第1章 万華鏡
プロローグ
「テロリスト」
いつも通っている図書館へいく道の途中に交番があって、そこの前を通るたびに、爆弾犯人の指名手配のポスターが目に入ってくる。
ああ、かわいそうな言葉のテロリストたちよ。決して爆発して人を殺めることのない、言葉の爆弾を投げ続けている。
ぼくは学ばねばならぬ。
爆弾のように、はなばなしく爆発して消えていく言葉ではなく、さびが金属をむしばむような、じわじわ侵食していく爆弾の製造方法を・・・。
第1章 万華鏡
1
新しくみつかった洞窟の中に、古代のものと思われる壁画が発見されたという報告を聞いて、考古学者のススムは首をひねった。
あの地方に、古代にヒトが住んでいたという可能性は、今までの日本の古代史の常識では考えられない。もちろん、それが、日本の古代史をくつがえすような大発見ということもありうる。きわめて情報の少ない、縄文時代より前の、前中期時代に属するものか? それとも単なる子供のいたずらなのか?
その洞窟は、集中豪雨により発生した土石流が川沿いのきりたった崖をえぐることで、その入り口を現した。平地から十メートルほど上のところに、家の小窓ほどの入り口がぽっかり開いていた。土石流の運んできたおおきな岩を階段のようにつたいながら、そこにたどりつくことができた。
調査隊は総勢八名。その中には、ススムの一人娘のリコも混じっていた。考古学専攻の大学生だ。リコは首に、ちいさな体にふつりあいな、いかついカメラをぶらさげていた。デジカメではない。
外界に露出した入り口から洞窟に入ると、巾二メートル、高さ二メートルの、歩くにはちょうどいい通路が奥へとつながっていた。問題の壁画は、入り口から五十メートルくらい入ったところにある二十畳ほどの小部屋の中にあった。ここで行きどまりになっていた。
その壁画は、絵というより象形文字のようだった。ススムは高鳴る胸の鼓動を感じた。
「なんということだ・・・」
調査隊はそれぞれ自分に与えられた仕事をてきぱきとこなした。部屋の計測、横道の確認、壁土の採取、写真撮影。リコのストロボが何度も洞窟内を照らした。
壁には、字数にすれば四千字程の「文字」が刻まれていた。その石碑は二組あって、二組は対称的な位置をとっていた。ひとつは、漢字のような文字で、もうひとつは、今までどこの国で発見されたことのある文字とも異なる奇妙な象形文字が刻まれていた。
日本の旧石器時代に独自の文字があったというのだろうか?これは、日本どころか、世界的な発見かもしれない。
石碑は対称の位置にあるが、そのふたつの文字はむしろ非対称を強調していた。
(翻訳とは常にそういうものだ)
片方の文字が片方の文字の翻訳という確証はなにもない。しかしススムはそうに違いないと直感していた。
と、そのとき、ススムは自分の体が揺れるのを感じた。緊張と感動のためではない。
入り口の方から大きな声がした。
「地震だ。みんな早く出ろ!」
一行は入り口の方にもどり始める。
ススムは、娘のリコの背中を押しながら、調査隊の一番最後から退却した。よかった、揺れがおさまった・・・。と思った途端、最初とは比較にならないほどの強い揺れがはじまった。洞窟の入り口から地面に続く、岩でつくられた十メートル程の足場が崩れ始めた。
ススムは、リコをかばうようにして、岩といっしょに下の川へとすべり落ちていった。
2
タイチは、この日、三十二回目のため息をついた。
大好きなママが、原因不明のまま意識をうしなってから、もう丸三日たとうとしている。仕事のしすぎで疲れがたまっているだけさ。そんななぐさめも、それが三日間も眠り続けているとなると、空々しく響くだけだ。
熱があるわけではない。麻痺があるわけでもない。なぜなら、時々、ママはうなされたように手足を動かす。そしてうわごとのように声を発する。
「イポスターズ」
いつもこの言葉だ。白い細面の顔の眉をよせるようにして発せられるこの言葉に、タイチは聞き覚えがなかった。魔法の呪文の中の言葉としても・・・。
タイチのママは魔法使いで、タイチもまた修業中の魔法使いだ。
タイチにパパはいない。ママの兄弟姉妹や、ママの両親の話も聞いたことはなく、またタイチは一人っ子だった。つまり、タイチにとって、ママがたった一人の肉親なのだ。
別に今まで淋しいと感じたことはない。子供はママがいるだけで産まれるわけではないから、必ずどこかにパパはいるに違いない。タイチは一度、パパを探しに家出を試みたことがあったが、その時もママは、タイチに一言もパパのことについてしゃべらなかった。
タイチも、ママと二人の生活に不満をもっていたわけではないので、それ以来、パパのことを聞くのは意味がないことだと思うようになっていた。でも、今回、ママが病気になってみると、タイチは頼るあてのない我が身に不安を禁じ得なかった。
ママはどうやってタイチを産み、一人で育ててきたのか?だが、ママは答えられない。
病気の原因はわからなかった。脳の断層写真や血液検査でも異常はなかった。脳波検査でも、ママが眠っている、ということしかわからなかった。
魔法使い特有の病気なのだろいうか?タイチの知っているだけの、他の魔法使いにもいろいろあたってみたが、誰一人このような病気は聞いたことがないという。
タイチは、ママの寝る病院のベッドの脇で、その日、三十三回目のため息をついた。
ちょうどその時、病室をノックする音がした。
ふりむくと、頭と手に包帯をした松葉杖の男の人が顔を出した。
「すみません。お世話になっています」
タイチもその男の人に頭を下げた。
ママの病室は女性の二人部屋で、ママのベッドとカーテンを隔てて、若い女性が入院していた。この男の人は、その若い女性の父親で、本人もやはり入院しているのだが、いつも心配そうにこの部屋に顔を出す。実は、みるからに父親の方が重症なのだが、元気そうな娘の方へいつも彼がやってくるのがほほえましかった。
「あら、お父さん」
その女の子は、二つのベッドを仕切っているカーテンをめくって顔をだした。
「こら、リコ。失礼なことをするんじゃありません。」
「あら、こんなカーテン、プライバシーの保護にはまったく役に立っていないわ。隣がどんなふうか、つつぬけ」
「隣の方に迷惑をかけないようにするんだぞ」
「私は平気よ。隣の方はずっと眠っていらっしゃってうるさくはないし。でも、若い男の子が一日中ベッドの横にいてため息ばかりついているのを聞くのは、あまり楽しいことではないわ。それに、カーテン越しでも、着替えをするときには少し緊張するわ」
「すみません」
タイチは小さな声で申し訳なさそうにした。
「あやまるのはこちらの方だよ、タイチ君。いつも娘が失礼なこと言って申し訳ない」
「そんなことより、父さん。私のことはいいから自分の方を気にかけてね。またこっそり抜け出してきたんでしょう。先生に、安静第一って聞いているわ」
「それは・・・」
「私はもう大丈夫。もう退院よ。今も、撮ってきた写真の整理をしていたところよ。いいわ。私がお父さんを病室まで送っていく」
そういうと、リコはあっという間に、父親のそばに行き、腕をとった。
