隣人
今日も晩くなってしまった。実和子はそう思っていた。書類処理をしていると次から次へと気になるところがあって、なんとなく確認しながら調べながらやっていると、家に帰って来るのがまた九時を過ぎてしまった。高級とはいえないけれどそこそこのマンションのオートロックを通り抜け、ダイレクトメールさえ稀にしか受け取らない郵便受けを念の為に確認し、エレベーターに乗り込む。新築だったマンションを購入して住み始めて五年が過ぎ、賃貸で借りている人など何軒かは入れ替わった住居者もあったけれど特にトラブルもなく過ごしてきた。いつもどおり六階でエレベーターを降りて、正面の高い位置に月を眺めるのが癖になってしまった。ここで一息ついてから左側へ歩き始める前に、自分の部屋よりは一つ前のお宅の扉が開かれていることに気づいた。見かけたことのないお隣さんについに会うのだろうかと、少し緊張感を覚える。スーツ姿のスリムな男性が扉の前に立ち、こちらを見る。男性はすぐに部屋の中へと向かってなにか話しかけている。なんだ既婚者なのか、お相手がいるのかと考える間もなく、もう一人、別の男性、こちらは少し年配に見える、が扉の前に出てくる。
なんだろうと思いつつも実和子は自分の部屋へと向かう。男性二人の視線を感じつつ、軽く会釈をして通り過ぎる。男性二人もなんとなく会釈をしている感じ。実和子はバッグの中を漁ってキーホルダーを取り出すと、鍵穴に鍵を差して縦に長いドアノブを押して少し扉が開いたところ、若い方の男性が話しかけてきた。
「六〇五号の方ですね?」
「あ、はい…。」
「こうゆう者です。」
男性が示したのは警察手帳だった。テレビドラマみたい。初めてそんなものを見せられた実和子の率直な感想だったが、口に出さずに済んだ。
「お隣の方、お付き合いありました?」
「あ、いえ。会ったことなくて、一度も。」
「あー、そうでしたか。あっちの六〇三号室の方も、同じ階の別の人たちも見かけたことないみたいで。」
「ええ、そこの部屋は本当に誰か住んでるんだろうかってゆうくらい、マンションの総会とかでも見かけたことなくって。」
「皆さんそうおっしゃいます。管理人さんだけは外出されるところに何度か出くわしたことがあるそうです。配管清掃とか、セキュリティ設備の確認のときとかもいつも不在だったそうで…。」
「へー、そうなんですね…。」
「ええ、でも…、失踪したみたいなんですよ。」
「失踪?」
「ええ。こちらのお姉さんなんですけどね、が海外に住んでいるそうなんですが帰国して久しぶりに弟に会いに来ようと思ったら連絡がつかなくて、非常用に親御さんが預かってる鍵を使って入ってみたら、人が住んでる感じがしないって連絡をいただいて」
「そうなんですか。」
「ええ、最後に見かけたときのこととか、なにか最近大きな物音が聞こえてきたとか…ないでしょうか?」
「いえ、本当にまったく一度もお見かけしたことないんで。誰か住んでるのかってくらい、物音も聞いたことないです。」
「ですよねー。ほかの方もそうおっしゃるんです。…まぁ、なにか思い出すようなことがあったらお知らせください。」
差し出された名刺を受け取りながら、思い出す以前になんにも知らないんだけどなぁと実和子は考えていた。
「それから、これ、ご存知ですか?」
若宮刑事はスマホの写真を見せた。女性用のスニーカーで、青いペイズリーの柄が全体に入っていた。
「ああ、これ。私も持ってますよ。」
これは某ブランドがスニーカーのメーカーと限定品として珍しく製作して販売されたもので、ネットで見かけたときに自分向きではないと思いつつも衝動買いしてしまったものだった。で、しかり、シューズケース内の花と化し、一度試し履きをしただけでそのまま置いたままにしてあった。
