序話
三百六十度を地平線に囲まれた、どこまでも広い草原。
はるか遠くに望む山脈や森の影の他には、大地を覆いつくし風に揺れる柔らかな草花と高く透き通った大空のみがこの場所にある全てだった。……だが、そんなピクニックに最適な場所も、今回ばかりは酷く物々しい雰囲気に包まれている。
硬い金属に包まれた数え切れないほどの軍靴が行進し、だというのにたった一対の足しかないように一つの足音を踏み鳴らす。圧倒的に洗練された幾千幾万もの足並みは、ただの一瞬もリズムを崩さず。
土煙をあげ、陽光を反し鈍色に光る鎧を纏った一万八千の軍勢が、草原のほぼ中央に集結した。
「止まれ」
先頭を歩く、一人豪奢な鎧を纏う兵士が小さくつぶやき、左手を上げる。その瞬間、全ての音がやんだ。
同時に、草原の彼方が陽炎のようにゆがみ、足の裏に感じる地面が振動を始める。
――魔物の軍勢が、ついに稜線を越えてきたのだ。
「ようやく、このときが来ましたわね」
ふと、場違いなソプラノの声が響いた。
「はっ、接敵までおよそ半刻ほどかと思われます」
豪奢な鎧の兵士が恭しく敬礼をする先、景色がまるで絵の具を掻き混ぜるかのように歪む。そして、ぐにゃりと混ざった景色に水面の波紋を思わせる揺らぎが現れ、そこからゆっくりと真紅のロングドレスに身を包んだ少女が現れた。
年のころは十七、八といったところだろうか。緩くウェーブのかかった、太陽の光をつむぎだしたような金の髪に、壮麗さを伺わせる鋭いながらも大きな青い瞳。たとえ彼女を知らない人間がここにいたとして、その神秘的で神聖な雰囲気とドレスに施された金銀様々な刺繍からも、その少女がかなり高い地位にいることと予想できるだろう。
――それも当然だ。彼女は、この兵士たちの所属する国の王女なのだから。
「彼奴らの数は?」
王女の声は凛々しく、まるで森の木々を抜ける風のように響き渡る。
「目算で五万から七万との報告が入っております」
「こちらの数倍ね。……歴史上、これだけの大差を覆した戦いなどあったかしら?」
「いえ、自分の記憶している限りでは」
王女の赤いルージュを引いた薄い唇が、にやりと持ち上がった。そして、兵士たちを振り向くと、その細いながらのすべてを包む込むような両腕を開いて。
「なれば、わたくしたちは歴史書に名を残すことになりますわね。大いなる魔法を用いて、巨大なる魔に勝利した、偉大なる者たちとして!」
瞬間、大気を揺るがす鬨の声があがった。すべての兵士が剣を抜き、天に掲げる。
「さあ、行きますわよ!」
王女が腕を振り上げる。
同時に、彼女の体から白い光があがった。足元に円形の幾何学模様が光で描かれ、回転を繰り返して広がっていく。
限りない数の光の線が地を走り、次々と複雑な模様を形作っていく。
風が王女を包むように吹きすさび、目に見えない何かが歓喜の声を上げた。
「目に物見せて差し上げますわ、薄汚い魔物ども!」
地平線の向こうには、すでに黒い何かが蠢いていることが見て取れる。
魔物の群れだ。
得体の知れない、人間の感性では到底理解できないような造形の異形たち。
本来ならば、ただの一体でさえ数人がかりで退治しなければならないような強さを持っているやつらが、ほんの目と鼻の先に数万という単位でこちらへ向かってくる。それは、普通の人間ならばその事実だけでショック死しかねないほどのことだが、今ここにいる兵士たちの心には大きな希望がわきあがっていた。
「ぐ……ああっ!」
体中のありったけの魔力を、足元に広がる魔法陣に流し込む。
王家に伝わる、空間に干渉する大魔法。それは、王の血を引き常人よりも遥かに大きな魔力を持った王女でさえも、身を引き裂かれるような痛みに耐えて魔力を搾り出さなければ発動さえままならない。
ビリビリと、体中の何もかもが吸い取られていくような感覚。
神経を集中し、何年もかけて修得した術式をくみ上げていく。
そして――
「完成……しましたわっ!」
最後の線がつながったその瞬間、魔法陣から天にも届くような光が立ち上った。
まるで神が降り立ってくるかのような膨大の光の中、王女は笑った。大きく、魔物たちにも届くほどに。
「このときを、この一瞬を、夢にまで見ましたわ! わたくしの人生をかけた大魔法!」
――勇者召喚陣。
同時に爆発したかのように溢れ出した光は津波のように、瞬く間に草原を覆いつくした。
▽
秋の夜長、部屋でカーペットの上に寝転がってテレビをBGMに小説を読む。それが、山瀬直太郎のここ最近の過ごし方だった。
暑くもなく寒くもない、春に次ぐ良い季節。もっとも、春以上に寒暖の差が激しく、あと一、二週間もすれば暖房が欲しくなってくるのだろうが。花は散るからこそ美しいというか、セミの最後の一週間というか、そういったごく短い時間でしか味わえない至福がやけに心地いい。
テレビの雑音が小説への集中を妨げ、なかなか頭に小説の内容が入ってこないが、そんな無駄だと思える時間を浪費することがなんとなく楽しかった。
要するに、彼は少し変人だ。