リコに腕をささえられて、ひょこひょこ歩いていくススムの姿を見送りながら、タイチは三十四回目のため息をぐっとのみこんだ。自分の娘を気遣ってびっこをひきながらやってくるススムのやさしさが、タイチは好きだった。ひさしぶりに、微笑みがタイチの顔にうかんできた。
「彼は、口ひげとあごひげをはやしているがいい人じゃないか」
以前、タイチがひげをのばそうとしたとき、ママに、ひげを伸ばしている人にろくな人はいない、と怒られたことを思い出して、そうママに語りかけた。
「イポスターズ」
でもママのこのうわごとがやはり気にかかる。
ベッドのわきには、黄色い彼岸花がさいていた。最近、話題の花だ。形は彼岸花だが、その花の色は赤でなく黄色だ。そのうえ、その花はとても長い間咲き続ける。バイオテクノロジーによる遺伝子操作でつくられたらしい。
その輝くような生命力にあふれた花は、病人の枕元にはにつかわしくないな、とタイチは感じていた。
毎年、川の土手に群生する、葉がなくその長い茎のてっぺんに赤く花火のように咲く彼岸花について、昔、ママに聞いたことをタイチは思い出した。
「ママ。この花、採って家にもって帰ると家が火事になるってみんながいうんだ。そんなことはない、っていってぼく持ってきちゃったけど、大丈夫だよね」
「あら、彼岸花ね。心配ないわよ。それは迷信」
「でも、この花、色や形が不気味だよね。ママがつくるなにかの魔法の薬の材料になりそう」
「確かに不思議な花よね。この花、暑い夏の年でも涼しい夏の年でも、気温にかかわりなく9月の彼岸前後に必ず花をつけるの。そして、1週間くらいで花は落ちてしまう。どの場所に咲いているものも同じように、一斉に咲き一斉に散るの。どうやら、気温を感じて咲くのでなくて、花の中に時計のようなしくみがはいっているんじゃあないかしら?」
実は、赤色や白色ではなく、黄色い彼岸花をタイチが見るのは、実は2回目のことだった。
3
病院のカフェでタイチがひとりカレーライスを食べていると、向かいの席に、ある若い女性が一人でやってきた。
「あい席、いいですか?」
タイチは黙ってうなずき前においてある雑誌を自分の方へひきよせた。
その女性はしばらくタイチの様子を上目遣いに観察していたが、やがてしつこくタイチに話しかけ始めた。
お悩みがありそうですね? 相談にのりましょう。あなたのお母さんの病気もなおる可能性があります。百聞は一見にしかず。明日、早速待ち合わせしましょう。
このちらしをみてください。あなたは、なんて運のいいかたなのでしょう!
みなさまへ、
ラストチャンスです!
ご存知かと思いますが、今週木曜日にお知らせした明日日曜日の「クレヨン講演会」ですが、翌日の金曜の夜に定員300名に達し応募を締め切らせていただきました。おかげさまで、予想を超える速さで定員に達することができました。
ありがとうございます。
中には、沖縄、北海道の方まで、お仕事を休まれて参加してくださいます。参加者の期待に応えるよう、一生懸命にやらせていただきますね。
さて、あまりに速く定員に到達したために、申し込みをしたときには、既に締め切りになっていた、という方がたくさんいらっしゃったようです。実際にこの週末、13名の方から、今から申し込むことはできないか?という問い合わせをいただきました。
今回、会場の準備・撤収の時間がとられるため、どうしても300名を超える参加者を誘導・整理することができないので、定員を300名としていたのです。
ただ、できるとすれば、セミナーの開始時間を多少前倒しできれば・・・。
そこで、スタッフに会場の担当者と話をしてもらい、日曜日の受付時間の13時から12時半と30分繰り上げ、それにあわせて講演のスタートも13時半とすることで、なんとかあと50名を収容できることになりました。
ということで、今からあらためて新規に50名の申込みを受け付けます!
また、希望者が公平に参加申込みできるよう、先にお問い合わせいただいた13名の方も、同様に横一線で、今回の募集に応募ということにしました。
遠方の方やどうしても参加できないという方から、講演の内容を情報商材にして、後日販売して欲しいという要望もたくさんいただいていますが、現時点で、その計画はありません。
ごめんなさい。
どうしても、今回の内容は、生でしっかりお伝えしたい内容なのです。重要なことは、私たちのセミナーを聞き、自分の目でたしかめてみることなのです!
今後、追加で申込みを受け付けることはありません。これがラストチャンスです!
参加申込みは、直接スタッフに言っていただくか、電話あるいは下のURLのインターネットでどうぞ!
タイチは、なかば強引にその講演会に出席することを約束させられた。その女性が去ったあと、手元に残った、講演会の場所と時間の書かれたちらしをぼんやりながめているタイチの背中を指でつっつく者がいた。リコであった。
「しっかりしなさいよ」
「なんだ。あんたか」
「クレヨン・コーポレーションという名前だけど、新興宗教の勧誘みたいなものよ。最近は病院内にも入り込んでいるのね。確かに助けを求めている人はここには多いし。それだけにずるいともいえる」
「新興宗教?」
「しっかりしてよ。世間しらずね。心配。まだママから乳ばなれできてないようだしね。」
タイチは少しむっとした。
「仕方ないさ。母子家庭だからね」
「あら、うちは、父子家庭よ」
リコはタイチの目をのぞきこんで言った。タイチはあっと思ったが、もう遅かった。
リコはまったく気にせず続けた。
「まあ、行くといっておいて、行かなくてもかまわないわけだし」
「でも、ぼく、行ってみようかと思っている。多少だまされたってかまわない。なんとか、ママの病気をなおしたいんだ。お医者さんも原因がわからないって言うし。もしなおる方法があるならなんだってするさ」
「あらあら、いよいよ心配になってきたわ」
リコはタイチの答えをきかないうちに一方的に宣言した。
「いいわ。心配だから、その講演会には、私もあなたと一緒についていくわ」
4
ママのとなりのベッドにリコが入院しているときから、言葉のはしばしからある程度感じられたのだが、リコは、クロをクロ、シロをシロ、デブをデブとはっきりいう性格だった。いっぽうタイチは、山ほどの嬉しいことがあっても、素直に喜びをださずに、必ずごはんにふりかけをかけるように心配をふりかけるような性格だった。
そうタイチを評したのは、リコだった。
「あなたは、きっと自分のチームが野球の試合に勝っても、素直に喜ばないタイプでしょう。いっぽう、負けたからって悔しいと泣いたりもしない」
「ぼくは野球をする趣味も、野球を応援する趣味もない」
そう答えながらタイチは心の中で思った。ママが病気でとても悲しいし、なんとかしたいと心から思っていることがこの鈍感な女の子にはわからないんだ。
確かにぼくにはリコが指摘するような面があるかもしれない。でもぼくがそういう性格になったのは理由がある。自分が魔法使いであるということは魔法使いではない人には知られてはならない、というママに教えられた掟のせいなのだ。なぜ人に知られないよう、こそこそしなければならないのだろう?人前で魔法を使うと人々を混乱させるため?魔法を悪用されないため? あるいは、魔法と魔法使いを社会から守るため?