実和子は玄関に入って、シューズケースの上の方を見上げてみたが、その最上段の定位置にはそれが置かれていないことに気がついた。
「あれ?」
実和子はシューズケース内を見回した。五段ほどあるそれは、ケース内いっぱいに靴は陳列してあるが、見渡せないほど靴で溢れている訳ではない。最下段には冬のブーツもあって、真ん中あたりにはパンプスや礼装用の黒靴、夏向けのサンダルなんかも乱雑に置いてあるのだけど、よりによって写真で見せられた、しかも自分のお気に入りのペイズリー柄のスニーカーが見当たらないなんて。しかも、なんか変に疑われるんじゃないかと思って、焦ったりもしてきた。
「どうしました?」
「あ、いえ…。なんか、見当たらなくって。」
「このスニーカーですか?」
「ええ、気に入って、見た目もかわいいんで、一番上の段に飾るようにして置いてたんですけど。」
その位置は決して別の靴に占拠された訳ではなく、そこだけ空いていた。不自然に見えることだろうと、実和子は自分はいま嫌な汗をかいているであろうと想像していた。
「ちなみにサイズは?」
「23.5です。」
「同じですね。」
「え?」
若宮刑事は写真を指で拡げるようにズームアップし、靴の中に書かれているサイズ「23.5」を見せてくれた。
「あ…。」
実和子はそれ以上なんと言っていいのかが分からなかった。
「これ、限定品で珍しいんですよね。」
「はい。」
否定のしようがなかったので、実和子はむしろ早口で答えてしまった。
「関口さん、あ、お隣の男性ですけど、女性も含め、友人なんかの出入りもなかったみたいなんですけど、心当たりありますか?」
「いえ。さっきも言ったとおり、この部屋に誰かが出入りしているところ自体見たことないんで。」
「ですよね。」
「はい。」
実和子は焦っていた。なにか間違えたことを言ったら余計に自分が疑われるんじゃないかと不安に思った。
「見てみます?」
「はい?」
「スニーカー。」
「え?」
若宮は手の平を実和子の方に向けていた。
「えーと、お名前…」
「ああ、田辺です。」
「田辺さんのかもしれませんよ。」
「はあ?」
実和子は強い口調で返した。
「どうしてそれが私のスニーカーなんですか?」
「だって、同じの持ってたんでしょう?しかも失くなってるんですよね?」
「ええ、だからって…。」
「どうした。」
年配のもう一人の刑事がやって来た。若宮はここまでの実和子との会話を手短に説明した。
「田辺さん、見るだけ見てみてくださいよ。」
「見てなんともなるもんじゃないと思うんですけど。」
「まぁまぁ、見ても減りはしませんから。」
促されるがままに実和子は隣の部屋の玄関へ入った。靴は玄関に揃えられていた。
ビニールの手袋をはめた若宮がその靴の踵のところを指に引っ掛けるようにして、左手の手の平に載せて実和子の顔の方へ向けた。実和子は抗うことができずにそのスニーカーを眺めた。確かに同じ柄、同じサイズのそれだった。若宮はスニーカーを載せたままの手の平の向きを変えたり高さを変えたり、実和子がいろんな角度からそのスニーカーを見えるようにした。
「あれ?」
実和子は思わず声を出してしまった。
「なんだ?どうかしました?」
年配の山岸巡査部長が実和子に聞いた。
「ここ。」
実和子は左のスニーカーの踵近くのゴムの部分の少しだけ線が擦れたように見えるところを指した。
「ここ、傷ってゆうほどじゃないし、完全に線が消えてる訳じゃないから、まいっかって思ったの、覚えてます。これ、間違いない、私のです。」
そう、そのスニーカーは実和子のものだった。
そして実和子は気づいた。この部屋にはなんにもない。
「ミニマリストって言うんですかねぇ、なんにもないんですよ、この部屋。」
