第五十六話 帝都大備忘録・陸 腐敗と侵食
地を覆っていた血と肉は、終わりを意味してはいなかった。
四肢を切断され、内臓をぶちまけ、血の海に沈んだはずの彼らが……なおも蠢いている。否、彼らは死をもって完成する。自らの肉を供物とし、腐敗そのものへと祈りを捧げる。
(...まだ声が....死んでも動くのか!?迷宮の奴らみたいだ..)
霧は血の色に染まり、屋敷の庭を赤黒いのように覆っている。
まずい状況だ...思わずに考え込んで、ただ現状を見たくなってしまう。
砕け散った信徒たちの肉片が、地面に落ちた血溜まりの中で蠢き始めていやがる。
ごにょごにょと...
腸の断片が蛇のように這い、裂けた皮膚が蝶の羽のように震え、脳漿の塊が脈打つように膨張する。
ジャキン
(はっ、なんだハルドか。)
ハルドが剣を構えたまま後ずさり、顔を青ざめさせているぞ。
地面を走る赤黒い液体は、まるで意思を持つ蛇のように集まり始めた。千切れた腕が、その血の川に引き寄せられ、ずるずると擦れ合いながら一塊に寄っていく。
頭蓋が転がり、目玉を垂らしたまま、血の粘着に絡め取られ、他の肉片と融け合う。骨の軋み、脂の焼ける臭い、短くある時間で腐肉ようになってきた...糞でかいそれの膨張音が一斉に響く。
「オラァ!」
杖で爵銀を打ち出して攻撃をするも全く聞いてないのかどんどんと癒着する。
「旦那様……あいつら、まだ生きてんのかよ? くそ、気持ち悪ぃ……」
「ああ、よくわからないが近づくな、こう言うには遠くから打つんだ。」
俺は息を荒げ、変異した血管を腕に巻きつけ、棘の先を信徒の残骸に向ける。
(おお、まじでなんとなく意識を感じるが...俺の思うがままに動くし、操作する必要すらもない...)
体内のざわめきが収まらない。爵銀の残滓が血を駆け巡り、まるで俺自身がこの狂気の輪に加わりたくてうずうずしているようだ。
「ははは、これで、打つ、くれば殴る。こなければ爵銀を打つ。もっと隣にいろハルド。」
そうだ、笑いが止まらない興奮を抑え、冷徹に観察しろ。
セオリクがいない今、遠距離や俺の位置を動かしてたり、戻せるやつはいない。
(...どうくる!記憶の中で死んでたまるか!)
「夢を……現世へと刻まんと……夢の神に……腐敗を……!」
「見えた!」
「なんでぃ!」
「これは生きてるんじゃない。死体だ。あいつらの神術……いや、とても神術につかずこうとするとんでもない儀式が、死んだやつらで新しい存在を作っている。」
「はえ?」
「つまりだ!ハルド。剣で切るな絶対、やばいと思ったら俺にさせ!」
「は?え?しかして」
「いいから金やる!文句言うな!殺すぞ!」
「...あいよ。」
(...落ち着け...神術はないが、特別な体質は戻りつつある...推測になる...するしかない、そう思うしかない。...たぶん)
「旦那!」
「ああ、わかってる少し待って。」
(少しなんだ少しずつ、分かった。たぶん俺は今まで装甲出したり、体を変化させていなかったことが人生の普通だが、つまり神術は俺の中の何かを引き起こすんだ。)
「それはおそらく爵銀、それ以上にある最上級...お前たちが魔法で神術を目指すようにな、因果の関係見せてもらうぞ!」
プシュ
一つの肉塊が膨張して、腸が血管のように脈動しながら全体を繋ぐ...
眼球の残骸が表面に浮かび上がり、濁った銀色の瞳のように瞬く。
骨の破片が棘となり、外殻を形成するようだ。
シュー
(これはッ!)
合体は加速して、霧を吸い込みながら巨大化していくぞ。
さらに中心部で、心臓の欠片が不規則に跳ね、血の泡を噴き出している。
「え?」
「関係ない、剣を構えていろ。」
(驚くのも仕方ないが今は俺が平静な姿を見せないと..)
