第4章 コピヤの詩
第4章 コピヤの詩
1
きっと、目が冷めたのは、寒さのせいだろう。体がびしょびしょにぬれていた。なのに、無抵抗に横たわっていた。ぼんやりとしかみえない視界の目の前に水たまりがみえた。激しい雨が水面を揺らしていた。しかし、太陽の光がそそいでいた。天気雨なのだ。
道路に横たわっている?
他人事のようにそう考えているうちに、道の遠く向こうに、等間隔を保った光の点が二つ見え、それが徐々に大きくはっきりしてきた。おそらく、昼間の、車のヘッドライト。
それが大きくなるにしたがい、こいつはまずい、早くここから逃げないとひかれてしまう、というあせりは募ってきたが、体がどうにも動かなかった。投げやりな、あきらめのため息に、迫ってくる車のエンジンの音が重なった。耳を道路の地面につけているので、車の音が地鳴りのように大きく響いてきた。最後に覚えているのは、車のエンジンと急ブレーキを踏み込んだ雷のような音だった。
気がつくと、彼は、ある病院のベッドの上に寝かせられていた。
道路の上に横たわっていた寒さは遠く、すでに記憶の中にしかなかった。ベッドは柔らかく部屋も暖かい。幸福な気分で今度は目が覚めた。そう、道路の上での、あの寒さと恐怖が、記憶の中に確かにある。しかし、それが、思い出せる最後の記憶だとしたら、そうだとしても、それすらもいとおしく感じるのは不思議なことではなかろう。
彼は、どうやら記憶喪失になったようだ。おそらく、今回の事故のせいで?
彼が目覚めたのにたぶん気がついてないのだろう。ベッドの横で、3人の男性と1人の女性が話しをしていた。4人の顔は、いずれも彼の記憶になかった。
「本当に、ここの医者で、大丈夫なのかい?」
「大丈夫でないにしたって、他にどこへ連れていくっていうんだ?外には確かに、病院の看板はあったし」
「ねえ、マコトのおっさん。お宅、しばらく前からここの街を車で走りまわっていたみたいだから、他に病院の看板みているんじゃないかい?」
マコトと呼ばれた男は、40歳くらいだろうか?4人のうちただひとり、やや老けて、みすぼらしい感じがした。残りの2人の男性と1人の女性は、まだ若かった。20歳前後だろうか?言葉使いもぞんざいだ。でも元気がいい。
「われわれの車で、寝ていた彼をひいた現場からはもっとも近い病院だ。なにより一刻を争うだろう?こういう場合」
「そうよ。いやな顔ひとつせず、他の病院にたらいまわしにするようなこともせず診てくれたし。なんかてきぱきしてたわ」
と、若い女性が言った。名前はリコというらしい。
「ぼくもリコと同じで、いい印象をもったけど。だいたい、シュンは、医者不信が強すぎるんだ。第一、いままで一番病院にお世話になっているのはシュンだろう?」
「そうさ。小さいころ喘息で、さんざん世話になっている。だからこそ、ほかの人より医者のこともよく知っているのさ。タイチより目が肥えているのさ」
「ぼくだって、医者と坊主と警察は、根拠はないけど完全には信用してないけどね」
「何言ってるのよ、タイチ。少なくとも魔法使いよりは私は信用をおいているわ」
「それはなにを今更、というかんじだよな、シュン」
「きつい一言」
あちこちぶつかっているせいだろうか?どうにも体が重く、彼は、目覚めたまま、長くは同じ姿勢で寝たふりを続けることができなかった。寝返りをうった。
「あら、目がさめたようだわ」
4人は話しをやめて立ち上がり、彼の方にちかよってきてベッドのまわりを囲んだ。
2
看護師をつれた医者が彼を診察して、病状を車に乗っていた4人に説明した。
最初その医者の顔をみたとき、友人のダイゴ医師に似ていたので、「彼までも、この世界にとらわれたのか?」とマコトは一瞬どきっとしたが、他人の空似だった。