実和子がなにかに気づいたことを悟った若宮は説明するように言った。白い壁紙のワンルームには白いカーテンが掛かっていた。白いベッドに白いテーブル、白い椅子が一脚。台所には鍋などはかかっておらず、白い茶碗、白い皿、ガラスコップが一つずつ置かれているだけだった。埃ひとつ落ちておらず、とてもとても清潔そうに見えた。山岸はシューズケースを開いて実和子に見せた。靴は一足も入ってなかった。なのに、青いペイズリー柄の女性もののスニーカーが一足だけ玄関に置かれていたとのことだった。実和子は不気味に感じずにはいられなかった。
「本当に、知り合いじゃないんですよね?」
実和子は首を横に振るしかできなかった。
実和子は眠れない夜を過ごした。隣の関口…さん?まったく覚えがない。どうして自分のスニーカーがお隣に?いつから?関口さんて、えーと、マンションの購入検討会にいた?いや、あのときは女性のみ。内覧会は?えーと、内覧会にいた人なんて一人も覚えてない…。総会?ほとんど出てない。ゴミ置き場であった?エレベーター…。あ、エレベーターでは同じ階の人と乗り合わせたことあるよね。朝も。夜晩くも。えーとえーと、六〇一号室はたしかご家族。ご夫婦と中学生くらいのお子さん、女の子だっけ。角部屋で少し広めなんだよね。六〇二号室は自分とこと同じく1Kタイプ。自分よりは一回りくらい年上の女性なんだよね。小石川さんていったっけ。エレベーター挟んでこっちの六〇三号室は、老夫婦だったっけ。とくに感じ良くも悪くもない。六〇四が関口…さんで、六〇五が自分。六〇六はやっぱり角部屋少し広めなんだけど、1ルームにオマケみたいな小さめの部屋、物置きよりはおっきいのがあるんだよね。小さいお子さんがいるような若夫婦向けって聞いた気がする。防音はしっかりしてるから楽器の練習したい人にもいいんだって説明会では言ってたっけ。たしかこっちのお隣はシングルファーザーなんだよね…。で、関口さんて?どんな人だったっけ?本当にまったく見たことないんだっけ?で、あのスニーカー、いつからなくなったんだろう。でも、どうやって?うちに入って、シューズケースから持ってったの…?
そんなことを考えていたらよく眠れず、朝になってしまった。なにがどうであっても、朝はやって来る。朝ご飯は食べる気がしない。こんな日は化粧のノリも悪い。それでも仕事には出かけなくっちゃ。実和子は家を出た。鍵を締めたところで、ちょうど若宮がまた扉から出てきた。泊まった訳ではないだろうが、朝早くから捜査を再開していたらしい。
「おはようございます。」
刑事にしては爽やかな笑顔で挨拶をしてきた。
「多分、白いスニーカーで出かけたんですよね?」
実和子はポカンとした。
関口の部屋は白で統一されている。しかも、すべてのアイテムが一つずつ。代用品が見当たらない。だからきっと、白いシャツに白いズボン、白いスニーカーで出かけたんだろうというんだ。「それがなにか?」と言いたい気持ちをグッとこらえて実和子は会社へと向かった。
最寄り駅について電車に乗ると、ちょうど向かい側の反対車線にも電車が停まっていた。窓越しに向こうの電車に乗っている客たちが見える。電車はいつもどおり、ゆっくりと動き出す。実和子の視線の先には白いTシャツ、白いキャップを被っている男がいた。
「あ、」
周りの乗客が少しビックリするほどの大声を実和子は出してしまっていた。周囲の視線に気づき、俯いておいた。
向こう側の電車はすでに行ってしまった。自分が乗っている電車も動き始めた。もちろんズボンや足元まで見られた訳じゃない。あんまりにも考えすぎて見えた幻だったかもしれない。キャップを被っていたため顔は見えなかった。キャップからのぞいた短めの黒髪、涼し気な目元…、どこかで見たような…なんてこと、あるだろうか?
