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あの悪夢のような夏の日々から三十年以上の時が流れた。だが今なお、思い出すたびに私は恐怖と切なさ、そして無力感に苛まれる。
私はとある片田舎に小学校の高学年まで住んでいた。四方の大部分を山に囲まれた盆地で、主な産業は農業。まあ良く言えば日本の原風景、悪く言えばド田舎だった。アリもゴキブリもやたら大きいし、ハンミョウやナナフシなんて都会では見掛けないような昆虫も居た。バスも一日に片手で数えられるような本数しか出ていなかったと記憶している。
近所(と言っても隣家は数百メートル先だったりするが)の子供たちは全員が幼馴染で友達。そんな環境だった。当時はゲーム機なんかもハシリが出たくらいで、まだまだ普及には程遠かった頃。持っている友達も居たが、ソフトを買いに行くには、いちいち県庁所在地の街まで行かないといけないという不便さから、娯楽の主流たり得なかった。
必然、私たちの遊び場は専ら山や川となった。田んぼの用水路でヤゴを探し、トラクターが通った後の畝を踏み崩して叱られ、アケビやヤマモモを見つけたヤツは当日のMVPとなる。そんな日々を過ごしていた。今でもこの頃の記憶は鮮明だ。真っ青な空に浮かぶ入道雲、蝉時雨が反響する林、友人たちの日焼けした顔。物質的には全く豊かではなかったが、何かこう、人間という動物が本来摂るべき滋養というか、そういうものに満ち溢れた日々だったように思う。
だが、そんな或る日の事だった。私が小学校の五年生、弟が三年生の年。友人の一人、名前は吉田だったか吉村だったか思い出せないので仮にY君としよう、その彼がこんなことを言い出したのだ。
「ばあちゃんが話してんの聞いたんだけどよ。▲▲山あんだろ? あそこの山道を外れた所に小さな祠があるらしくてさ」
▲▲山は比較的なだらかで、山道も整備されている山だ。時折、都会の大学のワンダーフォーゲル部なんかが登山に訪れたりするような。
「ええ? あんなところに?」
美佳ちゃんが驚いていたのを覚えている。彼女は目鼻立ちのクッキリした美少女で、恐らく私たちグループの男子全員の初恋相手だろうと思う。当然私もそうだった。Y君と違って顔も名前もハッキリ記憶しているくらいだから。
「本当、本当」
Y君は美佳ちゃんに反応して貰えたのが嬉しくて、上機嫌で詳細を話した。
いわく、祀られているのは「オカワリサマ」という神様だそうで、大層食いしん坊な性質だと言う。緘口令が敷かれているワケでもないが、どういったワケか、村の大人たちはあまり話したがらない神様のようで、Y君もたまたま祖母が他の大人と話しているのを盗み聞きした、という経緯だった。
「でさ。祠の前に食べ物を供えると、どうもその神様が家についてくるらしいぜ?」
とっておきの秘密を話すように声をひそめて話すY君に、友達のほとんどが「ウソだー」と取り合わなかった。それでY君は引っ込みがつかなくなったのか、
「ウソかどうか分かんないじゃん。行ってみようぜ。男は全員参加な」
なんて言い出した。私は本音では気味が悪いし、仮に本当だったとして何のメリットも感じなかったので、参加したくなかった。だが小学生時分のこの手の誘いは、ある種の踏み絵に近く、私を含め男子たちの誰もが美佳ちゃんの前で日和って断る無様を晒すのは嫌だった。
翌日の昼過ぎ、言い出しっぺのY君、私たち兄弟、残り二人の男友達、総勢五人で▲▲山に向かった。私たちはスナック菓子、Y君はおにぎり、残りの二人はおはぎを持ってきていた。
山道を三合目あたりまで登ったくらいだったか。突然、Y君が整備された登山道を外れ、脇の林の方へ入って行った。弟がそれに続き、私たち残り三人も、Y君が道を知っているのだろうと、あまり疑問も持たずについていった。思えば話を盗み聞きした程度で、一片の迷いもなく正しい道順を辿れるハズはないのだが、幼い私にはそこまで思案を巡らせることは出来なかった。多分、いや間違いなく、呼ばれていたのだろう。
下生えを踏むたび湧き上がる草いきれの生暖かさを踝に感じながら、黙々と進んだ。ニ十分ほど歩いただろうか。その間、私も何故か道が間違っている可能性というものを一度も考慮しなかったように思う。まるで通いなれた近所の道を行くかのような感覚だった。
「あれだ」
Y君の声も落ち着いていた。
彼の頭越しに向こうを見やると、黒くなった岩の台座の上に、古ぼけた木造りの祠があった。観音開きの扉の両脇に白い陶器の瓶があり、茶色に枯れた植物がさしてあった。当時の私は分からなかったが、恐らくは榊だったのだろう。それが枯れ果てる程に放置されていた。およそ真っ当な神が受ける待遇とは思えない。そんな所からも所謂まつろわぬソレではないかと察せようものだ。だが当然、その「察し」を小学生だった我々に期待するのは無理な話で、それどころか、
「ねえ、これ開けてみない?」
などと罰当たりなことを友達の一人が言い出した。ただこれも今になって思えば、妙だ。その友人は弟と同じく気の弱いヤツで、とてもそんなことを言い出すタイプではなかったのだから。
「やめとけよ」
私はそう言ったが、その友達を押しのけて、パッと祠に近づく者が居た。弟だった。私が何かを言う前に、錆びかけた小さな取っ手をつまんで木扉を開いた。私は息を飲んだ。祠の中に、白装束を着た人形が、周囲の経年劣化から隔世されたかのように、綺麗なままで在った。祠の天井から御簾のようなものが垂れているらしく、顔の部分だけ見えなかった。だけどその御簾の編み目の隙間から、こちらを窺うような気配を感じた。私は背筋に悪寒が走り、二、三歩、たたらを踏むように下がった。
「バカ、流石にマズイって」
Y君が慌てて扉を閉めた。畏怖、畏敬の念から、などではなく恐らく勝手に開けたのを大人に知られたらどやされると思ったからだろう。弟は押し退けられてようやく、今自分がしたことに気付いたというような顔。目をしばたかせて私を見上げるのだった。
そのまま去るのも、それはそれで罰当たりな気がして、私たちは持ってきた食べ物を全て岩の上や木扉の前に置いた。さっき盗み見したのをコレで許して欲しいという気持ちもどこかにあった。みんな何となく手を合わせて、目を閉じた。
「……帰るか」
いつの間にか空が薄っすらと赤くなり始めていた。Y君が来た道へ歩き出し、私も後に続く。ホッとしていた。これで課せられた義務のようなものを果たした気になった。誰からも「臆病者」のレッテルを貼られることはないだろう、と。
「オカワリ?」
「え?」
私は振り返る。弟は歩き出していなかった。体ごとまだ祠の方を向いていた。私は慌てて彼の手を掴んだ。
「純平!」
一瞬、弟がこのままどこか遠くへ行ってしまいそうな気がしたのだ。私はそのまま彼の手を引っ張って、その場を離れた。振り返った時、視界の端で捉えた光景……祠の木扉が開いていたような。いや、勘違いだ、見間違いだと何度も心中で否定しながら。