なぜか理由もはっきりしないのに、守らねばならないからそれは『掟』だった。
もしかしたら、それは、長い間魔法使いたちが暮らしてきた生活から自然に導かれた『生活の知恵』なのかもしれない。社会に慣習や常識があるのと同じことかもしれない。
でも、魔法使いという存在そのものが、すなわち社会の『常識破り』であるわけなのだから、逆に魔法の世界で『掟破り』があってもおかしくないはずだ。
それに、魔法使いであることを知られないようにする努力よりも、自分が魔法使いであることを上手に説明する努力のほうが、現代社会では、むしろたいへんなことかもしれない。言葉をつくして説明すればするほど、変人あつかいされるか、特別な趣味を持っている奴だ、でおわるだろう。
この『掟』はたぶん時代錯誤になっている。でも、『掟』だからまもらなければならない。そしてそれが、もともと内向的だったタイチをますます内向的にしていた。そんなことも知らずに。好きなことを勝手にいえばいいさ。
タイチが何も答えないのをいいことにして、リコは勝手に、明日の講演会にタイチについていくということだけでなく、今からタイチの家までついていくことを決めてしまった。
リコはタイチといっしょに歩きはじめた。
「今、家にひとりでいるの?学生なの?ごはんはどうしているの?」
タイチは中学二年生。中高一貫教育のまだ新設してまもない男子高の寄宿学校にいる。
今は夏休みで授業はないが、希望すれば、家に帰らずに寮に残ることができる。食事は頼めばつくってもらえるし、洗濯場も自由につかえる。中学生といえ、自分で自分の洗濯をするのはここではあたりまえのことだ。ようするに、ママが入院していても、リコが心配するような問題は何もない。
だが、そんな説明でひきさがるようなリコではなかった。
「全寮制の男子校なんておもしろそう。一度はいってみたいと思っていたの。わたしみたいな大学生なら、きっと恋人とは思われず、実の姉ということで問題ないでしょう?」
どうしてもこの女の子はぼくの部屋にいってみたいらしい。なんのゆかりもなく、ただ、ママと同じ部屋に入院していたというだけなのに。
「それは困るよ。ハウスキーパーはごまかせても、ルームメイトのシュンが、他人に部屋を見られるのをいやがるにきまっている」
「きっと今日はいないわよ」
「そんな都合のいいことばかり」
実はこの学校には、決して数は多くないが、日本全国にちらばっていた魔法使いの子供たちが何人かいた。全寮制の中高一貫教育というのは、世間と魔法の間で揺れ動く、思春期の魔法使いの子供たちにとってはいい環境であったのだ。
また、それは、かつての魔法使いの習わしである、十三才のときに家を出なければならないという『掟』にものっとっているものだ。いわば、その風習の「現代的な解決」でもあった。
タイチだけでなく、タイチのルームメイトのシュンも、そういった魔法使いの子供たちの一人だった。
5
たまたま、シュンは部屋にいなかった。リコは、ほらね、といった表情をしたあと、めずらしそうに部屋をみわたした。
部屋は3つ。机とベッド、本箱、洋服かけのある、ルームメイトそれぞれの部屋と、冷蔵庫、簡単な炊事場とテーブルのある共通の部屋がひとつ。壁には、なにもかかっていない。唯一のインテリアといえば、金魚鉢で、なかには金魚が数匹およいでいた。
「よくかたづいているじゃあない。私の大学生の男友達の部屋よりずっときれいよ」
きれいというより殺風景というほうがあたっている。
それにしても、リコとの間に、共通の話題として何があるというのだろう。タイチは、リコを共有部屋においてきぼりにして、自分の部屋にはいってドアをしめた。
パソコンの電源をいれてインターネットを接続する。昼間さそわれた、「クレヨン講演会」を検索してみる。
講師は、アイという名の女性だった。写真だけではなんともいえないが、年は三十代だろうか?けっして若くはないがさりとて年をとっている風でもなく年齢不詳。決して美人とはいえないが個性的な顔をした、細面の女性だった。
彼女はもともと高校教師だったのだが、高校教師から塾経営へと転職。その後、派遣会社や、人材養成セミナー、化粧品・健康食品販売から、バイオビジネスまで、多種多様の仕事をてがけ、現在、クレヨン・コーポレーション社長。さらには、彼女の成功の秘密、全国展開をにらんだ今後の展望について紹介されていた。確かに、凄腕のようだ。
メールをチエックすると、ルームメイトのシュンからのメールがとどいていた。タイチはそのメールの中身をくいいるように読んだ。
タイチへ
最近、ぼくが、壁抜けの魔法の習得にとりくんでいるのは知っているだろう?
そして、事件がこの壁抜けの魔法の練習中におこった。
ぼくは、部屋で、ある1冊の本をぬける練習をしていた。表のページにはいり、
そこから裏表紙にぬけるのだ。その本のタイトルは「テロリスト」。通常なら、ぼくが本をぬけるとき、本は単なる紙、いやそれ以上の単なる「もの」にすぎない。しかし、その本は違った。
あとでわかったことは、その本は、『ミュー』の書いた本だったのだ。
その本を通過するとき、いつもの「もの(大人でこれを、『存在』といっている人もいるらしい)」は、急にざわつきはじめ、動き、色づいた。スリルとサスペンスが、悲しみと喜びがぼくの感覚をつきぬけた。ぼくがはじめて味わう感覚だった。
同時に、ぼくは、本をぬけることができずに、本にとじこめられてしまったのだ。
でもそれがとてもいやな気分であったわけではない。本のなかのお話はけっこう気に入るものだったから。もちろん、楽しいだけのお話ということはありえなかったが。
ぼくは、その本のストーリーの登場人物とともにいろいろな体験をしながら、最後に、ある山奥の村で行われる大勢の魔法使いたちの集会に参加した。そこには、『ミュー』という、その本の作者もいた。
この集会の目的を君に伝えねばならないのだが、メールでは長くなるので、戻ったときに詳しく話しをするつもりだ。
心配しないで。ぼくは元気だ。魔法使いの集会は興奮させられる。定期集会は、1年に1回のお祭りの時期だけらしい。ただ、今回は、それとは違い、非常事態がおきたため、魔法使いたちに緊急に召集がかかったようだ。
ここにいると、今、世の中で、どういう悪いことがおこりつつあるのか、そのためにぼくらが何をしなければならないのか、だんだんわかってくる。一つの例として、タイチのママの病気も、実は今世界でおこっている悪いことと関係している可能性がある、といえばタイチも興味をもつだろう。もしかしたらタイチのママの病気をなおす鍵もここで見つかるかもしれない。
もう少しぼくはここにいるつもりでいるが、タイチに大切なお願いがひとつある。
どうか、いつも、ぼくがその中にはいりこんだ本をもっていてほしい。本は、ぼくの部屋のベッド上にある。普通に本屋で買ったなんの変哲もない本だ。
でも、ある特定の者が、それに触れると、集会の場所と時間と集会の参加をよびかけるメッセージが本の中にうかびあがるようなしかけがその本にはされているようだ。ぼくは、その本の壁抜けする前には、うかつにもそのことには気がつかなかったのだが。