「奇跡的に、といっても、この街ではけっして不思議ではないのだけれども、彼は無傷です」
リコが言った。
「よかったわ。でも、わたしたち、悪くないわ。だって、この人、雨の中、道路の間真ん中で勝手に寝ていたんだもの。お酒にでも酔ったのかしら?いい迷惑よ」
「アルコールは検出されていません」
その、コマツと名乗る医者にタイチはたずねた。
「奇跡的だが、この街では不思議ではない、というと?」
「わたしもこの街にきた当初は驚いたのですが、彼は、この街に特有の生物です。生物といえるのか?でも、この街のどの家にも彼のような生き物が1軒に一つ以上いるのです。私の家にも、同じタイプのものが、いつのまにか住みついています」
「特有の生物?」
「よく顔をごらんなさい」
4人は、彼の顔をのぞきこみ、驚きの声をあげた。
「なんだ、この仮面のような顔は?」
「表情がないわ。マネキンみたい」
「そうです、彼はまさに生き物というよりもマネキンといったほうがいい。私も最初は驚いたのですが、他の街の人に聞いても、当然のようにしているので、なんか大騒ぎするのが恥ずかしくてね。今でも気になっているんですが」
「そんな、いいかげんな」
「彼の仲間の一人をCTスキャンで検査したことがあります。体の中は何もないのです。心臓も肺も肝臓も腸も、脳や神経系、血管系、筋肉や骨などの骨格系も、何もありません。ろうや石膏で作った人形そのものです」
「だけど、生きているんだ」
「生き物の定義は、基本的には、体内のATPという物質を使ってその構成細胞が維持されているかということになるでしょう。単細胞生物にせよ、多くの細胞が集まって機能的にいろいろな臓器が見られる動物にせよ、植物にせよ、細胞維持のためにATPを使うということは共通です。例えば、動物は呼吸して酸素をとりこみ食事により栄養をとりますが、最終的には、酸素とエネルギーは、体内でATPの生産につかわれます。これが、生命を維持するため摂取される物質の体内での最終産物です。どの臓器でもATPが細胞維持のためにつくりだされ使われる。いわば、ATPは、体内での貨幣のようなものなのです。そして、この目の前のマネキンには、細胞がない。当然ATPも体内にない。しかし、動き、活動し、話し、聞くことができる。この場合、彼を、生き物としていいものか」
「機械やICチップがあるサイボーグではないの?」
「そういう機械部品も一切、体内にない」
「それじゃあ、おばけじゃないの」
自分がおばけといわれていい気分になるものなど誰もいないだろう。それに、自分と同じタイプが、いたるところに生息している?いったいどういうことなんだ?
彼は、ベッドから体を起こした。4人は、あとずさりした。顔の恐怖の表情がよみとれ
る。タイチが、なにかぶつぶつ口を動かしている。そして、こう静かに言った。
「だめだ、やはり、この世界で『逆魔法』が効かない。ぼくは魔法の力を失ったままのようだ」
彼は、タイチが何を言っているのか理解できなかった。逆魔法?そういえば、リコという女の子が、魔法使いはもっと信用できないとか言っていたっけ?コマツ医師が言った。
「心配しなくていいですよ。この街の他の家にいるこいつの仲間たちには、暴力的なやつはいないんです。彼らは、家の中にいて、住人の話し相手になったり、庭やベランダの植物に水をやったりしている。眠らないし、食事もとらないし、病気をしたり年をとったりすることもない。誰が名づけたのかわからないが、街ではコピヤと呼んでいます」
シュンが言った。
「コピヤか。みな同じコピーということかな」
「コピヤには、他に、契約という意味もあると思ったが」
と、マコトが言った。契約?何の契約?
