表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

女学生猫井こはくには今日も何も起こらない

作者: 6969




「大事件が起きたらいいのに」

 それが私、猫井こはくの最近の願望である。

「大事件、いうたって。こはくちゃん、起こったら一溜まりもあらへんで」

「私がパパッと解決するもん」

「まぁた、そないなこというて」


 リボンをつけたお下げに銘仙の着物。

 物語に出てくるような金髪でも銀髪でもないし、瞳の色だってよくよく焦げた小豆の様な色だ。

 つまりは極々一般的な女学生そのもの。

 生まれも育ちも特殊な家柄というわけではないし、使命を背負ってもいなければ、幼い頃から不可思議なモノが見えていたわけでもない。

 どこか遠い国の王族の血を引いていれば面白いのにと貸し本屋から借りたロマンス小説の冊子をめくる。

 その中では頭脳明晰な少女が次々と難問を解き、国の危機を救っていた。


「い”~、つまらない」

 私が女学校に行儀見習いに出されるにあたって出された条件は、この伯母の家への下宿である。

 女学校の寄宿舎もあるのだが、隣県の女学校の寄宿舎に不審な男が忍び込んでいたという事件を聞いた父が猛反発したのだ。

 不審な男、女学校の寄宿舎だと聞いて侵入してきたのだか、寄宿舎の女学生の一人が忍び込ませたのだかはしらないが、私には酷い痛手となった。

 折角、小うるさい大人の手を離れて同世代の子たちと共同生活ができるはずだったのに。



「それよりもこはくちゃん、今の流行りはライスオムレツって聞いたからやってみよう思うとるんやけど」

「ライスオムレツ!」

 私はうなだれていた顔を勢いよく上げた。


「えぇ、えぇ。聞いたことがあるわ。はなお姉さんがいうには元々は英吉利の『ライスオムレツ』が元になったなんじゃいかって! 煮たライスを薄焼きの卵で包んだモノらしいの。

 それが銀座で出されるライスオムレツにはね、ライスにミンチのお肉が入っているらしいの。

 えぇ、えぇ、でもね。大阪で出されたライスオムレツはもっとハイカラだったらしいの! 中のライスが赤いのよ! トマトのソースで味付けしてあって・・・・・・包んだ薄焼き卵にもトマトのソースをかけてあるの!

 見た目もとってもかわいらしいんですって!」


 そう、この伯母との生活も案外悪くはなかった。

 というのも、この伯母が切り盛りする食堂__伯母曰くカフェー__は神保町に並ぶ学生向けカフェーを目指しているらしい。

 正直、最初に見たときは下町の食堂そのものだと思ったけれど、それでも白昼から蓄音機を鳴らし、物珍しい洋食を出すのは良い。

 昔から通う馴染みの顔達は純和食を望むので洋食は三分の一だけども、それでも洋食があるというのはとてもすばらしいのだ。


 外装も内装もとてもカフェーとは言えないけれど。

 よいのだ。

 心の持ちようと言うものなのだから。

 洋食を食べるなど実家にいてはできなかった贅沢なのだし。



「そう、その銀座のお店でね、ポークカツレツというメニューもあるそうなの。西洋風の天ぷらの事らしいの! 豚肉に生パン粉をつけてたっぷりの油であげたもの! これもとっても評判がいいんですって! でも豚よりも牛の方がきっと人気がでると思うの。だって皆牛鍋で牛に慣れているでしょう? ならきっと牛が良いわ!」

 私が歌うように続けると伯母様がはいはいとお座なりに答えて、読んでいた御本をめくる。

 カウンター越しで手元がよく見えないが西洋料理指南書だろうか。


 伯母の情報源はもっぱら書籍だ。

 伯母の兄、そして私の父の兄は国内外問わずに飛び回って書物を集めるのが趣味の人らしい。

 会ったことはないが、そういうわけで御本はうちにも伯母宅にも掃いて捨てるほどある。

 おそらく伯父の家は御本で潰されてしまっているのだろう。

 だからきっと日本に帰ってこないのだ。

 そうして、思い出したように伯母や父、そして私たちにも御本を送りつける。

 時折、私たちが日本人であることを思い出すのか、運が良ければ和訳して贈ってくれることもある。

 だがほぼほぼ思い出さないので私の家では色々な国の辞書が置いてあった。

 探してはいないが伯母の家もそうだろう。




 それにしても、ライスオムレツ!

