4
間違いなく私の責任だった。
父母は引っ越し関連で昼から留守にしており、私が弟の様子を見ていなくてはならなかったのに。テレビに夢中になってしまい、部屋で宿題をしている弟をつい意識から外してしまった。とは言え、玄関に出るにはテレビのある居間、即ち私の傍を通らなくてはならず、出掛けるなら絶対に気付くハズだった。
だが弟はどうやら窓から飛び降り、裸足のまま行方をくらませたらしかった。これに気付いた時点で私の背筋は凍りついた。こんな異常な、脱走するかのような外出、マトモな精神状態であるハズがない。
否が応にも、あの超常の存在を意識せずにはいられなかった。
まだ携帯電話も普及していなかった時代だ。私は緊急用に渡されていた番号へ家の固定電話で掛けた。当日両親が訪ねていた不動産屋の番号だ。ツーコールで繋がり、営業の男性相手にしどろもどろになりながら、自分の苗字を名乗り、両親が訪ねていないか問うた。運良く店内に居たようで、すぐに代わってくれた。
「お父さん! 大変だ! 純平が、純平が!」
私は半ベソの興奮状態だったが、父は冷静に要点を聞き出し、すぐに戻ると言ってくれた。そして自分たちが引き返す間に、村の大人たちの協力を仰ぎ、くれぐれも一人で捜索をしないように厳命した。
私は駆けた。まずは神社に、そして村役場に、最後に集会所に。多くの大人たちが集まってくれた。そしてすぐさま捜索隊が組まれ、真っ先に▲▲山へと向かった。私の前では口には出さなかったが、普通の失踪だと思っている人は殆どいなかったのだろう。
私もついて行くと言いたかったが、本当に情けないことに、ついぞ言葉にすることは出来なかった。もう直截に、怖かったのだ。専門家たちが何時間も、精魂が尽き果てるまで祈祷して帰って貰ったハズなのに、逆に今度は呼ばれてしまう。逃れられる術がない。ついて行けば私まで呼び寄せられて食い殺されるのではないか。そう思うと足が震え、舌が縮こまり、何も言えなかった。
子供がついて行っても足手まといだ。父も自分で捜索するなと言っていた。そんな都合の良い言い訳ばかりが頭の中をグルグル空転するが、芯の部分ではハッキリ自覚していた。己の無力と怯懦を。
そうして、一時間ほどが過ぎた頃。部屋で一人泣いていた私の耳が、家のガラス戸が揺れる音を拾った。あの家は古く建付けもあちこちガタが来ていたので、玄関の戸を開けるだけで他の場所まで揺れるのだ。だから私は両親が帰って来てくれたのだと思い、玄関へと急いだ。二人の顔を一刻も早く見たくて、ほとんど走るような勢いだった。「心配いらないよ。純平は必ず見つかる。家族全員でこの村を出るんだ」そんな言葉を聞きたかった。罪からも不安からも、この村からも逃げ出したかった。
「お父さん! お母さん!」
大声で二人を呼びながら、玄関に飛び込む。だが、そこには誰も居なかった。風がガラス戸を揺らしただけだったのだろうか。だが諦めきれずに、外まで出てしまった。やはり誰も居ない。庭の駐車場にも視線をやるが、車はなかった。落胆がよぎったと同時、視界の端で何かが動いた。そちらに顔を向け、息を飲んだ。人影。その外見は純平に似ているように思えた。
「じゅ……」
名前を呼びかけて、どこかおかしい事に気付いた。背丈は確かに弟と同じくらいだった。服装も恐らくは。だけど、違った。違うとハッキリ言える決定的な証拠があるワケでもないのに、そう直感していた。
夕方、山の稜線から覗く赤橙の陽差しが逆光になって、ソレの顔を不明瞭にしていた。不意に、あの御簾を思い出した。少し近づけば正体がハッキリするかも知れない。だが、一歩たりとも足は前に動かなかった。それどころか、知らず後ろに下がっていた。一瞬、ソレの口元が見えた。夕日よりなお赤い赤い唇。
――――ピーピー。