「少なくとも、人身事故でわれわれが訴えられることはなさそうだな」
と、ほっとしたようにタイチは言った。
3
コピヤは入院するまでもなく退院することになった。だが、3人は、しばらく、ここに宿泊させてもらう許可をもらった。病院の空床ベッドで、寝るのだ。
数日後、マコトはコピヤのベッドの横で、ここの院長が学会に参加しているTV中継をみていた。すごい参加人数だ。フロアには、椅子が階段上にそなえつけてある。1000人くらいは収容できそうだ。正面には大きなステージとスクリーンがあり、『第X回日本医学会、クレヨン・コーポレーション共催』という大きな垂れ幕がある。
そこで、コマツ医師が何かの講演をした。そして、そのあと、質問にたったのは、あのアイだった。ふたりはしばらく、静かに議論していたが、アイのほうはだんだん激昂してきた。
あなたのコピヤに関する「コピヤに医療労働はできない」という考えはまちがっているとか、なんとか。議論はかみあっていないようだった、ついにアイが、言った、
「せっかく、わたしがあなたのために、あなたのクリニックを用意してあげたというのに。だから医者は信用できない。オウムの事件でも、自白したのは、元医師ひとりだけだった。どんなにおいつめられても、ちっぽけな正義感、プライドを、すてられないのが医師という人種なのね。あなたのクリニックなんて爆発してやる」
(そういうものなのか?)
アイの強い言葉を聞いて、マコトは、そこの医者に似た、長年の友人であるダイゴ医師のことを、おもわず思い返した。
(でも、そんな、ぼんやりしている暇はない。これはあぶないぞ)
彼女の妄想であるこの世界では、彼女は、時空を自由にうごける、神出鬼没に違いない。
そのとき、リコが病室にやってきてコピヤに言った。
「外が騒がしくなっているから、今から屋上にすぐいくわよ」
屋上にいくと、タイチ、シュンがすでに来ていた。
「もうすぐヘリがくる」
タイチがいった。まもなく、ヘリがやってきた。それは、普通の車の上に大きなプロペラがついているといった見慣れぬ形をしていた。車の運転はマコト。助手席にシュン。後部座席のまんなかに、タイチと、その両脇にリコとコピヤ。
リコは、ずいぶん、コピヤが旅の仲間にはいるということに反対していたようだった。
「とにかく、正体がわからないものよ。あなたたち気味がわるくないの?」
でも、少なくとも害を与える風ではないということ、この街をこれから理解していく上で、このマネキンについて知ることは、とても重要だ、と3人の男たちは主張した。
「わかったわ。でも、しばらく、わたし、このマネキンのとなりに座りたくはないわ」
女性は失礼だ。もう少し、言い方があるだろう。その言葉に、コピヤだから傷つかないとでも思っているのだろうか?差別することは、もっとも安易な人間関係の解決方法なのに。
体はコピヤかもしれないが、自分は彼ら人間と変わらないと思っている。記憶は、あの事故の直前、道路の上で目ざめた以前のものがなく、自分でも、もどかしいが、そのほか、彼らの行動や言葉は完全に理解できる。それでもバックミラーに映る自分でみる自分の姿は、明らかに、となりのタイチやリコとは違ったものであることは認めないわけにはいかなかった。
「それにしても、変わった奴だな。このコピヤ野郎は」
「うしろのトランクの中にでもいれておこうか」
「静かにしているならこのままでいいわ。そんなことをしたら、あとで呪われそうだし」
このリコの一言で、コピヤはトランク行きをまぬがれた。さきほどの差別発言は大目にみることにしよう。
彼らは、自分のことを奇妙なやつだといっているが、こちらの立場でいわせてもらえば、彼らこそ奇妙な奴らだ。そもそも、彼らは、なにを目的に、車で移動しているのだろう?しかし、直接それを聞くには、コピヤの性格は控えめすぎた。まあ、あわてなくても、一緒に旅をすればいずれわかってくるさ。
4人と一体のコピヤは、普通に車にのりこむようにそのヘリに乗りこんだ。マコトは車のようにハンドルをにぎり、ブレーキを解除し、アクセルをふんだ。ヘリは空中に舞い上がった。
やがて、その病院の全体像がみえるくらいまで、ヘリが上ったとき、病院が、大爆発を起こした。危機一髪。ヘリは、スピードをあげてそこから遠ざかり、そして着陸した。