 あぁ、完成したら是非味見させてもらわなくてはいけない。

 一口だけでもいい。

 きっと洒落た味がするに違いない。

 鹿鳴館でダンスするレディ達はきっとそういうモノを食べているのだ。

 知らない、食べたことのない洋食を食べるのはとても楽しいしドキドキする。

 私の周りで起こる唯一の大冒険だ。



 初めてこの伯母の所にやってきた時に御馳走になったのは牛鍋だった。

 賽子状に角切りにされた肉が浅い鉄鍋に入れられ、上から特性の味噌とたっぷりのネギを入れた伯母特製の牛鍋。

 あれを一口食べたときの感動は言葉にはできない。

 一緒に着いてきてくれた兄はついに一口たりとも口には入れなかったけれど、あれは損だ。


「牛鍋食はねば開化不進奴ひらけぬやつ

 仮名垣魯文先生によれば、東京に来て、伯母の家で牛鍋を御馳走になったこの時、ようやく私も文明開化の人間となったのだ。




 そして、初めての学校から帰った日に作って貰ったライスカレー!

 福沢諭吉先生に習えばコルリと言うべきなのかもしれないが、やはりライスカレーの方が伝わるだろう。

 初めてコレに出会った日本人の会津藩士の少年はライスカレーのカレーを食べる気にはなれず、ライスのみ食べたなんて聞く。

 すごくもったいない!

 私がカレーを貰ってあげたいくらいだ。

 兄といい、少年といい、男性というのは新しいものにめっぽう弱いのではないかしら、と私は思う。

 でも、伯母様の持っている西洋料理指南書を見てみると材料にネギと生姜、バタァに鶏、海老に鯛に牡蠣に雨蛙なんて書いてあったから、流石の私も驚いて心臓がハタハタしてしまった。