その本には魔法がかかっている。そして、いわば、魔法使いたちだけが使うインターネット回線のような役割をその本は果たしているのだ。
くりかえす。いつも、その本をもって行動してくれ。もう少ししたら、その本からぬけだし、きみの前に姿をあらわして、ぼくの知った重要なことを話すことができると思うから。
追伸 今まで壁抜けをしていると、見ないほうがよかった、ということもいっぱい見えて、ぼくは少し人間不信になっていたようだ。でも、今回のことで、間接的に見えるものは疑わしいが、直接的に見えるものはもっと疑わしい、ということに気づいたよ。直接見えるものにふりまわされてはいけない。
(ミューだって?聞いたことのある名前だ)
「なるほど。で、これがその問題の本というわけね」
タイチがわれにかえると、リコが、1冊の本を手にして、タイチのうしろからパソコンの画面をのぞきこんでいた。
「なんで勝手にぼくの部屋に入ってくるんだ」
「ノックすることが、きみとシュン君の間での生活のルールだったかもしれないけどね。わたしはそんなルール知らないもの。部屋に鍵はないからはいるのは簡単よ。でも、おかげで、シュン君の部屋からそのメールで問題にしている本をもってきたわ。これよ」
「大学生はみんなあんたみたいに厚かましいのか?」
リコは、タイチの言葉を無視して続けた。
「ところで、きみたちは、本当に魔法使いなの?それとも、ごっこ遊びをしているだけなの?」
「遊びだって?」
いつものペースをみだされて怒りにかられたタイチは、魔法を一般の人の前では使わないといういつもの教えなど頭からふきとんでしまっていた。
タイチは魔法の呪文をとなえながら、頭の中でひとつのイメージを強くむすんだ。
リコの体は空中へと舞い上がった。気が付くと、リコはものすごいスピードで水の上を進んでいた。海だ!そして、リコが乗っているのは、巨大なくじらだった。必死の思いで、リコはつかみどころのないくじらにしがみついた。せめて、もっとゆっくり泳いでくれたら、もう少し楽だろうに・・・リコが思うまもなく、くじらは一度大きくジャンプしたあと、今度は海中へ潜りはじめた。
いったいくじらは何分間水中に潜っていられるんだったっけ? 思い切り息を吸い込んで息を止める。
顔が海中に沈む。時間の感覚がなくなってくる。薄れていく意識の中で、つかみどころのないくじらを夢中でつかもうとする・・・。
6
気がつくと、リコはもとの部屋にいた。リコは、われにかえるとすぐに、タイチに説明を求めた。話をごまかさずに直接的な表現をすることを、リコが要求しているということが、短いつきあいではあるが直感的にタイチにはわかっていた。
(すっかり、このリコという娘のペースにのせられている)
タイチは心の中で苦笑したが、話すことにためらいや後悔はなかった。それはたぶん、リコが、タイチの話を自然に聞いてくれるからであろう。タイチは、注意深く話をした。
ママが魔法使いであること。自分は、小さい頃からママに魔法を教えてもらっていること。ママが原因不明の病気にかかり、困っていること。
リコは黙ってうなずきながら、タイチの話を聞き、そしてゆっくり最初の質問をした。
「本当は、一般の人に知られてはいけない魔法の話を、どうして私には教えてくれたの?」
タイチは答えられなかった。さらにわからなかったことは、ママや魔法学校での約束を破って魔法の話を一般の人にうちあけたというのに、自分の心に罪の意識が全くわいてこないということだった。むしろ、長い間胸の奥につかえていた何かがとれて、心が軽くなったような気がした。それは、相手がこの娘だからなのだろうか?
この最初の質問に答えるかわりに、タイチは、魔法についてさらに詳しく語った。
かつては、一人の魔法使いが様々な種類の魔法をおこなうことができたという。魔法とは、元来、魔法語を口にすることで、自分の中のある種のエネルギーを形のあるものに変換することであった。しかし魔法語が失われた今の魔法使いたちは、それぞれ自分の親からうけついだ、一つか二つの魔法を、かたことの魔法語=呪文、を唱えて使うことで精一杯だった。
それだってたいしたことにはちがいない。結局は、血で魔法をおこなうのだ。最近一般の人によく知られたのは、ほうきにのって宅急便をする、空を飛ぶ女の子の魔法使いだ。それだけですごい話題になった。ようするに、魔法はひとつ使えるだけで十分だということだ。
魔法をかけるというのは呪文を唱えるだけとしても、これが意外に難しい。
言葉をまちがえてはいけないとか、繰り返しの回数や順番をまちがえてはいけないというのはもちろんのこと、さらに、一つ一つの単語の発音、全体のリズム、イントネーションも正確でなければ魔法はかからないのだ。つまり、呪文に使う言葉ときたら、今では使われていない古代の言葉で、舌や唇をあれこれひねらないと正確な音がだせないとくる。それらしくまねをするだけではだめで、完全な音でないといけないというのだからやっかいだ。
たとえば、今さっき、目の前の金魚をくじらにしてリコをその背中にのせた魔法。小さいころ練習しはじめのころのタイチは、ママのいう「r」と「l」の音の区別がつかなかったり、あるいは音の違いに気をとられて、文全体の調子が狂ったりだった。失敗すると、あらわれたと思ったくじらが、捕鯨船に攻撃されたりするからやっかいなのだ。でも最近はずいぶん、安定して魔法がかかるようになってきていた。
ルームメイトのシュンは、カエルに変身する魔法が得意だ。両親によれば、小さいころから、アトピー体質で、かゆくなるとカエルに変身してかゆみから逃れていたということだ。
タイチの使う魔法とは、一言でいえば、「幻想を現実に出現させる」とでもいったらいいかもしれない。たとえば、タイチはアイスクリームを目の前に出現させることができる。といっても、そのアイスクリームは食べられない。溶けてしまう前に消えてしまう。そこに「ある」のは、魔法の効いているごく短い時間だけだ。すなわち『現実はまったくかわってない』。
魔法がおわれば、またもとおり。これは例えば、イラク戦争で使用されるすべての弾丸やミサイルを、発射されると方向転換して、発射した箇所へ命中させるような魔法をかけたとしても、魔法がとけたあとは、結局イラク側の死者の数が多いということだ。
タイチ自身、こんな魔法がいったいなんの役にたつのかと疑問に感じたことはある。このような魔法は「非生産的」だ。いくら夢の世界をみせたところで現実はかわらない。百の激励の言葉よりも一個のパンのほうがどれだけ力があるか、というのと同じだ。
こういうぼくの疑問に対して、ママの答えはこうだった。
「でも、愛の樹は山には生えていないし、野にも愛の種はおちてないのよ」
黙って聞いていたリコがいった。
「あなたの魔法は作家が作品をうみだすのと似ているところがあるわね。文学というより映像作家のほうにちかいけど」
「作品は2次元でなく3次元だしね」
「呪文は共通なの?」