この無為に間延びした時間を過ごすために、秋の京都に旅行に行こうという風情ある大学の友人の誘いを断っているのだから尚更だろう。もっとも、その友人も彼のそんな妙な性格を知っているのか、なんとなくそう言う気がしてた、などといって笑っていたのだから、類友、というやつなのかもしれないが。
「あー……眠い」
一時間ほど寝転がって凝った背筋を伸ばしながら、直太郎は読みかけの本にしおりを挟んだ。表紙に際どい衣装を纏った女の子の絵が少し痛々しい、いわゆるライトノベルというやつだ。
彼は様々な本を読む。ファンタジーやミステリーに始まって、サスペンスや海外の古典SF、純文学に論文から哲学まで。そして最近微妙にはまっているのが、彼の友人が好んで読んでいたライトノベルだ。
確かに、文章力という点では、物にもよるが物足りないところはあるかもしれないし、何でそうなるんだという展開や、理解しづらい妙に複雑な設定など、直太郎の今まで読んできたいろいろとかけ離れた内容だ。
だが、彼はその中に夢を感じた。
こうだったらいいな、ああだったらいいなという、子供のころに憧れた気持ちが、大人になるまで熟成されて形になったもの。そんな懐かしい何かが、妙に気に入ったのだった。
「異世界とかいけたらなー、さぞ楽しいんだろうな」
いま直太郎が読んでいたのは、一介の高校生が、何かの弾みで異世界に行ってしまってどうのこうの、という物語だ。
剣や魔法が当たり前のように存在して、怪物がいて、神秘的なドラゴンが喋りかけてきて、そして主人公は己の中にある不思議な力を使って世界を救っていく。
誰もが一度は夢見たような物語。
そんな世界、きっと楽しいに違いない。
サンタクロースは空を飛ばないと知っていても、いて欲しいと思うのが人間。ないものこそ欲しくなる。当たり前にあるようなものの価値に気づかずに、手を伸ばして夜空の星をつかみたいと願う。
「……ま、どうでもいいか」
もう夜も遅い。
直太郎は立ち上がって、風呂にでも入ろうかとタンス代わりのカラーボックスから服を出そうとして……。
「ん?」
机の上の携帯電話が、流行りのJポップを奏でた。手にとって見れば、ディスプレイに表示されたのは旅行中の友人の名前だ。
通話ボタンを押し、携帯を耳に当てる。
「よお、どうかしたか?」
『いやいや、山瀬が一人で寂しい思いしてるんじゃないかと思ってね』
そう言う友人の声に混じって聞こえてくる、聞き覚えのある喧騒。時間的に、おそらく宴会か何かの最中なのだろう。そういえば、友人の声にも少しばかり酔っているときのそれを感じた。
「んなこといって、自慢したいだけだろうが」
『そんなことないっての、土産代わりに楽しさをお裾分けー』
「いやそんなのいらんから、ちゃんと土産は買ってこいよ。食い物とか食い物とか」
『分かってんよー、ちゃんと今朝に生八橋とか買っといたから。超新鮮』
「四泊の最初にそんなもん買うなよ……」
『あはははー、冗談冗談。嘘をつかないことインディアンの如し、しっかり買ってくから心配すんなー』
それからおよそ二十分の間、友人は酔っ払いのテンションのまま喋り続け、直太郎はそれを鬱陶しく思いながらも辛抱強く聞き続けていた。
時計の針はゆっくりながらも確実に進み、時刻はもうあと数分で零時を回る。
「おい、そろそろ十二時回るから切るぞ。もう結構眠い――」
そのとき、僅かに足元が振動しているのを感じた。
『ん? どした?』
地震とはどこか違う、小刻みな揺れ。どこかで道路工事でもしているかと一瞬思ったが、いまは夜中の零時だ。
揺れは続き、収まる気配はない。
それどころか、だんだんと揺れはその大きさを増していっているように感じた。
『おーい、なんかあったのか?』
電話口から聞こえてくる声に、直太郎は我に返る。
「あ、ああ、いや、さっきから何かおかしいんだよ」
そう言っている間にも、揺れはさらに大きくなる。
そろそろ、まともに立ち上がれないかもしれない。
しかしそこで、直太郎はおかしなことに気づいた。揺れは大きくなるし、もう震度で言えば四や五と言っていいくらいだが……部屋の中のものは、何一つその場所を移動していないのだ。まるで、自分自身だけが揺れているように。
一瞬、疑ったのは、何かの病気か。それとも、子供のころにブランコから落ちたときに打った頭が、いまさらながらにおかしくなったのか。
そんなことを考えている間に、ピタリと、揺れが止まった。それこそ、まるで何もなかったかのように。
『大丈夫か?』
「ああ、たぶんもうだいじょ――」
――光。
目の前から見慣れた部屋の景色が一瞬にして消え去り、白に塗り潰された。
かつて戦争物の映画で見た、スタングレネードを思い出す。
そしてまた一瞬で、光は消える。
カシャン、と軽い何かが落ちる音がした。
『え、お、おいっ、どうしたっ? 直、直っ!』
落ちたのは、直太郎が手にしていた携帯電話。だがしかし、電話口で友人が声を上げても、それを直太郎が拾い上げることはなかった。
部屋に残ったのは、携帯のディスプレイに映った、橘美穂という名前。
それだけが、寂しく光っていた――