 それから、あの御本を借りて開く度胸がなかなかでないのだ。

 でも、伯母様の台所をみても、部屋を見ても雨蛙なんて見たことないし、きっと伯母様は使っていないのだと信じている。

 だって「ここに書いてあるモノ全部使ってたら大赤字!」なんて文句を言いながら読んでいる位だし。


 あぁ、ということは会津の少年のライスカレーには雨蛙が乗っていたのかもしれない。

 いいや、海外の船でだされた料理だもの。

 きっと、日本では見られないような、それこそ人間を一飲みにしてしまいかねない大きな蛙が鎮座していたのだ。

 ならば、そう、きっと私もそのライスカレーを食べることはできない。

 だって、ライスカリーを食べようとして、蛙に懐かれてぺろぺろと指を舐められてしまったら失神する自信があるもの。



 そして、そう、あけみちゃんが教えてくれた「コロッケーの唄」劇のお歌だと教えてくれて、皆で口ずさんだけれど、コロッケーが分からない私は内心少し恥じすら感じていた。

 だから、強請って作って貰ったコロッケーはキラキラした衣の中にジャガイモを丸めて作ったがんもどきみたいなモノがあって吃驚した。

 節約に中に何か入れたのだと思ったのは間違いだったらしい。

 仏蘭西コロッケーはクロケットと言って、中には肉や魚介類、野菜を白いソースで和えて成形することもあるのだとか。

 そちらも一度食べてみたいと思う。





 そこまで夢想した所で来客を告げるベルが鳴った。





「いらっしゃいませ~」

「いらっしゃいませ!」

 手元の御本から目線をあげずに挨拶する伯母の代わりに愛想良くお客に駆け寄る。

 無論、こんな店に来るのは顔なじみの常連である。




「やぁ、こはくちゃん。いつもの珈琲を頼むよ」

 スネークウッドのステッキに中折れ帽、そうして紺桔梗のコンチネンタルスーツ。

 常連の内夜ないやさんだ。

 下の名前は内緒らしくて誰にも教えてくれないらしい。

 秘密主義のモダンボーイ。

 素敵である。

 私はこの内夜さんが、常連さんの中でも一等お気に入りだ。


 私の目から見ても仕立ての良いスーツ。

 洗練された仕草。

 威張ったところのない物腰柔らかな態度。

 あぁ、本当に素敵。

 きっと、内夜さんはどこかの華族のご子息なのだと思う。

 こんな下町にどうしてやってくるのかまでは分からないけれど。

 社会勉強というものなのかしら。



「珈琲ですね、わかりました! 内夜さんってば今日もシャンね! 惚れ惚れしちゃう!」

「ありがとう、でもシャンってなんだい?」

「ふふ、シャンはね、独逸語からきてるんですって、シャン! 美しいって意味よ」

「はは、最近の女学生はマセているんだね」

「とっておきの珈琲を淹れるわ!」



 豆を挽いてお湯の準備し、温めていたフラスコを取り出して、水気をふき取る。

 そして、アルコールランプに火をつけて沸かす。

 サイフォンで珈琲を淹れるのにもようやく慣れてきたところだ。



 珈琲。

 最近、新聞連載されている食道楽では何度も登場しているらしい。

 なんだか、珈琲というやつは上流階級の方や文化人の人たちのウケがいいのだ。

 私としては昔の幕臣だか狂歌師だかの食通の偉い人が残した『焦げくさくて味ふるに堪ず』に一票だ。

 内夜さんには悪いのだけど、コレにわざわざお金を出して有り難がって喫する人の気が知れない。

 なにせ、コレ一杯でご飯が二人分食べることができるのだ。

 私なら、ミルクホールに行って牛乳を一杯とパンを少し頂いた方がきっとずっと幸せになれる。

 二つ隣に厄介になっている通ぶったいけ好かない自称文学家が言うには、単独ではなく洋食や洋菓子と喫するものだからそういうものというのは本当だろうか。

 偉い作家先生は薬用の熱い牛乳に少しの珈琲を入れるのが一番旨いのだというけれど、どうなのだろう。

 文化人が愛する珈琲は『鬼の如き黒く、恋の如き甘く、地獄の如き熱き珈琲』なんて宣伝されているらしいけれど、私が喫した珈琲とは違うのだろうか。




 濾過し終わった。

 火を消して、攪拌。

 そして、珈琲が完全に落ちるのを待つ間に温めていた珈琲カップを準備する。

 ちょうどよく落ち終わったらロートを前後に動かして、フラスコとの間に隙間をつくる。



 そして、そのまま、カップに珈琲を注ぐ。



「よし!」

 完璧だ。

 これなら、内夜さんに出しても恥ずかしくない。


「お待たせいたしました、内夜さん!」

 自分にできる一等可愛らしい微笑みと共に珈琲を運ぶ。


「ありがとう、こはくちゃん」

 いつもの外がよく見える内夜さんお気に入りの席に彼は居た。

 ジャケットは脱いで、椅子の背もたれにかけられ、ジャケット姿になっている。

 帽子もついでにかけられているので、彼が後ろに撫でつけている黒々とした髪が惜しげもなく晒されている。

 うっとりとして彼のシャンな顔を見ると、内夜さんがその深海のような瞳を弓の様に歪めた。

「良い薫りだ。珈琲を淹れるの、とっても上手になったね」


 その褒め言葉に私はキャッと声を上げる。

 内夜さんはいつだって紳士なのだ。


「そういえば、君の伯父様・・・・・・海外で御本を集められているっていう彼・・・・・・最近はどうしているんだい?」

 内夜さんが何ともなさそうな顔で私を見た。

 けれども、そう。

 内夜さんが何ともないものに興味を示すことはない。

 ソレを知っている私は、はてと疑問に思う。

 内夜さんと伯父様に関わりなんてあったかしらん、と。


「伯父様?」

「あぁ、君の伯父様さ。外国を飛び回ってはおもしろおかしい事に巻き込まれている彼」

 内夜さんの顔がグイッと近付く。

 その深海のような瞳の奥になんだかよくわからない、分かってはいけないものが渦巻いている気がした。



 おもしろおかしい事に巻き込まれている?

