣いた。何でそこに行こうとしたのか、すぐにその答えは分かった。なぜなら通っていた大学も同じくらい離れていたからだ。しかし母が踏切に入った所は大学と正反対――つまり、お母さんは家に帰らない息子を心配して大学まで行こうとしていたが、大学への方向も、電車の乗り方も分からなくなってしまった。警察の話によると母が轢かれる前、その近辺で公園やおもちゃ屋さんでの目撃情報も相次いでいた。そしてそれらは全て、北澤さんが幼少期にお母さんと2人で出かけたことがある場所だった。お母さんは北澤さんを探しながら、2人で行ったことある場所を巡っていたのかもしれない――真相は確かめることが出来なくても、母が考えそうなことだと確信があった。身元確認のため警察署に同行すると、冷たくなっている母はとても見ていられない程だったそう。事情を知り、海外から急いで日本に戻ってきた父親は、北澤さんと会うなり殴りかかった。「お前のせいで母さんは死んだ。母さんに心配をかけたからだ。」その言葉が今でも忘れられないという北澤さんの言葉には、後悔が含まれていた。
葬儀中、北澤さんはずっと涙を堪えていたらしい。ちゃんと家に帰っていれば、心配をかけなければ、病気に気づいてあげられていたら、お母さんは死ななかったかもしれないから。後悔しても母が生き返るわけではない、母の死を悲しむ資格は自分には無い。そんな北澤さんの様子を見て、葬儀に参列した母の友人は北澤さんに声をかけた。
「あの人、ずっと私に言ってたのよ。蓮翔は私が産んだとは思えないくらい優しくて、綺麗な顔なの。ほんと私に似なくて良かったわ。男の子はママに似るなんていうけど、蓮翔は間違いなくパパ似ね。きっと俳優でも何でもやっていけるわ、あの子の未来は希望で溢れてる。そんな子の母で私は幸せね、って。…本当に昔から良い性格してるわあの女。私が未婚なの知ってるくせに、その話ばっかりでうんざりしちゃうわ――だから前を向きなさい蓮翔くん、あいつも天国で君の笑顔を望んでるはずだよ。」
その言葉で張ってきた糸が切れたように、涙が溢れたそう。そこからは好きだったお酒を断ち、勉強に勤しんだ。そこでたまたま在学中に目にした俳優のオーディションに応募したところ、今の事務所にその才能を高く買ってもらい、卒業後は俳優業一本で仕事をしてきた。
そう話し終えた北澤さんは、どこか遠い目をしていた。
「…長々話してごめん。だから俺、清川さんのこと他人事とは思えなくて。…大切な人なんて失ってから気づくんだよ。本当は親父にも慰めて欲しかったんだろうな、母さんの死を一緒に悲しみたかった、なんて我儘だよね。」
「そんなこと…ありません。すみませんそんな過去があったなんて…。」
そう語られた真実に、私は言葉を失った。あまりにも残酷すぎる。何と声をかければ良いか分からなかった。
「謝んないで、俺が勝手に話しただけだから。…自分の好きな子には俺みたいな思いしてほしくないんだよ。悲しい時、辛い時に寄り添ってあげれる存在でいたいんだ。」
そう言う北澤さんはどこまでも優しかった。胸の奥に、彼の過去の重みが静かに沈んでいった。私は北澤さんの告白を受け入れ、愛花が見つかったら付き合うという約束を交わし、2人で店を出た。絶対に愛花を見つけ出す――そう心に誓った私は、とある人に1本の電話をかけた。
いかがでしたか?
少々長くなってしまいましたが、ここまでお読みいただきありがとうございました。
ご感想等お待ちしております。