「大いなる母……腐敗を……」
声は今や一つの咆哮に変わり、合体した肉塊が立ち上がる。
千切れた舌、半壊した肺、咽喉の奥から空気が押し出され、あまたあるのに一つの断片的な音が集まり、不気味な合唱を形作っていく。
まるで大地そのものが呻き声を上げているかのようだった。
「この形...意外に怪物ってわけでも...いややはり怪物だ。」
人間の形を模倣しつつ、異形の塊──腕は無数の指が絡みついた触手、胴体は臓腑が外側に露出した腫瘍の塊、ひび割れた仮面のようなもの。全体が黒い樹液と血で覆われ、地面を這う根が足元に生え、林からのものと繋がっているのがわかる。
集まっている指の欠片が腕の断面に吸い寄せられ、肋骨の破片が背骨の残骸に絡みつく。血が糸を引き、肉が溶け合う音が、霧の中で湿った粘着音を立てる。信徒たちの声が、団結して、断末魔の残響のようにある...軽いのに重いのに耳に残るのか....重なり、呟きが響き渡る...
「夢を……現世へと……刻まんと……」
(一歩、二歩、三歩...もう少し距離を置くか?)
すでに幾度も彼らの異様を見てきた。死が終わりではないことも、祈りが虚無では終わらぬことも、嫌というほど理解していた。しなしそれでも、目の前で展開される光景は常識を根こそぎ奪っていく気がする。
肉塊は次第に膨張を始めた。
皮膚の代わりに赤黒い膜が張り巡らされ、ところどころに黄緑色の膿泡が浮かぶ。それらは破裂しては腐臭の霧を撒き散らし、空気を溶かし、視界を歪める。耳をつんざくのは泡の弾ける音ではなく、骨が押し合い潰される甲高い悲鳴だった。
(ゔぉえええ...鼻を切ってやりたい...)
「う...うぅぼおお、ケッゴうぉおおヴォぺっうぅえ。」
(...ハルドは早くも吐きやがったな。いや、俺に統制法があるからか?)
祭壇の石畳すら歪み、血の池の中に沈んでいく。
その中心で、合体した塊はゆっくりと持ち上がる。
数十の眼球が、同時に開いた。赤・黄・白、どれも濁り切った瞳でありながら、確かな意志を放つ。
(見ている!?どうすれば
思わず声をまた漏らした。
「やはり終わりではなかったか……!?」
背筋を駆け抜ける戦慄。
全身の毛穴が総立ち、心臓は狂ったように打ち鳴らす。逃げるべきか、立ち向かうべきか、その判断を脳が拒否した。
次の瞬間。
塊の内部で、何かが炸裂した。
音ではない。衝撃だ。内臓の奥を直接殴られたような衝撃が全身を揺さぶり、膝が勝手に折れた。
肉塊は膨張と収縮を繰り返し、そのたびに不協和音の咆哮を撒き散らす。
「夢の……現……腐敗……夢神……刻む……」
俺の血管を震わせる。変異した血の管が、勝手に反応し、皮膚の下でうねる。ハルドが剣を振り上げ、叫ぶ。
「うぇ、旦べ、こいつ……林の怪物よりデカウェ、どうすんヴォえええ!?」
断片化された祈りが重なり、振動として空気を震わせる。
空間そのものが腐っていくのがわかる。石が黒ずみ、鉄が赤錆に侵され、目の前の霧を吹き上げる俺自身の吐息すら硫黄のような臭気を帯びたようだ。
「これはッ!?爆発だ!避けろ!ハルド!」
限界は訪れた。
合体体の表面を覆う眼球が、一斉に見開かれる。
瞳孔が光を飲み込み、瞼が千切れ、裂けた。
内圧に耐え切れず、肉塊は最後の膨張を遂げ
大爆発。
何かがは稲妻のように瞬き、轟音は世界を裂いた。
赤黒い肉片と黄緑の膿が嵐となって四方に飛び散り、祭壇を丸ごと吹き飛ばす。
腕を交差させて顔を庇ったが、皮膚に突き刺さる無数の断片からは逃れられなかった。生温い液体が全身を叩き、焼けるような痛みが走る。
爆風に押され、地面を転がった。
どっさささ
耳鳴りの中で、石が崩れる音、鉄が軋む音、そして何より、まだ消えぬ呻き声が聞こえる。
「……まだ、終わっていない……?」
爆風の衝撃からどうにか身を起こした俺は、荒く息を吐きながら視界を拭った。
耳鳴りの奥で、まだ続いている...呻き声。いや、呻き声どころではない。
肉片が歌っている。
(口みたいに避けた部分からどうやって声を!)