そんなことを日中ずっと考えてしまい、仕事はまったく手につかなかった。
そして実和子は定時には帰宅してしまった。同僚や上司たちが珍しがるのも気にかけず、颯爽と一人で自宅へ向かった。食欲は相変わらずなかったけれど、なにか口にしなければと思ってコンビニに寄って弁当を買って帰った。
今日も便りのない郵便受けを確認だけはする。エレベーターに乗り込んで六階で降りる。自分の部屋へ向かう。月を見るのを忘れたと思うが、あえて振り返りはせずに進んだ。どうせまだ早いから月は昇っていないだろう。六〇四号室を過ぎた辺りで後ろから声をかけられる。それはやっぱり若宮だった。
「お帰りなさい。今日は早いんですね。」
実和子は返事もそこそこに自室へ向かおうとしたが、若宮はひるむことなく語り続けた。
「なにか思い出しました?関口さんのこと。」
実和子は苛立ちを隠さずに若宮の方へ鋭い眼差しを向けた。
「いいえ。」
そして若宮の返事を待たず、玄関に入るとバタンとドアを閉めた。予想以上にドアを閉めた音が大きく、少し反省した。そりゃあ、自分の靴が置いてあったんだもの。疑われても仕方がない。そんな風に言い聞かせてもみた。でもやっぱり納得がいかない。というか、靴が失くなっていたことにさえ気づいていなかった自分自身のことも腹立たしくてしょうがないのだった。
そんなことを考え、ぶつぶつと言いながら買ってきたお弁当をレンジでチンして、がっつくように食べてしまって、お風呂にさっと入って、洗濯でもしようか、少し掃除でもしようか、いやいややっぱりテレビでも見ようか…なんて、いろんなことをしようとして、なにをしても関口のこと、靴のことを考えては集中できずにいるのだった。
そして夜はやっぱり眠れず、昨夜とほぼ同じ、いろんな考えが頭の中で堂々巡りを続けていた。
翌朝、寝ぼけまなこをこすりながら部屋を出た。そこにはやはり若宮が立っていた。
「思い出していませんよ、関口さんのこと。」
若宮はむしろ冷たい表情で間髪をいれずに返した。
「そうですか。おはようございます。」
挨拶をされて実和子はバツの悪い想いをした。だから返事もせず早足で駅に向かった。駅が近づいてくると昨日見かけた白いTシャツに白いキャップの男を思い出した。今日もまたいるんじゃないかと思って、向かい側のプラットホームを気にした。あんな白づくめ、目立つに決まってる。かと思うと、それらしい姿は見かけなかった。
今朝は手摺に捕まることができた。外は天気が良かった。まだ寝ぼけ眼で外をなんとなくながめていた。一つ前の駅で停車していたとき、白いTシャツの男が過ぎて行くのが見えた。
「あ。」
また大きな声を出してしまった。白いキャップ、白いズボン、そして白いスニーカーを履いていた細身の男だった。正に全身白づくめ。実和子は降りようという気持ちになる前に、男はプラットフォームを進んで人混みに紛れてしまった。
なんだろう、あの白づくめの男。朝の通勤電車は大体同じ時間に乗ってるけど、いままであんな白づくめの男なんていただろうか。前からずっといたんだとしたら、いくらなんでも気づいて良さそうなものだけど。でも、周りの人たちもあんまり気にしている様子がないんだなぁ。まあ、ものすっごく変わっている出で立ちという訳でもないからなぁ。でも気づきそうだけどなぁ。自分が気にしすぎなのかなぁ、白い洋服着てる人。でもあれが関口さんだったからって、どうする訳でもないんだよね。白づくめの関口さんだったからってあたしの靴盗んだってことにはならないし、よしんば、よしんば?まぁ、とにかく、靴を盗んだのだったとしたら、あれ、ほら、どうして盗んだの?ってことには、なるんだけどさぁ…。