「そう。ひとつの呪文を正確にとなえながら、集中してイメージを頭の中で結ぶ。そうすると、イメージしたものが、一時的に出現するんだ。正確な呪文、頭の中での集中、両方上手にやらないとうまくいかない」
「いろいろ教えてもらったけど、なぜ、私に魔法の秘密を教えてくれたか?という私の最初の質問にはまだ答えてないわ」
「それは・・・わからない」
「まあ、いいわ。とにかく、話してくれてありがとう。今度は私が話す番ね」
それ以上、リコは魔法について詮索しようとはせず、今度は自分のことを語りはじめた。
「わたしは、タイチ君が病院でみているとおり、あの父親とふたり暮らし。いまの彼の姿しか知らないあなたには想像できないかもしれないけど、昔はたいへんだったのよ」
リコは部屋の中にある食器棚のほうをみながら唐突に言った。
「ひととおり食器はそろっているわね。ときどきはご飯をここでつくるの?」
「まあね」
「いい陶器やガラスよね。でもうちの食器はみなプラスチック製か木製なの」
きょとんとしているタイチに、リコは大人じみた口調で言った。
「うちの父親、怒るとわれをわすれて、手じかのものをなんでもかんでも投げつけるの。割れようが割れまいが関係なし。とにかく投げるものがなくなるまで投げ続ける。テーブルの上のものをまず投げ、全部なくなると、食器棚の中のもの。とにかく、手元になげるものがなるべく少ないほうがいいんで、家には灰皿とか花瓶は置かないようにしているの。私の母親は、いままで3人かわったわ。わたしは一番目の母親の子供。
結局3人目の母親も出ていったけど。実は、うまくやっていける秘訣は単純なのに、大人ってそれがわからないのよね。
それはかたづけ上手になるということ。私は慣れたものよ。いつも部屋の隅に、ほうきとちりとり、掃除機がおいてある。父親がわれを忘れて怒り出し、投げられるだけのものを投げてから部屋を出ていった後は、さあ、出番よ。一気に部屋の掃除。ぶつぶついわないでとにかく片付けるの。何回もやっているから、それは手際がいいわ」
まくしたてるリコに、タイチは呆然とするしかなかった。
「すごいんだね、きみんち」
「今みたいに優しい父親、私がけがをして入院してはじめて見たの。私、本当にびっくりしている。やっと私の大切さがわかったのかしら?入院もしてみるものね。でも、最近考えるんだけど、うちの父親、ものは投げるけど、人に対して暴力はふるわないからまだ救われるほうかもしれないわ。
とにかく、今の世の中、離婚がすごく多くなってきているでしょう。わたし、そういう同じ境遇のこどもたちのお手本になるような、タフな離婚家庭の子供になるつもりでやってきたの。コンプレックスの多い子供ばかり増えてきたら、これからの日本の未来はやっていけないでしょう?」
コンプレックス? 難しい言葉だ。おそるおそるタイチは聞いた。
「じゃあ、ぼくは弱虫の部類にはいるのかな?」
「たいしたことない、っていったら傷つく?」
「うん」
「なに、かっこつけているのよ!」
タイチは黙った。でも悲しいものは悲しいんだ。ママしかぼくにはいないこと。ぼくには(残念ながら)魔法使いの血がながれていること。それが、すごいとか、たいしたことないとか、他の人には言われたくはない。
「それが甘いのよ。他の人にはわからないというのは、よく使われる逃げ口上」
タイチは、だんだん、リコのことが憎らしくなってきた。言い返す言葉がうかばないことがますますイライラをつのらせる。
「くやしそうね。ついでにもうひとつ、悔しい思いをさしてあげる。魔法を使うのはあなたのお母さんやあなたたちだけじゃないわ」
7
それから、リコは、偶然みつけた、土石流のせいで川岸にぽっかり顔をだした洞窟の中にあった壁画の話をした。
「洞窟の入り口はまた埋まってしまったけれど、壁画は私の写真にしっかり写っていたわ。私、それを父親や父親の知人に見せたの。うちの父親、あれでも考古学を大学で教えているの。でも、実物をみた人わたしたち数名以外の人は、その壁画のことを信じないの。合成写真じゃないか、って。壁画には異なる文字で書かれた文章がふたつならんでいて、その一字一字までわたしがとった写真にはうつっていた。
この文字のことを知っているのは父親をふくめわずかな人だけよ。だって、世紀の発見かもしれないでしょう?わたしたちのことをばかにする人たちには見せられるもんですか。
で、その壁画のふたつの文章だけど。たぶん、同じ文章を別の文字で書いただけで、ふたつは同じ意味。ふたつのうちのひとつはすべて解読できているの。父親が解読してくれたわ。結局、漢字、中国文字の類だった。こちらをもとに、もう片方の言語が解読できるかしれないけれど、もしわかるようになるとしても何年もかかるだろう、って父親は言っていたわ。
いままで世界中のどこにも知られていない文字らしい。家に帰れば、解読されたものの日本語訳と、解読できない文字をそのまま書き写したものがあるわ。
ねえ、魔法の使えるあなたなら、もしかしてその壁画の文字の意味がわかるなんてことはない?晩ごはんをごちそうするから、これからわたしの家にこない?それを見せるわ」
「君のお父さんに迷惑じゃあない?」
「心配しないで。まだ父親は入院中しているじゃない」
嬉しかったのは、魔法の話をした後も、リコと自分の間に不自然な空気がまったく生じず、当たり前のように会話を続けられているということであった。
「魔法を特別視しているのは、一般の人ではなくむしろ我々魔法使い自身かもしれない」
と、タイチはふと思った。タイチはリコの家にいくことにした。
ママが寝込んでから久しぶりに明るい気持ちになっていた。
リコが用意した食事は、薄力粉・強力粉と水と酵母、スキムミルク、塩、オリーブオイルをまぜて30分発酵させる簡単手作りピザだった。発酵の待ち時間の間に、早速リコは、世界ではじめてみつかったという壁画の文字の写しが書いてある紙をもってきた。ながめているうちに、タイチは体の奥が徐々に熱くなっていくのを感じていた。
「読めるの?」
「いや、読めるわけじゃないんだ。でも、なんか、予感がするんだ。思い過ごしの可能性もないわけでないけど・・・もしこれが、昔あって今は失われた魔法語だとしたら」
「魔法語?」
「もともと、魔法の呪文は、口で伝えるものだから、文字はないんだ。でも、原初に魔法文字があったけれど、それが時代とともに忘れられてしまった、という可能性はぼくも考えているんだ。この壁画の象形文字が、ぼくらのはじめてみる『本当の』魔法文字だとしたら。それは、ぼくらにとってものすごいことだ。この紙、少し借りていいかな?」
「もちろんいいわ。コピーだから、いろいろ書き込んでもいいわよ」
ピザの方は、発酵させた生地にトマトソースをぬって、上にピザ用チーズをたっぷりのせ、あとお好みでハムやツナやオリーブを加えて、電気オーブンで5分!ママのつくるごはんとは、また違ったおいしさだった。