あの大爆発で吹き飛んだはずの破片どもが、霧の中で脈打ち、自己増殖を始めている。
千切れた手首のような場所がが膨張し、嚢胞のような泡を形成する。
その泡が震え、ひと呼吸ごとに膨らんでは――
ボンッ!
小爆発。
飛び散る血肉がさらに地に落ち、また別の嚢胞を生む。
爆ぜれば爆ぜるほど、数は増え、広がり、地面を覆い尽くす。
「おいおいおい……終わりじゃねぇのかよ!?」
思わず叫ぶ俺の声も、爆裂音にかき消される。
「旦那ァァ!こいつら、無限に爆ぜやがるぞ!」
ハルドは剣を握ったまま半狂乱に後ずさり、吐瀉物を垂らしている。
その頬にも赤黒い破片が突き刺さり、じわじわと肉が爛れているのが見えた。
俺は咄嗟に血の棘を伸ばし、周囲を薙ぎ払った。
だが棘に絡みついた破片は、しばらくすると膨張し始めッ
ドゴォンッ!
棘ごと吹き飛ばされた!!!
(破片は死ぬことで広がる。つまり、殺せば殺すほど増えるのかって!!!!)
「くっそ……つまりこれは、殺しちゃいけない。」
目の前の庭が、すでに地獄に変わっていく。
赤黒い肉の嚢胞が地を覆い、互いに共鳴しながら膨張を繰り返す。
まるで畑に撒かれた種が一斉に芽吹くように。
いや、それは芽吹きではなく、そんな優しくて温かいものじゃない。
これは腐敗の拡散だ。
ドン! ドゴン! バリバリバリッ!
至るところで爆発が連鎖する。
飛び散った破片が新たな核となり、また嚢胞を育てる。
破裂音と轟音が混ざり、庭全体が巨大な鼓動のように震えだした。
「……まだ終わっていない、どころじゃねぇな。」
恐怖と興奮がない交ぜになり、血管が勝手に蠢くか。お前も俺の感情に動くのか。
爵銀の残滓が全身を駆け巡り、俺の体は呼応するように熱を帯びる。
「旦那!どうすんだよ!?このままじゃ屋敷ごと吹き飛ぶ!」
「吹き飛ぶどころか……町ごと消し飛ぶかもな。」
俺は爆ぜる嚢胞の群れを睨んだ。
無限の増殖。無限の爆発。
「本当なら神術さえあれば跡形もなく焼き払えるがな。」
思わず文句が漏れる。
爆散したはずの血肉が互いを求めるように蠢き合い、腐敗と再生を同時に繰り返す。無数の断末魔を上げながら融合するその光景は、まさに悪夢そのもの。
「うぉおお。」
呻く声があれの中から響く、肉と骨と臓腑がずるりと癒着して一つの塊となっては増殖して別の個体へと。
もはや人ではなかった。
だが「人であった」という痕跡を確かに持っていた。
だからこそ、見る者の心を抉る。
膨張と収縮を繰り返す肉塊は、まるで鼓動する巨大な心臓のように地面を揺らす。切り落とされた腕の形、頭蓋の破片、脊椎の断片。それらが勝手にくっついては剥がれ、剥がれては爆ぜ、そしてまた新しい怪物の一部となる。
「近づいたら……まずい……!」
血管を纏っている俺ですら、その肉塊に触れていい自信はない。いや、むしろ触れてしまえば最後、血管ごと取り込まれる可能性すらある。
(この可能性が少しばかりあっても今は近づいてはいけない。)
「旦那!?」
ハルドの声だ
「なっ切るなッと!」