 そうだったかしら。

 何か、内夜さんの気を引くようなこと言ったかしら。

 いいえ、言ったとしたらきっと伯母様ね。

 でも、伯母様は一体何を言ったのかしら。

 伯母様はあんまり内夜さんを好かないみたいで、常連さんだというのにお喋りも滅多にしないのだ。

 そんな伯母様が内夜さんに何か言ったなんて。

 きっと、何かとんでもない事だったに違いない。

 また、私が「子供だから」なんてのけ者にしているのだろうか。



「で、こはくちゃん、どうだい、君の伯父様は」

 内夜さんがジレたように再び疑問を口にした。

 どうやら、よっぽど知りたいらしい。

 けれども、私は本当に知らないのだ。



「うぅん・・・・・・」



 伯父様。

 伯父様。


 私は我が変わり者の伯父を脳裏に思い描こうとして失敗した。

 何せもう何年も会っていない。

 最後に会ったのなんて私がうんと小さい頃。

 そして、伯父様の生存を確認する手段は時折届く手紙と御本位なのである。



「この前は挨及エジプトからよく分からない御本を何冊か送ってきて・・・・・・先週は亜米利加からよく分からない御本を何冊か送ってきたから・・・・・・えぇ、うぅん。一体、何処にいるのかしら?」