「なぜ、誰が、こんなことを?」
「アイが、そうしたいと思っていたのさ。理由は想像するしかない。日本の医療を根本から改善するのにはそうするしかないと思ったか、それとも、個人的な医者への、あるいは、医療全体への恨みからか」
「個人的なって、あの、コマツというここの医者?」
「でも現実には、大爆発で死亡するものは誰もいないさ。みな、本物でなく幻想だから」
確かに気がつくと、車の屋根にあったプロペラも消えていた。普通に車が道路を走っていた。
もう『ショー』はおわったのだ。
マコトが、つぶやいた。
「それでも、たいしたもんだ」
しばらく、車内は沈黙が続いた。マコトがその沈黙をやぶり言った。
「あれ、この車のナビ、ぼくの車と違って、動くぞ」
「ナビが動くのかい?この街にきてから携帯の電波がとどかないと思っていたが」
とタイチがいうと、シュンは答えた。
「たぶん、この街で携帯を買えば、ここの世界の中では、電話は通じるだろう。でも、外部には通じない」
「でも、そのナビも携帯もあてにしちゃいけないわよね」
「そうさ、ぼくらは、地図をたよりに進むのではない。地図をつくっていくのが今回の旅の目的だ。地図を完成させるようにくまなく走れば、この街がどこにあるのか、どういう風に『ある』のかわかってくるかもしれない」
「地図の街をみるんじゃなくて、街の地図をつくるのね。もしかしたら、あの壁画の物語に書いてあったように、ここの『人工太陽』をのぼらせる溶鉱炉のような工場が、この街のどこかにあるかもしれないのね。それが、この街の沈まない太陽をうごかし、街そのものをつくるエネルギーになっている。もし、そういう工場をみつけたら、そこを破壊するのよね」
とリコが言った。
「そのとおり。たぶん破壊する。でも、まずそこをみつけるのが先だ。そういう工場が実際あるかも確実なことじゃない。ただ、この街は、まちがいなく奴の魔法でつくりだされた幻想の街だ。奴の魔法でつくられた幻想なら、この世界の外に出れば、ぼくの逆魔法が効かないはずはないのに。でも、今のぼくは無力だ」
とタイチは沈んだ声でいうのだった。
4
「ナビは無くてもいいのだろうけど、無いと少し寂しいわね」
とのんびりした口調でリコは言った。タイチの声は無愛想だった。
「そのナビ、使えばいいじゃない」
「そうお?私、意外にナビが好きなのよね。あの、指定された道を行きすぎても、文句ひとついわずに、新しいルートを一生懸命案内してくれる、あのけなげさがかわいい」
コピヤは思った。
ナビのことをかわいいと思えるくらいなら、自分のことだってもう少し、気持ち悪がらずかわいがってくれてもいいはずだ。でも、自分には、ナビのように新しい道を示すようなことはできないだろう。コピヤはもっと控えめなのだ。
「ナビがかわいい、か。おい見ろよ。きれいな海岸だ。ここは島なのかな。道もだいたい1本道で、太い交差点もない。意外に、1、2日でまわれちゃうかもしれないな」
とシュンが言った。
「ここが島としたら、車で海岸線を1周した後は、今度は、中央の山のほうへむかおう」
タイチ、シュン、リコにとっては、この街が島になっていることにまったく違和感はないのだろうが、マコトにとっては受け入れがたい風景のようだった。
(この街に海岸線があるなんて。ましてや、島でまわりが海に囲まれているなんて。ぼくは、自分の働いていた街から車を走らせてくるときに、海を横切ったおぼえはまったくない。いったいどうやって、この街に迷い込んだんだろう?どこかの角をタイミング悪くまがってしまったんだろうか?こんなことなら、家族に別れの手紙でも書いておけばよかった。・・・でも、別れの手紙も、きっと書くのはたいへんなんだろうけど)
「なんか変かい?」
「うん。いや。ぼくはこんな近くに海があるなんて思いもしなかったんだ」
「そうなのか?・・・ところで、この街には、カレーライス屋はもともと多いのかい?ハッピー屋、という名前のカレーチエーン店が道のあちこちにあるみたいたけど」
「いままでも何回か通り過ぎていた店だよな。どうだい、みんな。今度、そのハッピー屋という店をみつけたらそこで食事にしようか?」
しばらくして、車は、郊外のファミレスといったかんじのカレー屋の駐車場に止まった。