斬れば斬るほど、事態は悪化した。
肉片が飛び散るたび、それはただの飛沫ではなく、腐肉に潜む呪詛を伴った種となって周囲に撒き散らされる。地に落ちた塊は自ら蠢き、触れた者の皮膚に張り付き、瞬く間に同化を始める。
「う、うわああああッ!」
運が悪かった数名の使用人が、それに呑まれた。
彼らの叫びは肉塊に吸い込まれ、血と声が渦を巻き、やがて怪物の咆哮に変わっていく。
爆発音が途切れない。
小規模な炸裂が至る所で起こり、破裂した臓物が飛び散るたびに辺り一面がぬめりに覆われていく。近くにいれば、その一滴を浴びただけで命が脅かされる。
屋敷も溶かされていく。
俺は爵銀の流れを加速させ、血管を腕へと伸ばしながら集中する。
(これだ、これでいい、この一撃は一番いい時にやる。)
あとは近寄らずに攻撃を与え、爆発を誘発させ、その隙にさらに距離を稼ぐ。
「遠くで削るしかない……!」
肉塊が無限に増殖する中で、遠くで飛んでくることのある破片を丁寧に削るしかない。
「っ……!? ハルド!」
視線の先、ハルドが剣を振るっていた。
しかしその剣に、怪物から伸びた肉片が絡みついている。
粘液に覆われた触手のようなそれは、鉄すらも溶かすほどの粘着力を持ち、ハルドの腕ごと引き寄せようとしていた。
「くそっ、離れろ……!」
彼は必死に抗うが、怪物の力は想像以上に強い。
剣を手放せば助かるかもしれないだが戦士である彼が、それを簡単に捨てるはずもない。
(ならば俺がいくしかない!)
「待っていろ、今行く!」
俺は血管を地を這わせ、怪物の肉片に巻き付ける。
だが、ただ引き剥がそうとすれば、逆に俺の血管が呑み込まれる。
ならば爵銀を一気に流し、爆発的な推進力を与えて切断する。
血管を通じて力を送り込み、肉片を内部から裂く。
ビキリと嫌な音が走り、肉片が膨れ上がり、そしてドン、と破裂した。
「ハルド、今だ! 離れろ!」
弾け飛ぶ粘液を紙一重で避けつつ、俺は血管を彼の腕へと伸ばし、無理やり引き寄せた。
衝撃で転がった彼を支えながら、俺は荒く息を吐く。
「無茶をするな……次は助けられるとは限らんぞ」
「……わかってる。しかし師匠がくれた」
彼の言葉は最後まで続かない。怪物の咆哮が、それを掻き消した。
「ッ逃げるぞ! 一時撤退だ!」
叫びながら、俺は再び爵銀を駆動させる。
血管を地に打ち込み、反動で身体を遠くへ弾き飛ばす。
(くっ風が重い!)
神術がある時と異なる風圧の重みを感じているその間も背後では、肉塊が自壊と再生を繰り返していたようで、爆音が連鎖していた。
また何人かは既に飲み込まれ、声すら残さなかった。
「魔法をまた用意する!移動しながら戦うぞ!」
俺はそう言って息を荒げながら後退する。
怪物は追ってくる。切れば血肉が飛び散り、そこからまた癒着し、赤黒い肉片が爆ぜ、屋敷の廊下が吹き飛んだ。壁に塗られた古い漆喰が剥がれ、鉄の骨組みが露出する。
(咄嗟に横に飛び込み、崩れた梁を潜り抜けて走ったからなんとか助かった...視力はないのか、低いのか?)