実和子はそんなことを考えていて、やっぱり今日も仕事にならなかった。だからまた今日も早々に、定時には家に向かった。
そりゃあ帰り道だって、帰りの電車だって、白づくめの男が気になるんだけど、そんな男は帰り道はまったくもって見かけなかった。
コンビニに寄ってお弁当買って、なんの便りも届いていない郵便受けを見て、エレベーターに乗って、六階で降りて、また今夜も月を見るのを忘れた。この時間ではどうせまだ月は昇っていないだろうと自分に言い聞かせる。そして自分の部屋へと向かった。バッグを漁って鍵を取り出し、ドアノブに手をかけたそのとき、やっぱり六〇四号室から若宮が出てきた。
「今日もお早いお帰りですね。」
「ええ、失礼します。」
実和子は颯爽と自室へ入ろうとする。
「あ、ちょっと…」
そう言われると扉を閉めてしまう訳にはいかず、顔が見える程度に少し開いた状態で止める。
「なんでしょうか?」
「あ、えっと、田辺さんを疑っているわけじゃないんですよ。」
「うん。なにも思い出してませんが。」
「すみません。聞くのが仕事なもんで。」
「分かってます。」
言い終わらない内に実和子は扉を閉めてしまった。嫌な気分で胸が押しつぶされそうだった。荒々しく鍵を締めて、背中をドアに預けて、しばらくそこに佇んだ。深呼吸をして、部屋の中へと入り、お弁当をレンジでチンして、がっつくように食べてしまって、お風呂にさっと入って、洗濯でもしようか、少し掃除でもしようか、いやいややっぱりテレビでも見ようか…なんて、いろんなことをしようとして、なにをしても関口のこと、靴のことを考えては集中できずにいるのは昨晩とまったく同じだった。あと何日こんな日が続くんだろう、そう思うとモヤモヤした気分で部屋がいっぱいになるようで、憂鬱ということばさえ重く重く自分にのしかかってくるように思われた。
翌朝、部屋から出ると六〇四号室の前に若宮がいた。室内にいる山岸に話しかけているようだった。
「では、失礼します。」
若宮は扉を閉じると、実和子に気づいた。
「あ、すみません。すみません。」
若宮は大慌てでインターホンを押した。実和子は気にせずエレベーターの方へと向かおうとした。若宮はさらに慌てて実和子のブラウスの袖を左手で掴んだ。その間、彼の右手はまだインターホンを押し続けていた。六〇四号室の扉が開かれた。そこには見慣れない男性の姿があった。むっとした表情の実和子の顔が強張った。
「ごめんなさいッ。」
若宮は自らの手で実和子の袖をひっつかんでいることに気づき、パッと放した。
「いえ。」
そう言いながらも実和子は掴まれたその部分をもう片方の手ではたくようにしていた。
「もしかして…、六〇五号室の?」
六〇四号室の関口さんと思われる中肉中背、むしろ精悍そうな三〇代前半の男性がそこにいた。明るいグレーの地に薄黄色の線がチェック模様に入ったシャツを着て、ブルージーンズが似合っていた。白い靴下は清潔そうに輝いて見えた。
「あ、ええ、はい。」
変な間を作ってしまったため、実和子は少し慌てて答えた。
「関口さんです。」
若宮は少し自慢気にいった。
なんでも関口は旅行先の長崎で坂の上の高い階段から転げ落ちて入院していたとのことだった。翌日には目が覚めたものの記憶喪失の状態にあったそうだ。足も捻ってすぐには動けそうにないのもあって、精密検査を受けたりして数日を過ごしていたところ、徐々に記憶も戻ってきたそうだ。離れて暮らす家族にまでわざわざ知らせる必要はないと判断したのは関口自身で、病院側も納得したそうだった。入院していたのはほんの数日。リハビリも兼ねてのんびり普通列車でぶらりぶらりと乗り降りを繰り返しながら東京まで帰ってきたら、なんだか二人の男が部屋を荒らしているのかと思ったら刑事二人組で、自分は失踪したことにされていたのが分かったそうだ。