 そう、だから私が持っている情報なんてコレくらいのものなのである。

 挨及と亜米利加。

 この二つって近かったのかしら。

 そう思って、更に首を捻るけれど答えは出ない。

 そもそも、女学校で挨及の場所を習ったかしら、どうかしら。



「挨及と亜米利加か、いいね」

 内夜さんが楽しそうに口を歪める。

 どうやら、私の猫の額ほどしかない情報でも満足したらしい。

 よっぽど伯父様の事が気になるのか、それとも、伯父様の安否だけでも知りたかったのかもしれない。


 それにしても本当に、楽しそうだ。

 思わず口を手で押さえて驚く位には。


 あぁ、本当に驚いた。

 とっても珍しい。

 内夜さんが楽しそう。

 いえ、内夜さんはいつだって楽しそうな方だけど、でも今は本当に楽しそう。


「一体何の御本を送ってきてくれたんだい?」

 なんだか、今の内夜さんは鼠を前にした意地の悪い猫の様だ。

 素敵な贈り物が今目の前にあって、待ちきれないと顔に書いてある。

 こんなに紳士の格好で性質であるのに、なんだか無邪気な子供・・・・・・いえ、ちょっぴり邪悪な子供に見える気さえする。


「・・・・・・うぅん、すっごく古い御本だったかな。多分、私が読んでも分からなそうだから放っているのよ」

「・・・・・・おや、解読しないのかい?」

「えぇ、日本語に解読したところで、私に中身が分かるとは思えないもの」

 本当に古い御本だった。

 多分、偉い人の考えた高尚なことが書かれているのじゃないかしら。

 でも何だか怪しげだった。

 海外では禁書になってる御本だったらどうしよう。

 持っていると特高に目を付けられたりするのかしら。


 そういうと、内夜さんはがっかりしたようだった。

 此方が何か酷いことをしたかしらと思ってしまうくらい。



「内夜さん、内夜さん」

「ん、なんだい?」

 そっと口を手で隠す。

 すると、内夜さんは心得たとばかりに耳を近づけてくれた。


「内緒なのだけど、私ミルクキャラメルのカンカンを友達とお小遣いを出し合って買ったのよ」


 ミルクキャラメル。

 禁煙を欲せらるる紳士淑女の為に、なんて謳い文句の大人のお菓子だ。

 大人のお菓子なんてとても素敵。

 だから、絶対に食べようと約束してお小遣いを寄せ集め、皆でカンカンを買ったのだ。

 一番お小遣いを出したよねちゃんがカンカンを持って行ってしまったから、私が持っているのはミルクキャラメルの粒だけだけれども。


「おやおや、それは素敵だね」

「えぇ、だからね、内夜さんにもお一つあげるわ。特別よ」

 そういうと、私はちょっと待っててねと言って二階の自室に行こうとした。


「ちょっとまって、こはくちゃん」

 それを止めたのは内夜さんだ。

「ねぇ、これはお願いなんだけども」

「うん、何かしら」

 私は駆け出しそうになっていた足を何とか押しとどめて、振り返る。



「君の伯父様の送ってくれた古い御本を数冊貸してはくれないかな?」

 内夜さんはやっぱり楽しくて堪らないという顔をしていた。



「えぇ、いいわよ、勿論。でも、内夜さんが読まれるの? 面白くないかもしれないわよ」

「いやいや、読ませたい【人間】が何人かいてね」

 内夜さんがにたりと物語に出てくる意地の悪い猫の様に嗤った。

「ふぅん」


 内夜さんのお友達かしら。

 内夜さんはきっと華族だろうから、お友達も華族なのだろう。

 ならば、そう、好事家というやつか。

 納得だ。

 きっとあの古めかしい御本はそういう人たちに好まれる類のものなのだろう。

 そして、私が持っていても特に価値がないものなのだ、きっと。



「・・・・・・じゃあ、ちょいとお待ちになってね。とっておきのミルクキャラメルと伯父様の一世紀(時代遅れ)でチョンチョン(怪しい)御本をお持ちするわ」

 そういって内夜さんに微笑むと、私は子鼠のように駆けだした。

 内夜さんと伯母様を二人っきりにしすぎると、伯母様が不機嫌になってしまうのだ。

 伯母様は内夜さんが本当にトコトンに苦手らしい。


 伯母様と内夜さんの目が届かない階段まで来ると、そのままスピードを上げる。

 はぁ、困った。

 伯父様の御本は一体何処にやったかしら。

 どこかに放ってしまった気がする。

 人に貸してはいないのだけど。


 ただでさえ、伯父様が送り続ける御本に埋もれている家の中でちゃんと見つけることができるかしら。


 自分に割り当てられた部屋の障子を開ける。



「わ!」

 思わず声が出た。


 書き物机の上に見慣れない御本が積み上げられていた。

 まるで、さも、その御本を今まで使って勉強をしていましたと言わんばかりである。


 恐る恐る、近付いてみる。

 揃って置かれているのは伯父様に送られた古い御本だった。

 まるで、このまま内夜さんに持って行けと言わんばかりだ。


「まぁ! なんて聞き分けが良い御本なの!」


 探す手間が省けた。

