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105.変化と忍耐と

「……うぅ」


「目が覚めたか。これを飲め。気分が良くなる」


 目の前に立ってこちらを覗き込んでいる男から水筒のようなものを手渡されたフィルは、しばらくぼーっとしていたが、渡された水を一口飲むと爽やかな風味が口の中に流れ込み、気分がすっきりとしてようやく思考が回転し始めた。


「さっきのはいったい何ですか」


「あれが”栓を外した”状態だ。細胞が晶素に置き換わる現象を、今回は強制的に俺が起こした。あれが一つ目の代償だ」


「一つ目って事は、まだあるんですか?」


「こちらの方がより深刻だ。もう一つの代償、それは戻れなくなってしまうリスクがある事だ」


「戻れなくって、今のこの状態にですか? 戻れなくなるとどうなるんです?」


「自身の本来の肉体の許容値を超え細胞を晶素に置き換え続けると、やがて本来の身体の機能そのものが維持できなくなり、晶核を侵食していく。そして晶核そのものが完全に晶素を取り込みきってしまった時、人は人ではなくなり、理性を失ったただの化け物と化す」


「……”晶魔ゲート”」


「そうだ。ほとんどの晶魔ゲートは自発的に栓を開けた者ではなく、自然発生的に栓を持たない者が至るがな。これがもう一つの代償だ」


 鬼哭啾啾クヌズキの説明にフィルは戸惑う。確かにレイ・デルが見せたような状態に至れば飛躍的に強くなることができるだろう。だが、あんな痛みの中で戦う事はまず不可能で、晶魔ゲートになるリスクもある中で、果たしてその選択を取れるのだろうか。


「お前の心配は分かる。その為の修行が”これ”だ」


 鬼哭啾啾クヌズキは先程からフィルが気になっていた三角形の鉄のような物を見せる。


「まず、お前には呼吸するのと同じくらい自然な状態で晶素を循環できるようになってもらう。それが終われば次の段階だ」


 そう言って鬼哭啾啾クヌズキは手に持っていた物をフィルへ投げる。フィルはそれを手に取りしげしげと見るが、いったい何に使う物なのかさっぱり分からない。


「それは晶素を吸収する特別な金属で出来ている。それを四つ全部上に重ね、一時間その状態を維持しろ」


――――そんな事でいいのか?


 そう思い、試しに何もせず晶素を重ねようとするが、当然ながら形状が三角形の為すぐに倒れてしまう。それならばと、晶壁オーバーの原理を用いて左右から晶素で支えるように積み上げようとするが、その時点でこの修行がどれほど過酷なのかをフィルは理解した。


――――晶素が吸い取られる


 鬼哭啾啾クヌズキが言う通り、金属が晶素を吸収してしまい一瞬で霧散してしまう。もし、この方法が正しければ、一時間吸収される量を上回る晶素を放出し続けなければいけないという事になる。


「これは……」


「ようやく理解したか。一時間が最低ラインだ。それ以下では話しにならん。時間はこれを使って測れ」


 鬼哭啾啾クヌズキは晶素を動力とした時計を手渡すと、あっさりとその場からいなくなってしまう。てっきり側で見守るのかと思っていたがそうではないようだ。


 期待の現れなのか、その逆なのか真意は分からないが、フィルがやるべき事は一つしかない。


「やってやる……ッ!」



――――――――――――


――――――――


――――


――



「はぁ、はぁ、もうっ……限界」


 フィルは全身から大粒の汗を流しながらその場に倒れ込んだ。


 フィルが倒れるのと同時に、三個の鉄型が崩れ落ちる。


 鬼哭啾啾クヌズキと別れてから、休憩しては晶素を込め、込めては休憩しを繰り返し、いつの間にか五時間が経過していた。その間の成果と言えば、三個を三十分保たせるので精一杯だった。二個積み重ねるだけでも相当な体力と晶素を消費するのだ。


――――地味に見えて相当キツイぞ、これ


「ふぅ」


 フィルは一息つくと、いつもは側にいる仲間たちのことをふと想った。


「みんな大丈夫かなぁ」


 精霊の国でも同じだったが、いつも周りに誰かいる状態から急に一人になると孤独感に苛まれてしまう。


 他の仲間たちも同じような事をしているのだろうか。それともまったく違う事をしているのだろうか。虫の声すら聞こえない静寂の空間の中、フィルは取り留めもない事を考える。


「集中、集中!」


――――今は他の事を考える余裕なんてないはずだ。ただ目の前の事に集中するんだ


「よしっ」


 フィルは再び鉄型に晶素を込めはじめる。最初は二個から始め、ようやく三個まで保てるようになった。これが成長なのかは分からないが、晶素を長時間維持させ続ける体力と、緻密なコントロール、出力のバランス、そのすべてを調和させる技術を身に着ける事がこの修行の意味だとフィルは感じていた。


「まずは三個で一時間だ」



 さらに五時間が経過した頃。


 すでに外は日が落ち木々の影のみが存在を露わにしている。周囲は暗闇に包まれ、灯りは遥か上空に見える月の灯りだけだ。


 フィルは未だ鉄型に晶素を込め続けていた。大量の汗を流しながらひたすら鉄型のみを見つめ集中している。精神的に乱れないよう、一切の雑念を捨て晶素の循環を繰り返す。


 フィルが手をかざす先には四個の鉄型が乱れる事なく直立していた。そして、この状態を維持し始めてから、ようやく一時間が経過しようとしていた。


 汗で視界が滲み、肩は石を乗せているかのように重い。疲労からくる眠気と必死に戦いながら、意識だけは目の前に向ける。


 なぜ失敗したのか、どうすれば効率良く晶素を放出できるのか、様々な試行を繰り返しようやくここまで来たのだ。


――――欲を出すな、最後まで集中しろ


 フィルは一心不乱に晶素を込め続ける。



 東の空が白み始めた頃、終わりの時はふいにやって来た。


「第一段階は終わりだ」


「え?」


 突然聞こえてきた声に驚きフィルは顔を見上げる。目の前には鬼哭啾啾クヌズキが数時間前と変わらぬ様相で立っていた。


「これで基礎は終了だ。次の段階に移るまでしばらく休め」


「終わり?」


 フィルは鬼哭啾啾クヌズキの言葉を頭の中で反芻する。それが終わりを告げる意味だと認識すると、張り詰めていた糸が切れるように、四個の鉄型と共にその場に崩れ落ちた。


「今はしばし眠れ」



 誰がそれを喋っているかも曖昧なまま、フィルはそこで意識を手放した。

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