「旦那ぁ!頭っ!」
なっと、怪物の肉塊が液体のように狭いところに流れ込んでくる。
触手のように伸びる腸管が天井に張り付き、そこから膨れた膿胞がずるりと落下する。着地した瞬間、膿胞は破裂し、爆風と共に黄緑色の飛沫が辺りを覆った。
「くそったれぇええ!」
ハルドが剣で飛沫を弾こうとするが狭すぎて上手く言っていない。
だが切るたびに肉片は裂け、また癒着し、さらに大きな爆発を呼ぶ。
俺は血管を前に走らせ、床板を打ち抜くように突き刺しては、支える点として、そして爵銀を帯びた赤い管が鞭のようにうならせて、崩れ落ちる天井を押し返した。
「やばいな……逃げないと」
(血管で地面を掘るのはいいが上手く出口が、あった。ここを打ち破る!)
「ハルドお前も探すんだ、円を置ける場所を!」
七つの要素の始まり、円。
儀式は常に円から始まる。どんなに粗末でも、どんなに歪んでいても、円がなければ何も繋がらない。
(こいつくらいになるとかなり手間のかかる魔法でないと無理だろうな。)
俺は息を荒げながら、走り抜ける先の中で円を描ける場所を探す。
後ろがまた爆ぜた。
背後から吹き上がる爆風に押され、俺とハルドは半ば飛ぶように階段を転げ落ちる。
「どうなってんだここ!広すぎだろ!?」
下階は食堂らしき広間だ。長机は半壊し、椅子が散乱している。絨毯には染み込んだ血が炎に包まれ、黒煙を上げていた。
「ここは……ダメだ、狭すぎる!というかすでに蔓延している。
「来なさったぎゃー!」
天井を破り、巨大な肉塊の影が覗く。無数の眼球がぎょろりと動き、俺たちを捕捉した。
(視力あんじゃん!!!ぎゃああ!)
「天井から垂れ下がる触手が何本も振り下ろされるぞぉ!」
「って下がれッ!」
俺は血管を広げ、鞭のように振り回して触手を叩く。爵銀が触れた箇所は一瞬だけ硬直し、動きが鈍る。
その隙にハルドが飛び込み、剣で触手を切断する。だが切られた部分はすぐに爆ぜ、破片と膿が辺りを吹き飛ばした。
「ぐわっ!」
衝撃で俺もハルドも吹き飛び、地面に叩きつけられる。耳鳴りが収まらない。
「旦那……! もう逃げ切れねえぞ!」
「まだだ!円を描くんだ、広くて、閉じた場がいる!」
「今はどこでも地獄だってのに……ッ!」
ハルドの声は悲鳴に近かった。だが俺は諦めない。俺ならば、数多にある魔法の記憶を持つ俺ならば。
(そう俺からすれば七つの要素は即興の儀式だ。戦いながらでも、逃走しながらでも積み上げられる。)
俺たちは広間を飛び出し、再び廊下を駆け抜ける。
「廊下多すぎだろ!!!」
怪物は背後から執拗に追ってくる。
壁を突き破り、肉塊の一部が前方に先回りして現れた。
「ちっ、囲んできやがった!」
「止まるな、走れ!」
俺は血管を突き出し、壁の崩落を押し返して道を作る。だが肉塊はしつこく、裂けた先から次々と再生して迫ってくる。
行き止まり。屋敷の奥、古びた温室のような部屋に迷い込んでしまった。硝子窓は砕け散り、蔦が垂れ下がっている。湿った土の匂い。腐った植物の根。
だが、俺の目はその中心を捉えた。
石畳の床。中央には円形の模様。
古い噴水の跡かもしれない。だが今の俺には、儀式の円にしか見えなかった。
「ここだ……!」
「はあ!? 何がだ!」
「見ろ、床の形だ。使える!」
俺は血管を伸ばし、崩れた床を叩き割って形を際立たせる。石片が円を描くように飛び散り、血が滴り落ちる。
(いい、いい、上等な儀式ができそうな場所だ。)
ハルドは混乱しながらも背後を振り返り、迫る怪物の触手を必死に弾いている。
「使えるだと!?まさかッまたあのすげぇもんを!!」