 伯母様が纏めてくれたのだろうか。

 私の部屋には入らない人なのに珍しい。


 じゃあ、あとはミルクキャラメルだけね。

 そして、ミルクキャラメルは戸棚だ。

 私がちょいっと気軽に盗ってしまわないように、大事に大事に隠してあるのだ。

 踏み台がいる。

 けれど、あぁ、そう、踏み台は今は倉庫に置いてあるんだった。


「御本を重ねて踏み台にするしかないわね」

 えぇ、誰も見ていなのだし、構いはしないわ。

 そう自分をケシカケると、書き物机に置いてあった御本をそのまま戸棚の足下に動かす。

 何だか一番上にある古い御本の感触が他とは違う気がする。

 何かの革なのだろうか。

 動物の革には詳しくないのでよく分からない。

 まぁ、何の革でもいいわ。

 どうせ噛みついてくるわけでもないのだし。


「よし」

 重ねた本に乗り上げて手を伸ばす。

「えいえい、おー」

 つま先立ちになると指先に小さな包みが触れた。


 取れた。

 一個。

 いえ、自分の分もだから二個取りましょう。

 三個は駄目。

 そう思ったのに、二個掴んで、一個落としてしまった。


「・・・・・・まぁ、落としたのなら仕方ないわ」

 一個、書き物机に置いて、エプロンのポッケにミルクキャラメルを二個仕舞い込む。

 そして、踏み台にした御本を再び持ち上げて走る。


 一秒でも早く届けたくて、階段を駆け下り、廊下を勢いよく曲がり、カフェーへ入る。


「こはくちゃん、走らんで。品がない」

 伯母様に注意されてしまった。

「ごめんなさい!」

 それに勢いよく返す。

「でも、急いでるの! 内夜さんを待たせちゃって!」

 伯母様が肩を竦めた。

 そして、我関せずという顔で本の続きを読み始める。



「内夜さん!」

 伯母様をイナし終わると、一刻も早く見て欲しくて、両手に抱えた戦利品を掲げた。

 内夜さんは飲み終わった珈琲カップをそのままに、新聞を読んでいた。

 英語だろうか、そう思って単語を読もうとしてみるが何だか違う気がする。

 一体、何処の国の言葉かしら。



「あぁ、こはくちゃん。わざわざ持ってきてくれて、ありがとう」

 内夜さんが新聞から目を上げて、此方に微笑む。

 相も変わらず、美しい笑顔である。

 まるで神様か何かが完璧という題名で作り上げた作品みたい。



「はい、これ、内夜さんのお友達が楽しんでくれるといいのだけど」

 数冊の御本を内夜さんの座るテーブルに置く。

 その瞬間、その御本が裸のままなのに気が付いた。

「・・・・・・あ、風呂敷かなにかで包んだ方が良かったかしら。私、とにかく早くお渡ししたくて忘れていたわ」



「いやいや、いいんだ。このままで構わないよ」

 内夜さんがそっと一番上の御本を手で撫でる。


 私はその様子にドキリとした。


 いえ、まさか、私がはしたなくも御本を踏み台にしたなんて分からないはずだわ。

 そうは思うけれど、内夜さんは時折全てを見透かしているような所がある。


「・・・・・・えっと。そ、その御本、何だか珍しい革よね? 何の動物の革かしら」

 内心の動揺を誤魔化すように内夜さんに問いかける。




「人間の革だよ」




 一瞬、時が止まった。



 そして、

「内夜さん! 怖いこといったら、もう珈琲を淹れてあげないから!」

 私は怒った。

 とても、怒った。

 これは覚えがあったのだ。

 私の兄も数年前からこういう質の悪い冗談を口にする。


 エログロナンセンス。


 嫌な文化。

 本当に大嫌い。

 皆知識人ぶって怖いことをいうのだから。


「・・・・・・ふふ、ごめんね、こはくちゃん」

 内夜さんが口角を片方だけクイッとあげた。

 まるで活動写真の役者のよう。

 私の怒りはすっかりと飼い慣らされて、子猫のようになってしまった。


「もう、次怖いことを言ったら、私、きっと許さないわよ」

 そういうと、御本の影に隠れるところにミルクキャラメルを一個置いた。

「はい、ミルクキャラメル。本当に特別なんだから大切に食べてね」

 そう囁く。

「あぁあぁ、ありがとう」

 そう呟くと内夜さんは何度か御本を撫でて、そのままミルクキャラメルを手に隠し、ジャケットのポッケに滑り込ませた。



 私はすぐに気分が良くなってきた。

 自分の宝物を自分のお気に入りの人と共有できるというのは、いつだって楽しくて素敵なのだ。


 キャラキャラ笑う。



「ねぇ、内夜さん! 試作品のパンはいかが? 私が作ったから酸っぱいの! スパンよ!」


 横浜の外国人居留地では欧米人の経営するパン屋が沢山あるらしいが、英国人のベーカリーの評判がとてもいいらしい。

 イギリス風食パン。

 いつか食べに行ってみたいモノだ。

 欧化風潮を嫌う人々が作った『馬鹿の番付表』のトップが『パンを好む人』だったらしいが、知ったことではない。

 あんパンにジャムパンに__試したいパンが本当に沢山!