タイチが鼻をくんくんさせて言った。
「このにおい、どこかでかいだことがある」
「あら、おいしそうなにおい。食欲をそそるわ」
この街には貨幣というものがなかった。変わりに、各自が連れているコピヤが店で働いて、そこの店の商品を手にいれるのだ。車のガソリンもコピヤがいれれば無料だ。スーパーでの買い物も、ホテルのチエックインも、コピヤがやれば無料だ。そのことを知ると。コピヤは、自分が4人のお荷物どころか、4人にとって必要不可欠なものと、とわかって嬉しくなった。
このカレー屋に入る時もそうだった。カレー屋の中に入ると、コピヤだけ、店の裏のほうに連れていかれて、4人のために、カレーづくりを厨房で手伝わされた。厨房では、多くのコピヤが働いていた。コピヤは、記憶を失ったコピヤなので忘れてしまっていたのだけれども、この街の人々そういう風に生活しているらしい。この街で、コピヤは生活のために必要なもののようだった。
働くのがすむと、コピヤは食事が必要ないので、駐車場に停めてある車のまわりをぶらぶらして、彼らの食事をすむのを待つことにした。店の裏手にまわると、そこには、コピヤがいた。自分そっくり。つまり別のコピヤだ。たぶん店にきたお客のコピヤではなくて、この店のコピヤだろう。みな同じなので、証拠をしめすのは難しいが。彼は、店の裏にある、黄色い花に水をやっていた。彼岸花に似た花だ。自分そっくりの別人が何人も目の前にいるというのは、奇妙なものだ。勇気をだして、彼らと話をしてみようか?
コピヤが、もっと奥のほうへまわると、店の店長だろうか?お勝手から外へでて、タバコを吸って休憩をしていた。
「ああ、おまえか」
店長は、たぶん、コピヤを取り違えていたのだろう。それくらいそれぞれのコピヤは似ていたから。コピヤは黙って、彼のそばに腰をおろした。そして彼の話を聞いた。
彼は、三十一歳の時に今まで勤めていた会社を辞めた。同僚や上司の姿をみるにつけ、このまま勤めていても、彼の期待するような人生の変化は望めないと思ったからだった。たとえ、彼自身が、自分の期待が何かとは具体的にこたえられないにしても。
退社前の五年間、仕事が終わると、料理学校で料理の腕を磨いた。退社後は、今まで貯金したお金で世界中を旅行して、各国の料理を食べ、調理法の研究をした。そしてついに、彼は自分の店をかまえることになった。それは、彼にとって新しい生活だった。朝早く起きて電車で出勤する代わりに、夕方に起きて自転車で店に向かった。途中、材料の買い出しをして、夜八時から店を開いた。お酒と簡単な食事。そして、特別メニューは、食べた人が幸福になるという謳い文句のカレーライスだ。
実際、このカレーライスは効果があるという評判になった。食べた後、不思議な力がわいてきて、困難な仕事や複雑な人間関係が、魔法を使ったかのように解決するのであった。
「しかし、そんな効果があったのは、チエーン店にする前の話だ。でも、わたしは、クレヨン・コーポレーションにレシピを売ってしまったんだ」
「カレーにおいしさの他に何を求めるのです?見てください。あの4人の、カレーを食べている顔。あんなに嬉しそう。ぼくは味がわからないのだけど、きっとおいしくて、今彼らは幸せに違いない」
コピヤは、勝手口の外から、わずかにみえる店内の方を指差して言った。
「ありがとう。君はいいやつだ」
どんな悪い状況でも、体が温かくておなかがいっぱいなら、人生悪くないと思えるものだ。
5
「おいしかった。でも、このカレー、前に食べたおぼえがある」
と、マコト言った。この世界に迷い込む前にアイに出されたものを食べて、睡魔に襲われたあのカレーと同じ味だった。だが、今度は眠くなるようなことはなかった。
タイチが答えた。
「ぼくもこの味、どこかで食べた気がする」
確か、アイは、昔彼女の生徒だった「タイチ」という少年が大きくなって、このカレーをつくったと言っていたが、このタイチとは年齢が違う。別人か?同じ人か?この、時間の流れがランダムなこの世界なら、同一人物ということもありうるかもしれない、とマコトは思った。
「どうせ、タイチのいうことはわかっているわ。ママがつくったカレーの味と同じだっていいたいんでしょう。マザコンなんだから」
(リコはファザコンだろう?)