コーラを飲みピザをほおばりながら、タイチは、もう一枚の、『解読済み』の、日本語訳を読みはじめた。実は読み始めてすぐに、タイチは、この話を自分ははじめて聞いたのではないことに気づき呆然とした。だが、そのことは、リコにはあえて話さなかった。
この話は、昔、小さい頃、やはりママが病気で入院しているときに、自分の世話をしてくれた「小人」のおじさんが、ぼくに語ってくれた話と同じだったのだ。そして、その小人のおじさんの名前はミューと言った。偶然なのか?同一人物なのか?シュンが、連絡してきたメールにでてきた人物の名前と同じ名前だ。
ミューからタイチがかつて聞いた話。
それは、タイチの父親の物語だった。
「太陽の秘密」
その街は、どこでもみかけるような平凡な街だった。
冬の雪が深いので、人口もそうたいして増えず、生活水準は、決して高い方とはいえなかったが、街の喧噪のかわりに平穏があった。街の郊外にはひとつのおおきな工場がたっていて、それがその街の若者が大都市にでていくのをふせいでいた。実際、そこの労働条件は平均以上で、地元だけでなく、全国から労働者を集めていた。
そんな中に、昔、遠くからこの街にやってきた、ひとりの男がいた。彼はもう何十年もそこに住みついていた。彼もまた、工場で働き、一人の娘を愛し、コツコツとお金をため、結婚し、家を建て、子供を育てた。子供もその工場につとめ、結婚し、やがて孫の顔をみようという歳に彼はなっていた。
彼はその街を愛していた。だが、ひとつだけ彼の気に入らない点があった。
それは、その街に住む人びとが、皆、「太陽さえも、我々の工場が動かしている」という迷信を信じていることであった。最初にこの街にやってきたとき、彼は、この話は、工場がこの街の経済を支えているという言葉の上での比喩だと思った。しかし、人びとは、比喩としてではなく、文字どおりそうであると信じていたのである。
「太陽が動くんじゃなくて、地球が止まっている太陽に対して回転するから太陽が動いて見えるんだよ。小学生でも知っていることじゃないか」
と彼が主張すると、その街の人々は笑うのだった。工場でも、レストランでも、そして小学校の先生も。
「でもそうだとしたら、どうやって地球は回転しているんだい?なぜその回転がとまらないんだい?うちの工場のエネルギーを使って太陽を昇らせ沈めているというのが本当さ」
彼の他にも、遠くからやってきた者はいたが、彼らは、あまりこのことに興味を示さなかった。彼らにとって、他のもっと重要なことがあったからである。彼らもまた、その工場が太陽を動かしているのだ、というようになっていった。
「いずれにせよ、たいした問題じゃないさ。真実がどうであれ、ここの生活がそのために変わってしまうわけじゃない」
その工場の一画を占める発電所は、工場だけでなく、その街全体にも電力を供給している工場の中枢部分であった。発電所の電力供給室の管理は、その工場の中で最も重要な仕事で、彼のように定年を控えた高い地位にある者たちにのみ与えられる仕事だった。
彼らは、交替で当直体制を組んで、その電力供給室の管理にあたっていた。
ある晩、その男が当直をしていた時のこと。
彼は、たくさんのボタンがならぶ部屋でもの思いにふけっていた。
「もしこの発電所の機能を止めて、明日の朝太陽が昇ったら、人々は、この工場が太陽を昇らせているのではないことはわかってくれるはずだ」
長年、この電力供給室の中で考えていたこのアイデアを、彼はその晩実行にうつした。
彼は、メインスイッチを切り、さらに複数の回線を切断した。工場の活動はすぐに止まった。夜勤の照明が消え、ベルトコンベアが動かなくなった。街の街灯は消え、信号機も消えたために、車が交差点で立ち往生した。各家庭のテレビもあかりも、電気暖房も止まった。夜もふけ、外は雪が降り始めていた。
発電所にかけつけた者たちは、故障させた電力供給室の中にいるその男をすぐに取り押さえた。機械の修理が始められ、その男は警察に引き渡された。
「私はただ、この街の人々に、この工場が太陽をうごかしているのではないという証拠をみせたかったのです」
「そんなばかげた仮説を聡明するために、工場は多大な損害をうけ、この寒い冬の夜に、何万人もの人がこごえているんだぞ」
「もうすぐわかります。朝、必ず太陽は昇ります」
「黙れ。おまえは自分のしたことがまだわからないのか。立派な犯罪だ」
電力装置が復旧したのは、翌日の午前中だった。頭の上には、太陽が輝いていた。太陽はいつもどおり昇った。雪は降り止み、太陽の光が積もった雪に反射してきらめいていた。
「見よ、日が昇る」
逮捕され、とりおさえられていた彼は、そうつぶやいたという。
彼は、長年勤めていたその工場を解雇された。退職金もふいなった。彼は、その街から失踪した。
やがて時が流れ、彼はこんな風に人にうわさされるようになった。
「むかし、この街に住んでいた一人の魔法使いが、工場の電力装置が故障したときに、自分の力で太陽を昇らせたことがある」
彼は伝説の人となったのだった。
8
その日、タイチはリコの家に泊まった。タイチは奇妙な夢をみた。
夢の中でも、タイチはママのお見舞いにきていた。その病院は実際にママが入院している鉄筋の10階建ての建物ではなく、木造の2階建てで、そのかわりかなりの広さがあった。
玄関をくぐり、タイチは迷うことなく、2階の病室をめざしていく。歩きながら、開け放された部屋のとびらのむこうに、点滴をしてベッドに横たわった老人の姿が目に入る。寝ていない人も、ベッドの上にぼんやりすわり、雑誌やテレビをみているか何もしてないかだ。廊下のむこうからやってくる看護師や銀色のワゴン車や他の見舞い客などをやりすごしながら、ママの病室に到着する。
4人部屋の手前側、奥のほうにママは寝ていた。
「こんにちは」
「まあ、よくきたわね」
夢の中のママはやはり寝ていて目をあけたり口を動かしたりすることはできなかったが、なぜか声ははっきり聞こえた。少なくとも、タイチには聞こえた。それが嬉しかった。
自分から、特になにかしゃべるというわけではない。タイチが、学校の話をいろいろするのに、うんうんとあいづちをうつ。やはり目はとじたままで口はうごかさない。でも、タイチはそういうことがまったく気にならなかった。むしろ居心地のいい空間・時間をつくっていた。
手もちぶさたになったタイチは、ベッド前の台の上においてある、古い分厚い革表紙の本と、小さなねずみのぬいぐるみに手をのばす(これら、本と、ねずみのぬいぐるみは実際のママの病室にはないものだった)。
本は、日本語ではなく、タイチの知らない文字でかかれていた。英語やフランス語でもロシア語でもない・・・リコにみせられたあの壁画の文字のようだった。ママは、「それは魔法語よ」とだけいった。でもタイチにはその本が読めるわけでもなく、その字を『絵』としてながめていただけだし、それでもページをめくっていてあきることはなかった。
ねずみのぬいぐるみは、チューという名前だった。チューチューのチュー。なぜか、ぬいぐるみなのにチューは自由に動き回った。数も、常に一定の数ではなく、増えたり減ったりした。いったい誰がもってきたのだろう?
