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 それからの一週間ほどは、記憶にモヤがかかったように、多くが不鮮明である。

 ただその朧げな記憶を繋ぎ合わせて行くと、まず最初の変化は翌日の朝だったと思う。どちらかと言うと小食な弟が唐突に「おかわり」と言ったのだ。それを聞いた両親の反応が如何なものだったかは霞がかったように思い出せないが、ともあれ茶碗にもう一杯分の白飯をよそってもらったのだろう、純平は嬉しそうにしていた。そしてその茶碗を持って、二つ隣の部屋、仏間へと消えたのだった。

 そして彼は昼食もそうして、夕食にも同じことをした。両親は何故か咎めなかったと思う。怒鳴っていたりしたら流石に覚えているハズだ。恐らく。いや、やはりここら辺の記憶に関しては自信が無いが。

 私はついに好奇心を抑えきれず、弟が入った後、こっそり仏間の襖を三センチほど開け、中を覗いた。すると、居たのだ。白い着物を着たおかっぱ頭の少女が。顔の細部の造りはハッキリとは思い出せない。ただ何となく、美佳ちゃんに似ていたように思う。そして美佳ちゃんよりも遙かに美しかった、そんな感動だけが残っている。私は一目で魂を鷲掴みにされた。弟もそうだったのだろう、見たこともないくらい恍惚とした表情で茶碗を捧げるように差し出していた。

 Y君の祖母が言っていた事は本当だった。


 

 また記憶は途切れ、時が跳ぶ。次は数日経った後の記憶だろう。その頃には既に私も完全に魅入られていたらしく、何の疑問も抱かないまま、毎食おかずを残し、白飯のおかわりと併せ持って、仏間へと甲斐甲斐しく運んでいた。

 少女はただ一つ「オカワリ」という言葉しか話さなかったが、私たち兄弟は好かれようとして懸命に様々な話を彼女に聞かせていたような記憶が朧気にある。病的なまでに白い肌の中にポツンと浮いた赤く瑞々しい妖艶な唇が、時々、私たちの話に反応して笑みの形を取るのだ。それが嬉しくて、また見たくて、私たち兄弟はどんどんと前のめりになっていった。

 しかしその逢瀬(と思っていたのは我々だけだろうが)は長くは続かなかった。オカワリサマが家に来て一週間くらいだろうか。その日も、いつものように私たちの話を聞きながら、オカワリサマは運ばれた食事を楽しんでいた。黒地に金花の蒔絵箸を繰り、それが赤々と美しい唇に吸い込まれていく様を私もウットリと眺めていた。だが、弟は違った。この美しい少女の気を惹きたかったのか、困らせてみたかったのか、動機のほどは今となっては知る術もないが、兎に角やってしまった。膳(この時にはそんな大層な物まで用意されていた)の上の皿から、おかずの一つをつまんでパクリと食べたのだ。

 


 その後の事は鮮明に覚えている。いっそここも記憶が曖昧だったら良かったのに、と思わずにはいられないくらいに恐ろしい光景だった。俯いたオカワリサマはおかっぱ頭の綺麗な髪が流れ、顔は窺い知れなかった。ちょうどあの祠で見た御簾を掛けられた人形と同じような。

 

 ――――パキパキパキ

 

 最初は家鳴りか何かかと思ったが、もっと鋭く、もっと近くで聞こえた。部屋の温度が下がったような気がした。体の末端から冷気が這い上がってくる錯覚。身の毛がよだつという言葉があるが、後にも先にも、夢に出るほど鮮明にそれを体験したのはこの一度きりだ。

 オカワリサマが顔を上げた。網目のような毛細血管が浮き上がり赤くなった白目をギョロっと動かし、弟を見た。美しかった赤い唇は、腐ったように真っ黒になっていた。その唇が頬まで裂いたように広がり、その口端から肉食獣のような涎が幾筋も滴る。

 憎悪。憤死する直前の人間でもきっとこんな顔はしない。出来ない。私は腰が抜けたまま、カマキリに捕まったバッタのように闇雲に手足を動かして畳の上を後ずさった。恐らくだが失禁もしていた。口を開けた、と思う。謝罪か言い訳か命乞いか、そのどれか乃至どれもを言いたかったのだと思う。そしてどれも言うことあたわなかった。

「オカワリオカワリオカワリオカワリオカワリ……オカワリオカワリオカワリオカワリオカワリ……」

 オカワリサマの口は動いていないのに、その呪詛は脳内に響いていた。

 殺される。それも惨たらしく。

 私はもう歯の根も合わないまま、彼女の顔を見つめていた。いや、一瞬でも目を離した隙に頭から食い殺されるのではないかと思って顔を動かせなかったというのが正確なところか。弟も全く同じのようで、ズルズルと手を後ろに繰って、芋虫のように下がって行くだけだった。オカワリサマはそんな弟へ向かって今にも……

恭祐きょうすけ! 純平!」

 そこで唐突に襖が開け放たれ、父が飛び込んできた。オカワリサマは父を見るや、何事かを呟いて、すうっと周囲の空気に溶け込むようにして消えた。彼女が持っていた蒔絵箸が畳の上を転々と跳ねた。



 それからは村中、上を下への大騒ぎだった。消防団が半鐘を鳴らすカンカンカンという音が、幼心に焦燥と不安を煽り、いよいよ大変なことをしてしまったのだと、鉛を飲んだように心が重たくなった。

 母は弟と私を抱き締めて、ずっと謝っていた。気付いてあげられなくてゴメンね、と。既に家に憑かれていたということなのだろうか。両親も全く違和感を抱けないまま、人数分を超えた量のおかずや米を用意していたのだと言う。

 やがて何人かの大人が家を訪ねてきた。「準備が出来た」と、年嵩の男が言った。父と母は深々と頭を下げて「よろしくお願いします」と返した。それから私たち家族は男たちが用意した車に乗った。窓ガラスにはスモークが張られていて、車内ではむせそうな程に香が焚かれていた。弟は少し気管支が弱かったため、咳き込んだが、不平を言うことはなかった。彼も自分の為にこんな大事になっている事を子供ながらに理解していたのだろう。



 神社の、いつもは固く閉じられて入れない本殿の中へ弟は入って行った。私たち家族は社務所の中に詰められた。家族と離れる時の弟の泣き顔を今でも忘れられない。

 私は母に抱き締められながら、布団にもぐって震えていた。あの恐ろしい神様が自分を見つけ出して、その体を食い散らかす想像が頭から離れなかったのだ。本当は弟の心配をするべき所を、薄情な兄だと、内心で罪悪感が過るが、どうしようもなかった。

 どれくらいそうしていただろうか。いつの間にか、私は眠気におそわれていた。母の体温とは子供にとっては無二の加護ということだろう。もっと感謝を伝えておけば良かった。いや、今はその感傷は脇に置こう。とにかく、ウトウトと微睡みの中で、しかしこんな会話を聞いた、ように思う。襖の開く音がして、誰かが入って来た気配がした後、

「純平は?」

 母の声。

「分からない……最善を尽くすとは仰ってくれたが……最悪も覚悟しておけと」

 父の返答。

「そんな……!」

 母の腕に力が入り、私は身じろぎした。すると慌てて力を緩めたようで、またゆっくりと意識は眠りへと傾いていく。

「……祈ろう。儀式が成功することを」

 さいあく、ぎしき。そんな単語だけを耳が拾いつつ、私は意識を完全に手放した。

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