とか、いつもなら、返事が返ってくるはずなのだが、タイチからの返事はなかった。あいかわらず元気がない。でも、一方で、リコは思った。
(タイチやシュンのような魔法をもたないわたしでも、この世界なら対等のはずだ。彼らはここでは、魔法はつかえないのだから)
リコは、駐車場のとなりにある、一軒の雑貨屋を指差した。
「あの店をちょっとみてみたいわ。なんか、高速道路の建設中なのかしら?高架下みたいなところにあるけど」
確かに、100メートルくらいだけ高架があって、あとはとぎれていた。そして、その途中で途切れた高架を屋根のようにして、その店はあった。高架の上にはときどき車が走っていた。途切れた高架の端から車が急にあらわれ、みえている高架を走った後、もう片方の端に車が消えていくのだった。
(もしかしたら、みえない高架の両端は現実の世界とつながっているのかしら?)
その雑貨屋で、リコは、なつかしいサイコロキャラメルや、キナコモチチョコをみつけて大喜びだった。そのほかに、リコは、鎖につながられた、ねずみのぬいぐるみをみつけた。
タイチが言った。
「あれ?それ、知っている。小学生のとき、ママが病気になったとき、枕元にあった『チュー』だ」
「『チュー』?ねずみのぬいぐるみに、チューなんて名前つけるなんて、頭つかってない、って感じよね」
そう言ったリコに、タイチは抗議した。
「人形をあなどるなよ。たとえねずみの形の小さな人形だって、魔法を使えることだってある。ママの入院中、その人形にそっくりのねずみの人形は、ママの寝ているとなりで魔法を覚えて大活躍したこともあるんだぞ」
「失礼しました。あなたにはそんな力があるの?」
タイチには、そのねずみの人形が、リコにそう言われてかすかにうなずいたように見えた。
タイチは懐かしい気持ちと共にふと思った。
(どうしてこの世界では、ぼくの昔の記憶と重なるものが、こうもでてくるのだろう?)
「なんか、あなた戦争にまけた捕虜のような顔をしているわね。あなたたちは誰と戦ったの?クレヨン・コーポレーションのアイと?それともコピヤたちと?」
リコは、その鎖につながれたチューの目に、原因不明の病気で寝続けているタイチの母親の姿を見たような気がした。このチューを鎖から解き放てるのはわたししかいないわ、と直感したリコは、とりたててかわいいともいえない、そのチューを買うことにした。
それを買うために、またコピヤは、店の奥で働かせられた。商品の整理、そして、在庫チエックなどをさせられた。確かにリコがいうように、この店で働くときのコピヤの制服は、捕虜を監禁している牢獄の看守のようなデザインだった。
その店をでるとき、その店にいたコピヤが、黄色い彼岸花に水やりをする手をやすめ、こちらにむかって手をふった。愛想のいいコピヤだ。自分と同じ彼がいることに、コピヤは少しおどろかなくなってきていた。たぶん、あの4人組も、だ。
コピヤも人間も、慣れ、うけいれる能力は高いようだ。
6
相変わらず、車は海岸沿いを走っていた。シュンが急に言った。
「マコトおじさん、車をとめてくれ」
「どうしたんだ」
「いいから、車をとめて、そしてUターンして、砂浜の方にむかって」
「わかったよ」
マコトは言われたように、車をとめ、Uターンして少しもどり、海のほうに向かった。
「なにをみつけたんだ、シュン?海のむこうに海底火山の煙でもみえたのかい?」
「ちょっと面白い三人組をみつけたんでね。これもこの街の観察かな?と思って」
「面白い三人組み?また例の工場でも見つかったんだと思ったよ」
「まあ、きまぐれだけど」
「きまぐれね。きまぐれで、このまま走って、車ごと海につっこもうか?」
「頼むからやめて、タイチ」
と、あわててリコが言った。
「あなた本当にやりかねないから」
「危険なわけないさ。昔、ママの車で、海底を車で走って外国までいったことがあるんだぞ」
「まあいいわ。とにかく、ここでストップ。何をしている三人組かしら?」
砂浜にぽつんと三人はいた。一人は、砂の上に座ってずっと鏡にむかって、イーをして自分の歯をむきだしにしてそれをながめていた。もう一人は、その横で、ずっとくるくるまわっていた。そしてもう一人は、望遠鏡をかたときもはなさず覗き込んでいた。
正確にいえば、コピヤが、三人の横でそれぞれに一体ずつ計三体、砂浜の上に寝そべっていた。強い日差しの中でみるとコピヤには影がないことがわかった。決してコピヤと影ふみごっこをしてはいけないということだ。しかし、コピヤをカウントする気は、もう4人にはないようだ。ということは、自分もカウントされなくなっているということだろうか?
