蜂と花
彼女の香りが好きだった。
優しく、柔らかく、ほんのり汗ばみ、それでも不快じゃない、いつまでも鼻を埋めていたくなるような。
フェロモンなのかもしれない。
さしずめ、僕は蜂なのだろう。
彼女という花に誘われ、その花弁に止まり、蜜を吸う。濃厚で目眩を覚えるような、甘い蜜を。
一つ違うとすれば、陽の光の中ではないということ。
夜な夜な、街も空も寝静まり、リビングにかけられた電波時計の音しか聞こえない頃、僕は禁断の扉を静かに開ける。
こじんまりとしたその部屋には、机や本棚が置かれ、壁には黒いビジネススーツがかけられていた。
そして窓際にあるシングルベッドに、彼女は横たわっている。スウスウと穏やかな寝息を立て、蝋人形のように身動き一つしない。
ゴクリと、唾を飲み込んだ。
足音を殺し、息を忍ばせ、祈るように膝を折ってしゃがみ、醜い蜂はその香りを嗜む。
決して手は出さない。
それは僕の中に存在する、最後の理性なのかもしれない。
彼女の腹部に顔を近づけ、口を閉じて深く深呼吸をする。
愉悦の息を吐き出しながら、しみじみ実感していた。
ああ、僕はなんて、変態なんだ。
自分に嫌悪感を覚える。彼女に申し訳なさを感じる。
それでも、その香りから離れられない。
いつかきっと、毎夜の儀式はバレてしまうだろう。
そして僕は地獄に落ちる。この世でも、あの世でも。
貶され、罵倒され、泣かれ、殴られ、家から、社会から追放される。
わかっている。そんなこと、わかっている。
しかしそれでいいのかもしれない。
なぜなら、自分の意思ではやめられないから。
その時は全てを受け入れよう。全てを了承しよう。死ねと言われれば首を吊ろう。
だから、せめて……せめて今は、この香りを嗅がせてくれ。せめてこの香りだけでも、僕のものにさせてくれ。
泣きそうになる心を抑え込んで、静かに立ち上がる。
そして行きと同じように夜闇に紛れ、部屋を後にする。
いつもの形式だ。
扉を閉め切る直前、最後に、小さく、決して聞こえぬよう声をかける。
「おやすみ……姉さん」