第2話 悪女様、こちらの準備は整っておりますよ
――いつの間にか眠っていたらしい。明かりを消すと眠くなるというのは過保護に育てられた長年の習慣からリティアに刷り込まれたものだった。
瞼越しで部屋が明るいのがわかった。……朝だ。
コンコンとドアがノックされ、頃合いをみて侍女ミリーが入ってきた。
「おはようございます、お嬢様。……まぁ、少し目が赤くなっているのではありませんか……夕べは」
ミリーは一瞬で目ざとくリティアの小さな異変を察知する。
「大丈夫よ、いつもと変わりないわ」
リティアはこの後にミリーの小言が続く前に遮った。夕べ考え事をして(いつもよりは)眠るのがお遅くなったなどと言ってしまえば今度からもっと早く寝台に押し込まれるに違いなかった。さっと目を逸らしたというのにミリーはじっくり観察する目を緩めることは無かった。
「まあいいでしょう」
腰に手を当ててミリーはおおよそ納得したようにいつものようにリティアの身支度を始めた。実に無礼な対応にも思うがミリーは完璧にまでにリティアを管理し仕える、リティア以上にリティアをよく知る人物だった。信仰レベルのリティアファーストなミリーにリティアは任せるより他なかった。なぜならそれが一番平和に時間が過ぎるからだ。
もう、過保護なんだから。そうは思うがリティアはミリーの忠実な献身に弱いのだ。
「さぁ、では顔をお洗いになって。本日はヴェルター殿下とお会いになる日ですからね」
「……はい」
月に一度王太子が公爵家のリティアへ訪問することになっている。公式ではない分、堅苦しいものではないが、年々、特にここ最近はあまり良い雰囲気とは言えなかった。この訪問以外にもリティアは宮廷への立ち入りを許可されていたが、社交の場である庭園に顔を出す程度でヴェルターに謁見は求めていなかった。そう、この日は婚約者とはひと月ぶりの逢瀬――になるのだろうか。幼い頃はヴェルターとの時間が待ちきれないほど楽しいものであったのに。
ここでため息でもつこうものなら、すぐさまミリーが熱でも測りに駆け寄るだろうとリティアのため息は手水の中に消えて行った。ミリーの用意した心地よい水の温度に感心していると、絶妙なタイミングで渡されたやわらかなリネンで顔を拭った。
「さあさ、今日はお部屋で朝食を召し上がっていただきますからね。殿下とのティータイムまでに食べ過ぎてはいけませんから」
ミリー自ずから運んできた朝食は量は少ないながらもバランスも彩もよく、リティアはいつものことながら関心しきりだった。
リティアの控えめな朝食が終わるころには着替えも用意されていて、そのドレスもまたリティアが今日のドレスはそれがいいと伝えようとしていたものだった。……婚約破棄はいいけれど、ミリーが居なくなるのだけは困るわね。リティアはミリーのブラシに後ろに髪を引っ張られながらそんなことを思った。
◇ ◇ ◇ ◇
王太子来訪の知らせを受け、侍女に続いて貴賓室へと向かう。待たせたところで嫌な顔などされるわけもないが、旧友のような婚約者は時間を持て余したのか窓の側に立ち庭園を見ていた。広い窓から差し込む光が、銀糸単色の刺繍を施した白のロングコート、ウエストコート、それから彼の真珠の髪が艶やかに跳ね返していた。……眩し、い。盛装ではない訪問着だが麗しい装いにリティアは目を細めた。
リティアに気が付いたヴェルターは、リティアが形式ばった挨拶をするより先に声を掛けた。昔からの愛称で呼ばれれば、自分にもそうして欲しいという合図であり、王太子にとっても気さくな時間であった。
「やぁ、リティ。……そのドレス、とっても、よく似合ってる」
春らしいアイルトーンブルーを基調に白いレースがたっぷり使われたドレスはリティアの愛らしさを強調していた。リティアが微笑むと、ヴェルターの秋の空にさらに薄雲をかけたようなアイシーブルーの瞳が揺れ、長い睫毛が二、三打ち合わされた。微笑みあうだけの時間が過ぎる中、ミリーがそつなくティータイムを仕切っていた。やがて二人を残しミリーが部屋を出て行くまで二人は口角を下ろさなかった。
リティアはヴェルターが顔には出さずに安堵していることに気が付いた。カップにお茶が注がれていれば、カップを口へ運ぶ間は会話を探さなくて済むのだから。
いつからだろうか、探さなければ会話がなくなってしまったのは。リティアはカップに口づけるヴェルターを盗み見る。とんでもない美男子だ。この国は、リティアの知る限る従事や庭師、平民でさえ容姿の整った者は多い。お国柄だろうが、その中でもヴェルターの光を跳ね返すまばゆい容姿は珍しく、抜きんでたものであった。一目で王族の血縁かとわかる高貴な髪と瞳の色。
簡単な近況報告と、出されたお茶や磁器に意見を言い合い、それが終わるとまた沈黙の中、お茶をすする。
会話を探すのはヴェルターだけでなくリティアもだった。先ほど、ドレスを褒められた時に自分は婚約者を褒めなかったことを思い出し、良い会話を見つけたとばかりに口を開いた。
「今日は一段と素敵ね、ヴェル。窓の側に立ってたでしょう? 光を受けて真っ白で妖精と見まがうくらいだったわ」
「はは、そう? 君だって、春の知らせが入って来たのかと思ったよ」
ヴェルターは微笑んだが、この会話はあまり好ましくなかったのかふいっとリティアから視線を逸らしてしまった。まただ、とリティアは思った。ヴェルターはリティアから視線を逸らすことが多くなったように感じる。目の前の王太子は感情を表に出さないことに長けていた。それでも気づくのはリティアが昔の彼を知っているからだろう。