本の『絵』をながめるのにあきたタイチは、チューちゃん(ず)で、ごっこ遊びをした(タイチは中学生ではなく、もっと小さい子供のようだった)。
「チューちゃん、何を悲しんでいるの?」
「パパが遠くへいってしまって、ずっとママと二人でお留守番なの」
「お仕事?」
「そうみたい。ママが言ってた」
「我慢しなくちゃね」
「そうする。パパがいないとうるさいこと言われないから、悪いことばかりじゃないもん」
タイチがひとり何役もこなすチューちゃん同士の会話は、現実にタイチの身の回りでおこっていることであったり、まったく想像の中のことであったりいろいろだ。
ママの枕元には黄色い彼岸花が咲いていた。ママはそれを指差しながら(指差したようにタイチは感じた)ぽつりといった。
「やはり彼岸花は黄色いものでなくて赤いのがいいわ」
タイチはリコにゆりおこされた。
「おきなさい、タイチ。講演会におくれるわよ」
リコはもうパジャマを着替えていた。他の部屋で寝ておきてもう朝食の準備をしていた。
一晩たって、リコはあなたとかタイチ君といわずタイチと言うようになっていた。タイチも自然に、あんたとかお姉さんとかリコさんとかでなく、リコと呼んでいた。
昨日は緊張していてよくわからなかったが、今は部屋の様子がおちついて観察できた。
タイチはベッドのある部屋で寝たのだが、そこはリコの父親のススムの部屋のようだった。机やパソコンがおいてあり、本棚に、本がたくさんならんでいるのが目につく。壁に絵が飾
られ、CDや小物も多く、殺風景なタイチとシュンの部屋とは違う暖かさがあった。まるで、家の中にコーナーがもてなかった人が、他の場所でやっと自分の居場所をみつけたような安堵感をタイチは感じた。
小さなダイニングキッチンのテーブルにふたりでむかいあって、タイチとリコは朝食をとった。コーヒーに牛乳と砂糖をたっぷりいれた温かいカフェオレにブリオッシュ(リコがタイチに名前を教えてくれた)だった。やはり、ママとは少し趣味が違っている。でも、とてもおいしいことにかわりはない。
タイチは、なにか、今日はいいことがありそうな気がしていた。たとえ、怪しい会社の主催する、つまらない講演会に出かける予定であったとしても。
9
タイチとリコは、日曜日で比較的人が少ない電車にのりこみ、講演会場のある町へとむかった。会場のビルはすぐわかった。それは、愛知万博だったっけ(タイチは小学校のときに先生に引率されて1度いったことがある)、大地の塔という建物全体が万華鏡の建物とそっくりな外観だった。
「もしかしたら。その建物をゆずりうけたのかもしれないな」
1階の入り口には受付があり、その奥にエレベーターが4台。そこの横には、沢山の聞いたこともない会社の名前が書かれている。やっぱり、ゆずりうけた、というのとはちょっと違うみたいだ。13階だての近代的なビルだ。講演会場は、そのビルの最上階にあった。
タイチとリコがのったエレベーターのとびらが最上階であくと、やさしそうな女の人が、受付をしていた。ぼくらは、自分の名前をかきこんだ。
「じゃあ、これからご一緒しましょう。こちらです」
そういって彼女は、今、二人がのってきたエレベーターとは反対側、事務所の奥にあるエレベーターのほうを指さした。
そのエレベーターにはいると、二人はちょっとぎょっとした。エレベーターの中は、まさに万華鏡だった。何枚の鏡があわさっているかはわからないが、壁は、無限に花やビーズの世界が広がっていた。そして、その鏡にうつる、タイチもアキも、案内の女性も無限だった。
「はじめての方は最初びっくりされるけど、心配ないですからね」
緊張で、身うごきのできない、二人にむかって、その女性は優しく微笑むと、どうやってさがすのかわからないが、ボタンらしきものを押した。エレベーターの扉がしまり、エレベーターは上へ、と動き始めた。
上へ?
そのことに違和感をおぼえるくらいは、タイチの頭は冷静だった。
「すみません。会社って、確か、ビルの最上階だったはずじゃあ?」
「あら。そうではないですよ。外からは、影に隠れてわからないけど、事務所の上にも、まだフロアがあるんです」
そんなことはない。外からみると、このビルは13階だてで、それ以上はなかった。
やがて、エレベーターは止まり、扉があいた。
「ここからは、別の案内人がいます。私はここまでで、これからあとは、その人にまかせますから。そう、あの人ですわ。」
エレベーターをおりると、そこは、大理石がしきつめられた明るいフロアが広がっていた。
案内人は、若い、20歳くらいだろうか?それでも、スーツとネクタイをして、カバンをもった、いかにもサラリーマンといった男の社員。若いが、服はさまになっていた。
泉でもあるのだろうか?涼しげな水の音と、そして草木のかおりがかすかにした。
二人のうしろで、エレベーターの扉は閉まった。
「ようこそ」
「こんにちわ」
少し、ビルの一フロアにしては、広すぎるし天井が高すぎる。
しばらく歩くと、地面は、石畳に変わった。両側には、大理石の壁、ベンチなど。清潔でおちついたかんじだった。
エレベーターでおりたときに聞こえたものの正体はすぐわかった。歩いていくと、大きな、これも大理石でできた泉があり、その横に、1本の巨大な樹があった。その樹の上には様々な動物がいた。枝の上をリスやキツネやタヌキが動き回り、ヘビがにょろにょろと身をくねらせていた。その樹は、ビルの中にあるものとしては大きすぎた。小鳥が枝から枝へととび、その上、樹の上空をワシがとんでいた。ワシが小さくみえる。そのくらい巨大な樹だった。
樹の根元をとりかこむ地面には、黄色い花がいっぱい咲きみだれていた。その茎は葉がなく、すっとまっすぐのびていて・・・それは、今、よく売れている、例の黄色い彼岸花だった。
「ここ、へんよ」
「そう思う」
「このすごく大きな樹はなんなの?それに、なんだか、ここにいる動物、人間の言葉をしゃべっているみたい」
たしかにリコのいうとおりだった。リスは、枝の上でお互いの悪口を言いあい、それをねらうヘビは、なにやら独り言をいっている。そして、枝から枝へとびうつる小鳥たちは、ヘビに気をつけろ、気をつけろ、とリスに話しかけていた。
タイチとリコはふたりで身をよせ、どちらともなく手をにぎりあった。今は、この男についていくしかない。
「この大きな樹はとても大切なもので、われわれは、注意深く、枯れないように水をやったり肥料をやったり害虫をおいはらったり病気になったとき薬をあたえたりしています。動物たちもわれわれの協力者です。
黄色い花はみなさんもうごぞんじでしょう?今話題の黄色い彼岸花。実は、この花の開発にはわれわれの会社がたずさわったのです。さあ、会場です」
10
案内された会場には、たくさんの人がすでに着席していた。500人くらいはいるだろうか。壇上には、今日の講師がすでに座っていた。クレヨン・コーポレーションの社長。通称アイ。
タイチがインターネットで調べたときにでてきた写真と同じ顔だった。化粧気はなく、背は高
く、おどろくほどスリムで・・・スタイルがいいというよりも不健康な感じに近い。髪は、肩
までおろしてあり、光沢のある白いブラウスに、黒いスカートをはいていた。
着席した席は壇上から遠かったが、タイチは、会場にはいってからアイがずっと自分をみているような視線を感じていた。
(ひょっとして、会場にいる人みんなが、自分のほうを彼女がみているように感じているのだろうか?これでは、彼女は、まるでモナ=リザだ)
タイチの頭の中で、突然、ある魔法の言葉が響いた。それは、タイチ自身も予期していなかった言葉だった。
「なにをぶつぶつしゃべっているの?こんなところで、魔法を使おうとしているの?」
「どうやら、この会場全体は、誰かが創りだしたものみたいだ」
「じゃあ、誰が創ったの?」
「たぶん・・・、あのアイだ」
彼女もまた魔法使いで、自分と同じく幻想をみせる魔法が使えるのだろうか?そうだとしても、アイの魔法はかなり精緻で大規模なものだが。
そうかもしれない。じゃあ、今、頭に響いている呪文はなんなんだ?自分の意思や記憶とは無関係に、自然に聞こえた。いったい、何?なんのために?