「こんにちは」
「こんにちは」
同じ場所で回転している人が答えた。
「何をしてみえるんです?」
「見ればわかるでしょう?回っているんです。ぼくは10秒間の間に5回以上回転しつづけないと、風に飛ばされてしまうんです」
「風、吹いてないけど」
「風がないときは、回転虫に襲われるんです。砂の中から急にわき出てきて、回ってないと、砂の中にひきずりこまれるんです」
その人は、ほとんど、会話ができないほど、10秒間の間にたえず5回転していた。
「ずっと、回り続けているんですか?つらいでしょう?」
「とんでもない!回転したくて回転しているんです。つらいなんて!回転すれば、頭の中の常識が砂のようにさらさらと流れ去りすばらしい考えを思いつく。なんならぼくが回転のしかたをお教えしましょうか?
いや、そう簡単なものじゃあない。野球の本を読んでも野球が上手になれるわけではない。育児の本を読んだからといって、赤ん坊が産めるようになるわけではない。それと同じですよ。なかなかこれがむずかしい。
でも、慣れれば、回転しながらでもけっこう眠れるものです。それに、回転すればするほど、所有するコピヤの数が増えていくのです。どうです、ぼくの周りには、ずいぶん、たくさんのコピヤがいるでしょう?」
だが4人には、砂浜にねそべりのんびりしているコピヤが3体いるのが見えるだけだった。
「きっと、目が回って、コピヤがたくさんいるように見えているだけよ」
リコが小さい声でつぶやいた。
もう一人、座って鏡にむかい歯を映している人は、歯が月に1回すべてぬけて、1ヶ月のうちにすべて生え変わるということだった。気になって、気になって、いつも鏡で、自分の口の中を観察しているという。
もうひとりの、望遠鏡を見ている人の横には顕微鏡もあった。遠くを見るときは、望遠鏡、近くを見るときは顕微鏡。必ず、どちらかをつかって見るようにしている。『裸眼で見る』なんて、なんておそろしい、と彼は言った。
「そうしなければ、物事の本質や真の姿を見失ってしまいます」
リコがためいきをつきながら言った。
「どの生活もたいへんそうね」
「そういえば、お三人さん、いつもここで何を食べてるんだい?海の水でものんでいるんじゃないだろうね? ぼくがいいレストランをしっているから紹介してあげようか」
「いいレストランって?」
砂浜の三人組はタイチに尋ねた。
「そこは、風のないレストランなんだ。だから、回転しなくてもふきとばされないし、歯もぬけかわることはないし、道具をつかわなくても普通にみれば本当のものがみえる」
「でも、そこには、カメの卵とか、ヘビの卵とか、トカゲの卵はおいてないだろう?ぼくらにいいレストランを紹介するなんて、グルメ情報誌の編集長に、おいしい店を案内するようなものさ」
「そんな、甘い話、世の中にあるはずがない」
「だまそう、ったって、そうはいかないぞ」
砂浜の三人組は、タイチのいうことに聞く耳をもたなかった。
「回転をやめるとぼくは死んでしまうんだ」
「鏡をずっとみてないと、歯が上下のあごにつきささって、たいへんなことになるんだ」
「真実をみすごしたらたいへんなことだ」
「あなたたち、夜になってもここにこうやっているの?」
「夜?君は、何を言ってるんだい?」
「夜、真っ暗な砂浜でもこうやっているの?」
「夜なんて、来ないじゃないか。太陽は、1日中、頭のてっぺんから動かないじゃあないか」
リコはためいきをつきながら、シュンにいった。
「どうやら、わざわざ寄り道する価値は、少しはあったようね」
マコトは、黙ったまま、車をまたもとの道のほうに動かしはじめた。三人組の姿は、みるみる小さくなっていった。いったい、彼らはいつまで回り続け、鏡を見続け、望遠鏡をのぞき続けるのだろう。永久に?