部屋にはほとんど物がなくて真っ白だったのは断捨離を済ませたばかりだからで、どんな部屋にしたいかは旅行先で考え、戻ってきたら模様替えを始める予定だったとのこと。なんでも悲しい想い出をすべて破棄してしまいたかったらしい。
ここで「男のくせに」と思わないではない実和子ではあったが、この先が聞きたいと思って黙って、時折頷いていた。
「それから、」
そう言ったところで関口は一度玄関の中へ戻った。そのとき、若宮と実和子は顔を見合わせた。特に意味はないけれど、間をつなぐためにお互いの顔を見合わせただけだった。すぐに関口は出てきた。
「これ、あなたのでしょう?」
青いペイズリー柄のスニーカーを関口は実和子に見せつけるようにした。
「そう…ですよね?」
実和子は少し自信なさそうに答えた。
「半年くらい前だったかな…」
関口は笑顔を見せた。なんでも、実和子のところに友人が来たらしかった。実和子よりは少し年上で、服装も化粧も派手だったそうだ。
「ああ、玉恵さん…かな。」
転職してしまってから会うことはなくなっていた先輩だった玉恵に偶然スーパーの前で出くわして、大して親しかった訳ではないのだけれどなんだかそのまま飲みに誘われて、断れなくて、代金も現金をおろしてくるの忘れたとかいって多めに払わされた挙げ句、少しお宅で飲み直したいなんて言われて、泊まりたいって言われたので仕方なく泊めたのに朝、目が覚めたときにはいなくなってた。そんなことを実和子は一気に思い出していた。
「ああ、玉恵さんていうんですか…、ほら、ボクはほとんど家にいないんですよね、割と働き詰めていましてね、夜、かなり晩くに帰ってきて、朝も割と早くに出かけてしまう。もう、そんな生活は終わりにしたんですけどね。」
なんだか寂しそうな横顔で関口は話を続けた。その日、関口は終電で帰ってきたらしい。自室へと向かっているところ、隣の部屋から出てきた女性が自分に向かってやって来る。その女性は柄の入ったスニーカーを履いていて、だのに手には履きつぶしたようなパンプスを持っている。酔った様子にも見える。関口は迷ったそうだ。声をかけていいものか、放っておいた方がいいのか。でも、こんな真夜中に酔ったような女性が、靴はちゃんと履いてるのに手にスニーカーだけ持っているのはおかしいと思って、思い切って声をかけたそうだ。
「あのぉ、」
「ごめんなさいッ!ごめんなさい。ごめなさい。」
そう言いながら女性は柄の入ったスニーカーを脱いで関口に渡し、持っていた汚れたパンプスを履いてよろけながらもエレベーターに乗って行ってしまったそうだった。
関口はスニーカーを返そうとウチを何度か訪ねたらしいが、平日はもとより週末も時間が合わなかったとのこと。あるときやっと六〇五号室に入ろうとした女性を見かけたものの、あのときのあの人とはどう見ても違う。暗かったからか、見間違えたのか、視力がよくないからか、女性は化粧や洋服で大きく違って見えることが多々あるからかなどなどいろいろ考えてみたけれど、どうしたってあのときの女性とは違う。どうしたものかと迷っていたら、ついつい返しそびれて、でもいつでも返せるようにと玄関に置いたそのままにしていまに至ったという訳だった。扉の前に置くのもあれだし、宅配ボックスへ入れるのもなんだしなんて、関口は本当にいろいろ考えていたそうだ。
へー、そんなことがあるものかと実和子は考えていた。
「すごいですね。そんなこと、あるものなんですね。」
若宮が笑った。
「ねぇ。」
関口も笑った。そしてつられて実和子も笑うしかなかった。
朝っぱらからこんなに立ち話を長々したりして、会社には確実に遅刻してしまうなと思ったら、もう笑うしかなかった。