タイチがここに来る気になったのは、もしかしてママの病気をなおす手がかりがここにあるかもしれないと思ったからであった。しかし、そこで聞かされたアイの話は、病気を治すからママをここに連れてきなさい、というような単純なものではなかった。タイチとリコは、長々と退屈な話を聞かされた。
「わたしが、みなさんによくする話。覚えていますか?漢字の『辛い』という文字。これに、棒を1本加えるだけでその漢字は『幸せ』になる。
これは、ただの言葉遊びじゃありません。そこに、なんらかの真実をこめて、私は話しをするのです。
今日は、小さなクレヨンの話をしましょう。そう、クレヨンといえば、『クレヨン・コーポレーション』。つまり、私が、この会社をたちあげたときの、名前の由来、私の考えを表現しているのが、この、小さなクレヨンのお話なのです。
その小さなクレヨンは、相手のために色を塗ってあげるのが仕事でした。どんどん塗っているうちにクレヨンは、だんだん『短く』なっていきました。それでも、クレヨンは自分の身をけずって色を塗り続けました。
最後にクレヨンはついになくなってしまいました。
そして星になって一生を終えました。
このクレヨンの一生は、すばらしい!
でも、そのクレヨンの色は何色でしょう?それは、本当に相手が、自分はその色に塗ってほしいと思うような色ですか?どんなクレヨンの色でもいいのですか?
実は、クレヨンは、けっしてひとつの色ではなく、相手によって、その色をかえるのよ。そして、使っても使ってもけっして小さくなんてならない、そういうクレヨンなのよ。柔軟な心を忘れて、ひとつの考えにこりかたまり、人でなくクレヨンのような『物』になってしまったら、同じ色しか塗れず、どんどんすり減っていくだけになってしまうのよ。
だから、わたしが色を塗りましょう」
タイチはこうしている間も、ママが眠り続けているということを考えると、悲しみがおそってきた。自分はいったい何のためにこんな無意味なところで時間を費やしているのだろう?その悲しみにのみこまれ、タイチは自分の心を制御できなくなったのだろうか?
それとも、リコの憤りが、タイチに感染したのだろうか?自分でも、なぜそこで魔法を使う気になったのか、よくわからなかいまま、タイチは魔法の呪文を唱えた。それはさきほどこの会場に入ってきた瞬間にタイチの頭に突如響いた、タイチが今まで発したことのない呪文だった。
「イポスターズ」
隣にいたリコは、そのことばをどこかできいたような気がした。
そう。病院で眠り続けているタイチのママが時々うわごとのようにつぶやく言葉だ。
11
いつのまにか、壇上にいたアイがタイチの隣にきて、タイチの耳に口をよせつぶやいた。
「たいしたものね。魔法をあばく魔法よ。あなたがこの『逆魔法』をつかえるとは思わなかったわ。
呪いを解く魔法は、呪いをかける魔法より、ずっと複雑でむずかしく時間がかかる。とくに、呪いをかける魔法と同時に、呪いを解く魔法のカギが思い出せなくなるような、魔法までかかっているときにはね。 一度発明されたものは、たとえば科学技術は、なかったことにするということがなかなかできないというようなものよ。
一般に、呪いを解くことは、呪いをかけることに比べて、時間がかかり、成功がむずかしいの。ひとりひとりの心の中にある、コンプレックスを解くことがなかなかできないように・・・強いて言えば、のろいを解く魔法は限界の言語よ。・・・いいわ。ここバルハラの実体を紹介するわ」
最初あった泉や大きな樹や黄色い花や動物たちや石畳や大理石は消えていた。かわりにそこにあったのは、巨大な溶鉱炉のような装置だった。なかで大きく炎が燃えあがっている。
たくさんの、さきほどまでアイの講演を聴いていた人々が、筒のようなものをもって、息を火にむかってふきつけている。半そで半ズボン、あるいはスカートといった、ラフなかっこうをして、ウェストポーチのような、太いベルトを腰にまいている。もし、その火が、焚き火であったなら、それはのどかな、バーベQのための火おこしのようにみえただろう。ただ、その溶鉱炉と炎はあまりに大きすぎた。
たくさんの、息を火にふきつけるものたちにまじって、半分動物、半分人間の姿をした、者もいた。この会社に勤めている人たちなのだろうか?タイチやリコをここに案内してくれた女の人や若い男性もこの仲間だった。アイは人々にむかって叫んだ。
「仕事はつらく、そして時に楽しいものよ。さあ、もう1日のおわりよ」
人々は、次々と溶鉱炉からはなれ、皆、となりにある建物にはいっていった。
「一日の疲れをそこで癒し、力を貯えるのよ。大部分の人たちは、仕事を始める前、同じようなスーツケースをあけて、中から同じようなベルトをとりだしてきて腰にまいて変身してから仕事を始める。動物に変身する者たちだけは、変身するのにベルトはつかわないけどね。
仕事が終わると、みなベルトをはずし入浴するの。入浴後、でてくる食べ物を食べ酒を飲む。すると、うそのように疲れはとれ傷はいえ、それから眠りにつく。
最後まで、飲んでいるものたちは、変身ベルトなしで動物に変身する人々よ。ここの料理にはイノシシの肉を使っているの。そのイノシシはいくら料理にだされても次の日には生き返る。ふるまわれる酒は、ヤギの乳から絞りだされるの。でも、けっしてそれが尽きることはないわ。ここはバルハラと呼ばれることもあるわ。そして、変身する人々は、オルフェノクともよばれることもある」
「彼らは、ここでなにをしている?」
「ごらんのとおり。火を燃やしているのよ」
「なんのために?」
「ずいぶんながい間、多くの人々が力をあわせてこういう大きな炎を燃やすということはなくなってしまっていたの。ごく最近よ。わたしが、また再開させたの。大きな炎をつくり、それをあるピストンにつなげるの」
「何をするんだ?」
「太陽を動かすのよ」
「太陽を動かす?」
彼らは歌をうたっていた。
『いつでもここからでていけるのだけれども、けっしてここからでることはないだろう』
タイチは、頭の上で光り輝く太陽をみあげた。
ここは万華鏡の形をした建物の中のはずだ。それなのに、なぜ、建物の中に太陽が輝いているんだろう?天井はどこへいってしまったんだろう?確かに、天井はみえないが、建物の中に自分たちはいるのだから、この太陽は人工の太陽かもしれない。アイがひさしぶりに「再開」させることで動き出した?
でも、太陽は、動かすものではない。太陽に動かされるということはあっても。
「ここの太陽は人工太陽なの。だから、手を休めると沈んでしまう。わたしたちの今の課題は、太陽が一日中しずまないようにすることなの。その目標はだいたい達成できそうよ」
人工太陽を沈まないようにする? タイチにはそれが正確になにを意味しているのかわからなかったが、そんな話を聞く前から、頭上に輝く太陽をうさんくさく感じていた。
リコはタイチの気持ちをうまく表現するような独り言をいった。
「本来、自然の太陽は、イデア、理想、真理をあらわしたりする。でも、沈まないこの人工太陽は、欲望、消費、貨幣の輝きのようだわ。沈まない太陽は自然の太陽と異なっている」
アイは笑いながらリコに向かって言った。
「きっと、これはまだ完成品じゃあないのよ。これから、たぶん、まもなく、いつの日か・・・」
そして、タイチに微笑みかけた。
「わたし、あなたの事、気にいったわ。是非、ここで、私の下で働いてもらいたいわ。いや、もう、あなたには他に選択肢はないのよ」