とにかく、やはりこの街には夜がないことは確かめられた。
7
4人とコピヤが出発してから、ずっと太陽は頭のてっぺんにあった。かれこれ4時間は走っているだろうか?しかし、太陽の位置は変わらない。アイが『沈まない太陽』を創り出したというのは本当のことのようだ。
車はしばらく走ると、今度はガソリンスタンドにはいった。5箇所あるスタンドの4箇所までの場所は、既に車が止まっていた。給油できるのは1箇所のみ。しかし、停めてある4台の車には誰も乗っていなかった。そして、それぞれの車の窓の内側からはりがみがはられていた。
「ご迷惑なのはわかっておりますが、もうしばらくしたら動かしますから、このまま置かせてください」
その横には、窓の外からのはりがみがしてあった。赤い文字で、こう書かれていた。
「違法駐車。警察」
給油は、コピヤにしか動かすことができないようになっていた。コピヤは、なにが起こるのかと少しどきどきしていたが、普通のセルフのスタンドと同じように給油を終えることができた。ただ、売り上げ伝票には、こんなメッセージが記されていた。
『申し訳ありません。ここは、ブタ人間がいるスタンドです』
マコトが車のエンジンをかけると、その伝票に書かれたメッセージが新しく変わった。
『毎度、ありがとうございます。ブタ人間はなまけものなので、外に姿を現しません』
「なによ、この伝票。ちょっと、人をばかにしてない?」
とリコは言った。
「ぼくはむしろ、ぼくらのみえないところから、彼らがこっちをじっと観察していると思う方が気味が悪いな」
とシュンが答えた。マコトは事務的に、車を出発しようとした。
「ちょっと待って、伝票の文字がまた変わったわ」
『毎度ありがとうございます。よければ、出発前に、われわれのいうことをお聞きください』
「ストップだ、マコトおじさん」
「また、街の観察かい?シュン」
少し、皮肉まじりの声でタイチは言った。少し動いて止まった車の目の前を、プラカードが右から左に動いていった。そこにはこんな文章が書かれていた。
『われわれブタ人間は、現代科学の産物なんです。われわれは、ブタの臓器を移植した人間です。不治の病をかかえ、それをなおすには、臓器ごといれかえる、移植という方法しかないのです。金のないわれわれは、中国をはじめとする海外で、人間の死体からとった臓器を移植するかわりに、生きたブタから臓器の提供をうけたのです。これは、異種移植とよばれる、れっきとした、現代医学の研究分野のひとつです。
超急性拒絶反応を抑える、ひそかに開発され非合法につかわれた免疫抑制剤のおかげで、ブタの臓器はわれわれの体に無事、生着しました。しかし、そこで、思いもよらぬ現象がおこったのです。ブタのもつウイルスにおかされた?いえいえ、そんなことではありません。われわれは、だんだんとブタ化していったのです。具体的には、大食らいのなまけものへと性格がかわっていったのです。
われわれに異種移植をおこなった科学者たちは、このことをマイクロキメリズムと呼びました。これは、同種移植でも観察されていたことです。つまり、ドナーの細胞が、移植した臓器だけでなく、その他の骨髄や肝臓などの臓器に観察されるという現象です。ブタの臓器を移植したあと、ブタの細胞が、われわれ人間の脳細胞に多くあらわれ、かくしてわれわれはブタ人間になったのです。
メッセージを読んでくださりありがとう。われわれは科学者たちを恨んだりはしていません。
むしろ、健康な体と、健全な精神を手に入れることができ感謝しています。それどころか、異種移植の実験が、中止になってしまいましたので、われわれはこうやって、われわれが元気に楽しくやっていることをアピールして、また、実験が再開されることを祈っているのです。
きっとクレヨン・コーポレーションの社長のアイさんはわれわれの願いをかなえてくれるでしょう』
スタンドの中に一体のコピヤの姿をちらりとみかけたような気がした。