「そうだ。だがまだ始まりに過ぎない。」
怪物が突進してくる。
俺は息を吐き、掌を爪で切って血を床に垂らす。赤黒い液が石畳に広がり、噴水の跡らしき円を濡らしていく。
一つ目、円。
ここでようやく、儀式が形を得た。
だがここからが地獄だ。
怪物は止まらない。円を描いた場所すら、爆発で吹き飛ばしかねない。
俺とハルドはなおも走り、剣と血管で必死に時間を稼ぎながら、この円を守り抜かなければならなかった。
「旦那ァ!これで本当に何とかなんのか!」
「まだだ……!これは始まりにすぎない!」
「次は血だ。俺の血が完全に円を満たすまでは動けない。」
「は?こんだけ大きなしにま、うぉ。」
「平気だ、随分と集めてきた。使用人たちのものもさっき。」
(正確に言えば血管が勝手に集めてきてくれたと言うべきか。そして嘘をついて悪いが、血は俺の、魔法使い自身の爵銀を帯びていないとダメだ。これらはただの贄。だが..だが。)
「だが。だから安心するんだ、必ず完成させて勝って見せると。」
(しかしそうは言っても。)
周りを見渡しても悍ましく、焼き爛れた肉片が這う。飛び散った臓腑の一欠片でさえ、壁や天井に触れれば即座に癒着し、膨張し、やがて破裂する。爆発の衝撃に硝子窓が割れ、吹き込む風に火が燃え盛り、屋敷全体が悪夢の臓腑の中へ飲み込まれていくかのようだった。
俺は血管を鞭のように繰り出し、遠くの梁へ絡みつけて身を引き寄せる。触れたら最後、奴の肉に呑まれるのは分かっている。だから決して直接には触れない。
「ザル=グラ・バシュ=イェル・ガルド=トゥリ――!(血を掲げよ、声を裂け、道を穿て……!)」
喉を裂くように声を吐き出した。血を吐き、呪文を流し込むたび、視界が揺れ、足元がふらつく。それでも止められない。これはただの逃走ではなく、儀式を進めるための追い詰められた戦いなのだ。
掌を切り裂き、血を床に散らした。血溜まりが赤い円を描きかける。だが次の瞬間、何処からか壁を突き破った肉塊が襲い掛かってきた。
「くそっ!」
ハルドが腐食されて折れた剣先を振り抜き、肉を断つ。だが切り口から液体が噴き出し、細い糸のように飛び散った。それが床に触れるなり、じゅう、と音を立てて再び癒着し、赤黒い芽のようなものを伸ばす。
「まだ……円になってねぇ!」
俺は血管を巻き取り、そして突如と外すように跳ねさせてはその力で飛ぶようにして別の部屋へ転がり込んだ。
床に描きかけた円が、肉片の爆発で吹き飛ばされる。血の模様は掻き消え、儀式はまた振り出しに戻る。
「はあ!?」
思わず叫んだ。自分でも声が震えているのが分かる。
轟ッ!
今度は天井を突き破って伸びてきた肉塊が、無数の手足を形作りながら落下してくる。
ハルドがその一つに剣を突き立てた、しかし刃が引っ張られ、肉の中へと飲み込まれていった。
「離せ! クソがっ!」
ハルドの肩に肉の腕が絡みつく。俺は血管を伸ばし、奴の体に絡みつけて引き寄せる。自分ごと引きずり倒されるのを承知で。
「まだ死ぬなよ、ハルド!」
床に倒れ込み、二人して転がりながら必死に肉塊を振りほどく。俺は叫ぶように次の句を放った。
「トゥリ=カラ・ナサ=グロム・エル=ハルグ! (肉を砕け、骨を割れ、力を示せ!)」
呪文とともに血を散らす。血管が勝手に暴れ出すかのように蠢き、床の赤が歪みながら円形を形作り始める。
だが完成前に、またしても爆ぜた。
耳をつんざく轟音とともに、赤黒い肉塊が火花を散らし、壁を吹き飛ばす。衝撃で円は消え、俺たちはまた何処かへと投げ出される。
「うああ!」