不意に気の抜けた電子音が聞こえた。両親の車がバックで坂道を登ってくるのが見えた。そして自分が不用意に目線を切ってしまったことに気付き、慌ててソレが居た場所を振り返った。隙をついて飛びかかってくる姿を幻視したが、そこにはもう何も居なかった。
今となれば、あの時がギリギリの分水嶺だったのかも知れない、と思うようになっている。あの時、弟の名を呼び、アレを純平だと確定させることが出来ていたら、今もなお彼は人の世に居たのではないかと。何の根拠もなく、そんな妄想じみた言霊論に囚われている。
あの失踪の日から、捜索隊が懸命に探してくれたが、結局弟は見つからなかった。県警や消防も合流し、全国ニュースにもなったくらいに大規模かつ広範囲を見てくれたのだが、朗報はついぞ届かなかった。私は、私たち家族は、捜索隊の方々には申し訳なさで一杯だが、心のどこかでこの結果を予想していた。「替わられたんだ」と泥酔した母がこぼしたことがあった。
例の祠にはあの儀式の朝に見た、お札で戒められた桐箱が安置されていたらしいのだが、何者かが暴き、中の人形を持ち出したと言う。壊れていた祠の扉の錠も新調したばかりだというのに、それもキレイに外れていたらしい。鍵は自治会館で厳重に保管されており、当然持ち出された痕跡もなかったのにも関わらず。
現場に唯一残された手がかりは、地面の足跡。子供のサイズだった。
純平はあそこに呼ばれ、オカワリサマの戒めを解く手助けをしたのだろうか。そしてそのまま体を替わられた。ならやはり、最後に生家にやって来たのは、兄の前に姿を現したのは、私に見つけて欲しかったからではないか。乗っ取られる今際に、人間としての彼の意識が縋ったのではないか。そう思えてならず、先に述べた言霊信仰のような考えに至ったのだ。或いは何も出来ないまま弟を奪われた不甲斐なさに対する自罰の念が、そういった思考に陥らせるのかも知れないが。
母が鬼籍に入る一年前のことだった。
「私のお母さん、つまりアンタのおばあちゃんね、彼女から聞いた話なんだけど」
そんな枕詞から独白が始まった。
「オカワリサマは節度を持って接しさえすれば、善い神様だそうなの」
私は驚いた。あの地を去った後は、家族の間でも努めてオカワリサマの話はしなかったのに。
「ほら、あそこって台風もほどんど被害出さずに通り過ぎるし、日照りとも無縁だったでしょう?」
「そう……だったかな」
「あれはオカワリサマの御加護なの」
普通なら眉に唾つけて聞く類の話なのだろうが、私は何の疑いもなく頷いた。彼女が人知を超えた存在であることなど、嫌というほど知っている。
「食いしん坊な神様でね。豊穣を齎す代わりに、収穫物のお供えも沢山要るのよ。アンタは子供だったから知らないだろうけど、秋になると例の祠の前にどっさり」
食いしん坊などという牧歌的な表現がひどく場違いに感じられた。
「ただラインは絶対に踏み越えちゃいけないの。供物は供物。人の食べ物は人の物。それを弁えないと、ついてきちゃう」
収穫期の定められた奉納以外に、人の食べ物を供えるとその者の家までついてきてしまう。祠が放置されているように感じたのは、与えたくても与えてはいけないから、だったのか。
「なら純平がしたことは……」
季節外れの御馳走を与えると見せかけて取り上げる、神を虚仮にするような行為だったのだろう。
「神饌のつまみ食い。妬まれて入れ替わられる……村の記録では行方不明になる子供が数十年おきくらいに出てたらしい。きっと純平と同じことをしてしまったのね……だから子供には絶対に知られないようにしていたんだけどね」
その禁忌へ軽々に触れてしまった。改めて後悔が押し寄せる。あんな場所へ行くべきではなかった。臆病者の誹りよりも、もっともっと恐ろしい事態が待ち構えていると、どうにか過去の自分に知らせる手立てはないか等と、甘ったれた夢想をしてしまう。だが当然、そんな術があるハズもなく、私はこの無力感や罪悪感を抱えたまま生きて行かなければならないのだ。