「おやおや、またスパンにしてしまったのかい?」

 内夜さんが弱ったなという顔で私を見た。

「そうよ、またスパン! だって調整が難しいんですもの!」

「こはくちゃん、お嫁に行く先は胃が丈夫な男性にしなさい」

「もう、内夜さん!」

 私が頬を膨らませるとはははと内夜さんが笑う。


「もう、行かなくてはいけないから、いくつか包んで貰おうかな」

「えぇ、いいわ!」

 私は漸くいくつかスパンが消費できそうな事に安心し、伯母様いるカウンター裏へ飛び込む。

「いくつ包めばいいの? 内夜さんと・・・・・・お友達? 何人分かしら?」

 そして、カウンターからぴょんと顔を出す。

 ちょうど珈琲代をカウンターに置いた内夜さんが物音のしない夜のように微笑む。



「人間じゃない部下が数えられないほどさ」



「はいはい」

 私は避けて置いていたスパンを四つ、いえ、五つ包んだ。

 そして、カウンター越しに内夜さんに手渡しする。






「それじゃあね、内夜さん! きっときっと、また来てね!」





「・・・・・・あぁ、またきっと」

 そういうと、静かに内夜さんは立ち去った。

 本当に夢のような男性だ。

 悪夢みたいに美しい。



 内夜さんがカフェーから消え、通りに溶け込む。

 その姿が小さな小さな豆粒のようになっていく。



「こはくちゃん」

 伯母様が漸く、消していた存在感を取り戻す。

 態と自分の存在感を消していたのだろう。

 最近の伯母様は内夜さんがくるといつもそうする。

「あん人、あんまり仲良くせん方がえぇよ」



「でも、常連さんじゃない」

 私がそう答えると伯母様もそれ以上は何も言えなくなる。

 いつもの流れである。

 それに、私が内夜さんに話に行かなくなれば、伯母様が注文を取ったりしなくちゃいけないのだけど、分かっているのだろうか。


 でも、こういうときの伯母様は何だかちょっぴり怯えているような気がして、そんな意地悪は言えないのだ。



 もう見えない内夜さんの後ろ姿を探す。

 日差しが暖かくなってきた。

 もうじき夏が来るのだろう。



 夏の初めになると多くの焼き芋屋が氷水屋に変化する。

 氷菓。

 そう、アイスクリンだ。

 氷の入った樽の中でブリキ缶のガラガラ回る音。

 夏の一番の贅沢である。


『一匙のアイスクリームや蘇る』

 そう言ったのはどなただったかしら。

 きっと作家先生だ。


 早くアイスクリンの屋台を追っていって強請る季節になればいいのに。

 そう、アイスクリンと言えば、ソーダ水に浮かべると一等美しいらしい。

 新橋の芸者衆はこぞってソーダ水を飲んでいるというけれど、どんなものかしら。

 珈琲の様に苦かったりするのかしら。



「そういえばね、こはくちゃん。前に女子校の寄宿舎に侵入したって男性、牢から消えたらしいわ」

「・・・・・・」

 ソーダ水のことを考えすぎて、脳が一瞬回り損ねた。

「えぇ!?」


「だからぁ、あの寄宿舎に侵入した男よ」

「消えた!? え、逃げたって事!?」





「いやぁ、特高の前で【溶けた】らしいわ」





「【溶けた】ァ!? アイスクリンじゃあるまいに!」

 私が伯母様に問うような視線を向けると、伯母様もそうよねぇと頷く。

「ようわからんけど、まぁ、特高から逃げた男がおるんは確かやから、気を付けないかんよ」

「はいはい」

 私は伯母様に大げさに頷く。

 女学校の皆もこのニュースを聞かされているだろう。

 あぁ、また来週からは先生方が厳しくなるのかしら。




大正ロマンもクトゥルフ神話も好きです

そして、自分(主人公)の知覚外で何かが起こっているのも大好きです

そのまま自分だけはほのぼのストーリーが続いてもいいし、気が付いたら世界が取り返しのつかない状態になっていてもいい

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